『ToR - Promise Horizon -』(第七稿)
プロローグ:長い眠り
最初に届いたのは、
肉が焦げたときのようなにおいだった。
人間の鼻はそれを
食欲として処理するように作られている。
だが夢の中でそれを嗅いだとき、
久我山大地(24)は
条件反射で目を覚ました。
深夜二時。
病院の椅子に座ったまま、首が痛い。
それが夢だったと気づくまで、数秒かかった。
目をこすり、乾いた口の中に唾を作ろうとしたが、
喉がひりついて上手くいかなかった。
ガラス越しに、無菌室の白いベッドを覗き込む。
妹のあかりは、今も目を閉じている。
三週間と二日、彼女はずっとそうだ。
心拍モニターの電子音だけが、等間隔に鳴っている。
夢を見ていた。
正確には、自分の夢ではなかった。
あれは他の誰かの経験で、
誰かの皮膚が熱風でひび割れていく感覚で、
誰かの喉から絶叫が漏れていくのを
大地は内側から聞いていた。
空が赤く染まり、
火の壁が地平線の向こうから迫ってくるのを、
大地は二本足で立ちながら見ていた。
だが、その足は自分のものではなかった。
硬質な鱗に覆われた、爬虫類の足だった。
仲間たちが叫んでいた。
「空を撃ち落とせ。この大地を渡すな」
威勢のいい言葉だったが、声には絶望が滲んでいた。
炎の壁を前にして彼らは武器を構え、
それでも一歩も退かなかった。
大地はその場にいて、その意地の中にある痛みを、
まるで自分のことのように感じていた。
クロニウムという言葉を聞いた時、
床が崩れ落ちそうな感覚を覚え 大地は飛び起きた。
「……また」
もう、何度目だろう。
あかりが倒れた日から、毎晩のようにこれが来る。
大地は椅子を引きずって 無菌室のガラスに近づき、
額をそっとつけた。
ガラスは冷たかった。
向こうで、あかりの胸がかすかに上下している。
十七歳の妹は、三週間と二日前、
大学の理学部の実験室で倒れた。
研究助手のアルバイトをしていたあかりは、
ある物質の実験中に事故に遭った。
手袋が裂けて指先に結晶が触れた、
たったそれだけのことだった。
だが接触した瞬間に意識を失い、
そのまま一度も目覚めていない。
物質の名称は、クロニウム。
自然界には存在しない、未同定の結晶体で、
理学部の教授も、その正体を把握していなかった。
どこかの学会発表の試料が混入した可能性がある
という説明だったが、入手経路は不明のままだ。
細胞の自己崩壊が緩やかに進行している
という診断があるだけで、
原因も、治療法も、見当たらない。
クロニウム。
その単語を手がかりに、
大地はこの三週間、あらゆる文献を漁った。
学術論文のデータベース、
陰謀論的なウェブサイト、
量子物理学の専門書。
ほとんどは空振りだったが、
一つだけ、繰り返し浮上する名前があった。
韮山健太郎。
量子物理学者。元・大学教授。
十年前に学術界を「追放」された経歴を持つ。
現在は都内の外れで、民間の研究を続けている。
彼の発表した論文——査読は通らなかったが——には、
クロニウムの特性について、
他の誰も書いていないことが書かった。
「クロニウムとは、時空の記録層が物質化したものである。
これに接触した生体は、 宇宙の記録層との通信チャンネルを開く」
読んだ最初は、 頭のおかしな人間の書き物だと思った。
だが、夢の中で届くあの単語を、
大地は別の文脈では説明できなかった。
翌朝、大地は韮山の連絡先を調べ始めた。
韮山の研究所は、 旧市街の工場跡地の地下にあった。
表向きは「先端医療研究所」を名乗っていた。
看板は錆びていたが、
インターホンには 「来訪者歓迎」とシールが貼ってあった。
地下へ降りる階段は、 むき出しのコンクリートで、
電球が一つ、頼りなく揺れていた。
だが扉を開けた先は、異様な光景だった。
天井まで伸びるサーバーラック。
這い回るケーブルの束。
モニターが十数台、異なるウィンドウを映している。
その真ん中に、分厚いアクリルガラスで覆われた、
おとな一人が横になれるほどのカプセルが鎮座していた。
「久我山くん、でしょ。メールを読んだ」
五十代後半と思われる男が、
コンソールに向かったままそう言った。
白衣は着ていたが、
上から薄汚れたカーゴベストを重ねている。
後頭部の髪が薄く、 神経質そうに指が動いている。
「……韮山先生、ですか」
「先生はやめて。韮山さんでいい」
振り向いた顔は、思ったより若々しかった。
だが目の下に深い隈があり、
長期間の睡眠不足が顔に刻まれていた。
「妹さんの件は聞いた。
クロニウムへの接触、か。
それで、どんな夢を見てる」
大地は少し驚いた。
「どうして夢の話を」
「クロニウムは時空記録層の結晶化した破片だ。
接触した生体は、 そこに蓄積された記録の受信を始める。
妹さんの脳は今、その洪水の中にいる。
意識が戻らないのは、
情報量が多すぎて
神経系が防御シャットダウンしているからだ」
韮山は淡々と、まるで天気予報を読み上げるように言った。
「あなたも受信している。
ただし妹さんとの量子的な共鳴経路を通じて、
断片だけが届いている。
だから夢になる」
「……信じろと?」
「信じなくていい。
ただ俺の理論が正しいとしたら、
妹さんを目覚めさせる方法は一つだ」
韮山は立ち上がり、カプセルに手を置いた。
「受信の暴走を止めるには、
送信側の根本を修正しなければならない」
大地は手の中の汗をズボンで拭った。
「つまり、あれに入れと」
「被験者になってくれるなら報酬は払う。
ただし保証は一切できない。
俺の研究は、まだ仮説の段階だ」
「妹が治る可能性は」
韮山は少し間を置いた。
「ゼロではない。
それ以上のことは言えない」
大地は薄い実験着に着替え、
カプセルの中に身を横たえた。
内部は白くコーティングされており、
横になると想像よりも広かった。
「接続を確認する。動かないでくれ」
韮山がセンサーを大地のこめかみに貼り付けながら、指示を出す。
画面には波形が走り始めた。
「何か注意することは」
韮山がコンソールに向かいながら、少し考えた。
「見たものを、全部記憶しておけ」
「何を見るんですか」
「分からない。
ただ、夢の中で起きることは嘘じゃない。
お前が見るものは、
お前より先に誰かが実際に経験したことだ。
それだけは覚えておけ」
大地が何か答えようとした時だった。
扉が、外側から吹き飛んだ。
頑丈なはずの防爆扉が、
まるでカードのように折り曲がって
室内に倒れ込んできた。
倒れかかった扉の向こう、
煙の奥には、五人の人影が見えた。
完全に密閉された白いスーツ。
ヘルメットは顔を覆っていたが、
バイザーのフィルターの向こうに、
縦に割れた瞳孔が光っていた。
爬虫類の目。
夢で見た、あれだ。
「来やがった!」
侵入者たちが何かを向けた。
プラズマ状の光が、 コンソールの脇の壁を焼き抜く。
韮山は転がるようにそれを避け、
大地の入ったカプセルにふたをした。
その瞬間、カプセルは床下へと沈み、
床の分厚い鉄板が閉じられた。
「未来に行け!」
韮山が何かを怒鳴った気がしたが、
カプセルの内壁を伝う振動だけが届いてきた。
冷却ガスが噴出した。
白い霧が視界を塗りつぶし、
極低温の空気が肺を締め上げた。
意識が落ちる直前に、
バイザー越しの縦割れした瞳が
大地を見下ろしていた。
夢の中にいた、あの目だ。
暗闇が落ちてきた。
第一幕:失われた未来
肺の中で、無数のガラス片が砕け散るような激痛が走った。
「ガハッ……、ゲホッ、オォォ……ッ!」
凍りついていた気管が急激に解凍され、
大地は粘ついた胃液をカプセルの床にぶちまけた。
視界が戻ってきた時、 そこに広ていたのは、
韮山の研究所の天井ではなかった。
天井がない。
いや、あることはあった。だが崩れていた。
コンクリートの梁が斜めに倒れ、
その隙間から土が落ちてきている。
周囲は崩れ落ちたコンクリートブロックのガレキの中に
所々錆びて黒ずんだ金属が突き出ている廃墟で、
大地の入ったカプセルだけが、
埋葬されたように泥の中に半分沈んでいた。
「……何年、経った」
とつぶやいてみた時、
辺りには人っ子一人いないことに気がついた。
体が動くまでに時間がかかった。
大地は慎重に廃墟の中を這い、
かろうじて残っていた鉄梯子を登り、
地上へと頭を出した。
空を見た。
鉛色をした薄暗い雲の隙間からは
かすかな光が差し込んでいて、
赤黒いスモッグが
いくつも立ち上っているのが見えた。
地平線の先には、
黒っぽい異様な建築様式の塔群が見えた。
幾何学的な模様を繰り返す黒曜石のような壁面を持ち、
窓の位置も大きさも、
人間の生活を想定して 設計されたものには見えなかった。
のどが渇いた。
舗装された道路を見つけた大地は
塔群の方向へ向かって歩き始めた。
街に近づくほど、人影が増えてきた。
ただし、全員が同じ色のくすんだ作業着を着ていた。
首の後ろには何かのタグが張り付けられていた。
近くを通り過ぎる男の後頭部には
なぜか不気味なバーコードがプリントされていた。
話をしているものは一人もおらず、
また、目を合わせてもいなかった。
列をなして歩く彼らの顔に、
表情と呼べるものはほとんどなかった。
疲労や倦怠よりも深い何か、
諦めとも違う、
感情そのものが磨耗した顔をしていた。
その様子をにらみつけるように、
白い特殊なスーツを着込んだ兵士が
二人立っていた。
スーツにはつなぎ目がなく、
外界とは完全に遮断されていた。
視界をさえぎるバイザーの奥には、
不気味な縦割れした黄金色の瞳が見えた。
研究所に押し入ってきた、あいつらだ。
大地はうつむいて、
人の波にまぎれて歩いくことにした。
道路の先に目をやると、作業着を着た男たちが、
どこかの施設へ向かうように整然と動いていた。
道路脇には、大きな電光掲示板が設置されていて、
爬虫類をかたどったシンボルが光り、
その下にメッセージが流れていた。
近寄って読んでみると英語に近かったが、
見覚えのあるアルファベットとは微妙に変化していた。
「今日の生産ノルマ達成率」
という文字だけが読み取れた。
大地は人波に乗りながら、
内心で状況を整理しようとした。
韮山は「未来へ行け」と言っていた。
だが韮山自身は、
説明をしていた装置を制御できていなかった。
「おい不適合者だ!認識タグを提示しろ!」
背後から、不自然な合成音声が響いた。
ドキッとした大地は、反射的に走り出した。
背後で警報が鳴り始め、
通行人たちが静かに道を開けた。
誰も大地を助けようとしなかった。
また、誰も止めようともしなかった。
ただ壁のように、道路際に立ち尽くしていた。
路地に曲がり、また曲がり、廃品の山を飛び越えた。
膝がガクガクしていた。
百年分の休眠で、筋肉がまだ戻っていなかった。
そして思わずよろけてしまい、
その場でひざまずいてしまった。
ガレキに足を取られて倒れ、
立ち上がろうとした瞬間に背後を向いた瞬間、
奴らの銃口がそこにあった。
「無登録者を見つけた!処理する!」
その瞬間、背後でマンホールのふたが吹き飛んだ。
And、穴から飛び出してきた人影が、 兵士の顔面に何かを叩きつけた。
小さな缶のようなものだったが、 兵士のバイザーが激しくフラッシュしたかと思うと、 スーツのどこかが破れたのか、ゴポゴポとした咳が始まり、 兵士の体はそのまま地面に崩れ落ちた。
「…立って走れるか?」
声は低く、早口だった。
のぞき込んできた顔は、二十代後半の男だった。
切れ長の目、薄汚れたレザージャケット。
だが大地が見たのは、
男の顔ではなく、
その腰に下がった、見たこともない形状の武器だった。
男は手で合図を送りながらマンホールに飛び込み、
大地もそれに続いた。
地下水道は暗く、半分水がたまっていた。
暗い地下水路の中を男は迷うことなく走り、
大地はその後を追った。
重い隔壁の前で止まり、
男はパネルに数字を打ち込んだ。
すると、「入れ」という声が聞こえ、
開いた隔壁の向こうは、水路ではなく、広い空間だった。
天井は高く、数十本のケーブルが
蜘蛛の巣のように張られていた。
簡易的なテーブルや寝床が並んでいて、
七、八人の人間が作業をしていた。
全員が作業着ではなく、
手に入れた様々な服を着ていた。
壁には何かの地図が貼られていて、
「2136年」と書かれていた。
「いま何年ですか?」
男のまゆが、わずかに動いた。
「きみ、名前は?」
「久我山大地です。あなたは?」
「藤堂だ」。
藤堂は、テーブルの端に腰を下ろし、腕を組んだ。
「百年前から来た人間が、今の時代に現れた。
韮山が言い残していた通りだ。」
「あんたが眠りについた日に韮山は死んだ。
奴らに殺された。
だが彼は記録を残していた。
久我山大地という奴が
いつかコールドスリープから目覚める、
そいつは過去の人間だから
歴史の因果に縛られていない、と。」
大地は視線を落とした。
韮山が死んだ。
部屋の空気は重かった。
大地は周りを見回した。
地図の前で作業している若い女、
毛布にくるまって眠っている子供、
回路基板を修理している老人。
「あの変な目の奴らは何者ですか?」
「奴らを呼ぶ名前は色々ある。
俺たちは単純に、レプティリアンと呼ぶ。」
藤堂はコーヒーらしき液体を 二つのカップに注ぎ、
一つを大地の前に置いた。
「奴らは人類が文明を築くよりも前に現れ、
地底で独自の文明を発達させていた種族らしい。
地上に出てきたのは十四世紀ごろで、
ヨーロッパでペストが流行していた頃だ。」
「なぜペストの時代に?」
「あの病が作り出した混乱と恐怖を利用したかったからだ。
人間が最も脆弱な時代を選んで、権力の中枢にもぐり込んだ。
一人ずつ、時間をかけて、入れ替わっていった。
気づいた頃には遅かった。」
大地はコーヒーを一口飲んだ。
藤堂は壁の地図を見るようアゴでしゃくった。
「表向きは人間の都市みたいに見えるが、 全部ヤツらが作った。
その中で、人間は労働力として使われていて、
生産したものは全部ヤツらのものになる。」
「逃げようとしたら?」
「処理される。 死ぬか、どこかへ連れていかれるか。」
低い声で言って、藤堂はカップを置いた。
藤堂は少し間を置いた。
「……韮山の記録には、
過去から来た人間を、 タイムマシンに乗せろ。
そいつに頼め。 そう書いてあった」
「奴らを追い払うには、根っこから断つしかない。
奴らが歴史に介入し始めた時代——
十四世紀のヨーロッパへ戻って、
その足がかりを潰す。」
「タイムマシンがあるのか?」
「ある。ただし、未完成だ」。
藤堂は大地を、
基地の奥の部屋へ案内した。
部屋の中央に、
直径三メートルほどのリング状の機械があった。
青白い光を放ちながら、
低い音を立てて稼働していた。
「韮山の基礎理論を元に、
俺たちが三十年かけて組み上げた。
奴らの技術を少しずつ盗みながら、な。」
「大まかな時代と場所は指定できるが、誤差が大きい。
そして最大の問題は……」
藤堂はリングを見上げた。
「俺たちはもう、奴らの歴史の因果に取り込まれている。
この時代の人間が過去に戻って
奴らの歴史を変えようとすると、存在が消える。
因果律のパラドックスだ。
俺たちには、自分たちの歴史を変えることができない。」
大地はリングを見た。
青白い光の中に、揺れるような歪みがあった。
空気が屈折しているように見えた。
あの向こうに、過去があるのか。
「中世のヨーロッパへ行って、奴らの足がかりを潰す。
それで、この百年後の世界が変わるのか。」
「変わるはずだ。
だが、変わった世界に
俺たちが存在しているかどうかは分からない。」
「あんたたちが消えるかもしれない。」
大地は藤堂を見た。
「妹がいる」
大地は言った。
「2026年に。病院で眠っている。
俺がここに来た理由も、それだ。」
「知っている。」
「あかりを目覚めさせるには、どうすればいい。」
「歴史の根本のゆがみが修復されれば、
彼女の状態も安定するはずだ。
クロニウムが記録している「エラー」の量が減れば、
受信の暴走も止まる。」
「……はずだ、か。」
「俺には確約できない。
だが、それ以外に方法はない。」
大地は目を閉じた。
地上で見た光景が浮かんだ。
「分かった」
大地は立ち上がり、 それを見た藤堂が、静かにうなづいた。
第二幕:黒死病の街で
タイムスリップ中の感覚は、説明するのが難しい。
体が解体されて、再構成される感じではなかった。
むしろ意識だけが一瞬、
完全な暗闇に放り込まれるような感覚で、
その暗闇はほんの一瞬のはずなのに、
何年分かの時間が詰まっているように感じた。
そして、においで時代を認識した。
腐敗と泥と何か有機的なものが混じった、
重く湿った空気。
大地は固い石畳の上に膝をついていた。
夜だった。
街灯など存在しないが、
窓から漏れる蝋燭の光が、
石畳に黄色い模様を描いていた。
頭上に星があった。
百年後の世界の鉛色の空では見えなかったが、
満天の星空がここでは見ることができた。
立ち上がり、周囲を確認する。
石造りの建物が密集したせまい路地。
道幅は、両腕を広げたくらいしかない。
藤堂に渡された修修道士のローブを頭から被り直し、
大地は街の中心に向かって歩き始めた。
人影は少なく、一様に鼻と口を布でおおっていた。
街の広場へと差し掛かった時、
不穏な噂を囁き合う
現地の住民たちの声が耳に届いた。
奇妙な病が流行り始めていること。
そして、その死の恐怖を煽り、
民衆を支配しようとする謎の宗教結社が、
この街の修道院を乗っ取ろうとしていること。
人々は「囚人のジレンマ」の罠に陥っていた。
結社に逆らえば
真っ先に病の治療(聖水)を拒絶されて死ぬ。
かと言って従えば、
奴隷のように全てを毟り取られる。
誰もが他者を出し抜き、
自分だけが助かるために
結社へ密告しようと互いを監視し合っていた。
そんな住民たちの間を歩いていると、
怪しい修道士の一団に出くわした。
一人の修道士がうっとおしそうに
フードを手で払いのけようとした時、
波打った布地の奥から、
あの不気味な目が見えた。
少し距離をおいてつけていくと、
丘の上に建つ古びた修道院が見えてきた。
石の外壁が高く、まるで城のような造りで、
入り口には夜番の修道士が立っていた。
大地は外壁に沿って半周し、裏側へ回った。
壁一面がツタにおおわれている場所があった。
ここからなら登れる。
息を殺して外壁を登り、壁の内側に降りた。
修道院の内部は、静まりかえっていた。
深夜の礼拝堂には人影がなく、松明だけが揺れている。
扉を空けて中に入ると、そこは完全に、無臭だった。
壁の境目を指でなぞると、
石と石の隙間が、 透明な何かで完全に塞がれていた。
十四世紀の修道院の石の隙間に、
透明な樹脂が充填されている。
この時代に、そんなものがあるはずがない。
大地は天井を見上げた。
通気口が見えた。
ここからなら内部が見える。
古くなった格子を音を立てないようにして外し、
暗い通気路をはって進んだ。
光が漏れている。
格子の隙間から下をのぞくと、
そこは広い部屋で、
円卓を囲むようにして、
六人の修道士が座っている。
部屋の中央には、円筒形の機械が置かれていた。
高さは一メートルほど。
表面には細かい模様が刻まれていて、
そこから青白い光を静かに発している。
低い駆動音が、部屋全体をわずかに振動させていた。
そして、修道士たちの会話が聞こえてきた。
それは、摩擦音と高低差で構成された言語だった。
昆虫の羽音を高度に制御したような、
人間の声帯では出せない種類の音だった。
大地は息を止めた。
修道士の一人がフードを外した。
顔の皮膚と、首の付け根の間に、ずれがあった。
一見すると人間の顔に見えるが、
その境目から、硬質なウロコがのぞいていた。
目が、光を受けて縦に割れた。
百年後の街で見た、あの目だ。
大地は格子を握る手に力が入るのを感じ、
意識してゆっくりと呼吸した。
奴らの会話から、
大地が理解できる音は少なかった。
だが時折、人間の言語に近い単語が混じった。
「浄化」という音、
「猿」という音、
「楽園」という音。
円筒形の機械に、奴らの一人が触れた。
機械がわずかに音を変えた。
大地はその機械を見た。
奴らの会話に、
何度も「浄化フィルター」に相当する音が出てきた。
機械はそれを指して言われていた。
大地の頭の中で、
これまで見た光景がつながり始めた。
百年後の世界でも、
奴らは完全密閉のスーツを着ていた。
十四世紀の修道院でも、奴らは同じことをしている。
(弱点が分かった)
(あいつら……「免疫力」が極端に低いんだ!)
途方もない時間を地底の閉鎖空間で過ごした代償。
彼らは超文明を手に入れた代わりに、
地上のウイルスや細菌に対する抵抗力を完全に失っていたのだ。
ペストの蔓延前夜、
この不衛生な環境の空気そのものが、
彼らにとっては
触れてはならない猛毒だった。
だからこそ、彼らは
自分たちだけが助かる「無菌室」を独占し、
人間社会の恐怖を
裏からコントロールしようとしていた。
大地は通気路の中で、体勢を変えた。
現地の人間たちを恐怖のジレンマから救い出すには、
この秘密を白日の下に晒す「公正な正義」しかない。
大地はポーチから、
藤堂に渡された小型のEMPデバイスを取り出した。
(考えている時間はない)
大地は格子越しに、デバイスを落とした。
——カン、という金属音がした。
部屋の中で、動きが止まった。
デバイスが床を転がり、円筒の機械のそばで止まった。
「何だ」
修道士の一人が立ち上がった。
デバイスが、光った。
強烈な電磁パルスが、
密閉された部屋の中で乱反射した。
円筒の機械の光が揺れ、
静かな駆動音が悲鳴のような音に変わり、
そして止まった。
大地は通気路をはって戻り、廊下に飛び降りた。
そして、出口に向かうのではなく、
その部屋の扉に向かった。
扉を蹴り開け、椅子を一脚つかんだ。
そして、部屋の奥の、ステンドグラスの窓へ向かって、
思いっきり振りかぶって投げ飛ばした。
椅子の直撃を食らったカラフルなガラスは粉々に砕け散り、
そこから夜の冷たい空気が、一気に雪崩れ込んできた。
不衛生な中世の、ありふれた雑菌を孕んだ生の空気が、
彼らの作ったセーフゾーンを汚染していく。
奴らの反応は、大地が予想したよりも速く、そして激しかった。
皮膚のマスクの下で、鱗に覆われた顔が苦痛に歪んだ。
「外気が——!フィルターが——!」
一人が武器を構えようとしたが、
咳が止まらなかった。膝をついた。
部屋に立ち尽くし、奴らが崩れ落ちていくのを見た。
「歴史泥棒の結末にしては、随分と惨めだな。」
歴史の分岐点は、今、破壊された。
第三幕:開かれた未来
転送の暗闇が晴れると、中世のにおいは消えていた。
立っている場所は、滑らかな白い床の上だった。
天井が高く、壁全体がガラスで構成されていた。
外には、昼間の明るい光が差し込んでいる。
百年後の赤黒い空ではなく、
青く透き通った空が広がっていた。
窓越しに施設の外を見ると、
そこには近代的な都市があった。
塔群はあったが、
黒曜石のような無機質な壁面ではなく、
ガラスと金属が組み合わさった、
もう少し人間的な造形の建物が建ち並んでいた。
道を歩く人たちも、 くすんだ作業着ではなく、
思い思いの服を着ていた。
首の後ろにはバーコードがなかった。
「転送完了。」
背後から声がした。
後ろを振り向くと、
黒いロングコートを着た女性が、
タブレットを片手に立っていた。
三十代前半くらい。
切れ長の目と、
笑っているのか、冷ややかなのか、
判断しにくい口元。
「藤堂は?」
大地が言った。
「元気よ。随分老けたけどね。」
女がアゴでしゃくった先、部屋の奥のデスクに、
白髪交じりの男が座ってコーヒーを飲んでいた。
一見して別人のようにも見えたが、
目元に面影があった。
藤堂が顔を上げ、大地を見てうなずいた。
「よくやってくれた、久我山大地くん。
君のおかげで、我々はこの管理局という
歴史の防波堤を取り戻すことができた。」
声まで落ち着いていた。
あの鋭い若者の面影は、
表情のしわの奥に少しだけ残っていた。
「ここは?」
「時間管理局、と俺たちは呼んでいる。」
局長になった藤堂が、立ち上がりながら言った。
「あんたが十四世紀の結社を潰したことで、
歴史が本来の軌道に戻った。
奴らは再び地下に引っ込み、
人間の文明は、ここまでほぼ自力で発展した。」
「奴らは今も地下にいるのか。」
「いる。 だがこの時代との力関係は逆転した。
今は、奴らが こちらの動向を警戒している状況だ。」
大地は窓の外の都市を見た。
以前目にした百年後の、あの街とは違う。
白いスーツの兵士も見えないし、
うつむいて歩く人間の列もない。
それだけで、どれほど変わったかが分かった。
「あかりは?」
大地は女性の方を向いた。
「妹さんの脳波は劇的に安定したわ。
でも、まだ目覚めない。」
女性の声のトーンは変わらなかった。
だが言葉を選んでいることは分かった。
「歴史の軌道は修正された。
角の傷はまだ残っている。」
「根本の傷。」
「ええ。」
女性が名乗った。
水原、という名だった。
「あんたが今潰したのは、
奴らが人間社会に入り込んだ入口だった。
でも、奴らがああいう存在になった原因、
そもそもなぜ彼らが地下に潜って 免疫を失ったのかは、
もっと遠い過去にある。」
大地はソファに腰を下ろした。
「どれくらい遠い?」
「約六千五百万年前。」
沈黙した。
「恐竜絶滅の時代よ。
巨大隕石の衝突で地球の生態系が一度リセットされた、 その時期に、
ある種の生き物が地下へ逃げ込んだ。
それが、奴らの祖先だと考えられている。」
「つまり、そこへ行かないといけない。」
「理論的には、そう。」
水原はタブレットを操作し、
年表をホログラムで表示した。
大地はそれを見ながら、
自分の中の何かが
ゆっくりと落ち着いていく感覚があった。
「あかりを目覚めさせるには、
歴史の傷を根本から修復しなければならない。
そのためには、
彼らがこうなった原因の瞬間に戻らなければならない。
私はそう考えている。」
「そこへ行って、何をする。」
水原は少し間を置いた。
「分からない、というのが正直なところよ。
現地で判断するしかない。」
「随分と曖昧な計画だ。」
「そうね。」
水原は同意した。
「だから、私も行く。」
大地は水原を見た。
「あんたは」。
「私は、この時代の人間だから因果に縛られている。
その制約の中でできることをやる。
判断は、あんたに委ねる部分が多くなる。」
「なぜそこまでするんだ。」
質問が出るのは自然だと思ったが、
水原は少し驚いたように大地を見た。
「それを聞かれると思っていなかった。」
「聞くだろう、普通。」
水原はタブレットを下ろし、窓の外を見た。
「私の母が、奴らの支配下だった時代の生まれだった。
私が生まれた時には、もうこの世界だったから、直接体験はない。
だけど母の話を聞いて育った。
食料の配給の列に並んで、
何が入っているか分からないものを食べていた話。
後頭部のバーコードを、 毎朝確認される習慣が、
解放されてからも何年も抜けなかった話。」
大地は黙って聞いた。
「修復されたとはいえ、 歴史の傷が残っている限り、
この世界はいつまた変わるか分からない。
私は、根本から治したい。それだけよ。」
「あかりのこともか。」
「……あなたの妹さんが目覚めることが、
根本の修復と直結している。それは本当のことよ。」
嘘をついているようには見えなかった。
「分かった。」
大地は立ち上がった。
「行こう。」
「準備があるわ。三日待って。」
「急ぐ必要があるのか。」
「あかりさんの状態は安定しているが、
徐々に悪化している。時間はあまりない。」
三日間、大地は時間管理局の施設に置かれた。
藤堂局長と話す時間があった。
地下基地での三日間の印象そのままに、
藤堂は飾らない人間だった。
年を取って落ち着いたというより、
もともとこういう人間で、
若い頃はそれが尖って見えていただけなのかもしれない、
と大地は思った。
「水原を信頼していいか。」
一度、そう聞いた。
「信頼できる。
ただ、あいつは一人で抱える癖がある。
何かを隠しているわけではないが、言わないことがある。」
「どうしてだ。」
「あいつの専門分野は、理論物理学だ。
この局の中で、時空理論を最もよく理解している。
それゆえに、おそらく一番多くのリスクが見えている。」
「見えているが言わない。」
「言っても変わらないと思っているからだ。
あいつは楽観主義者ではないが、 悲観主義者でもない。
確率の低い道でも、
正しい道なら歩くという考え方をしている。」
大地はそれを聞いて、水原への印象が少し変わった。
三日目の夜、大地は施設の屋上に出た。
星があった。
百年後の鉛色の空ではなく、
本来の星の密度で、空が光っていた。
あかりは星が好きだった。
理学部に進んだのも、ロマンというよりは、
自分が存在している宇宙の仕組みを知りたいという
シンプルな動機からだったと言っていた。
クロニウムの実験に関わっていたのも、その延長線上だった。
未知の結晶体。
既存の理論で説明できない物質。
あかりはそれに惹かれた。
「普通の人間は知らないことを知りたがらないでしょ。
でもお兄ちゃんは知りたがるから、ちょっと変わってる。」
そう言って笑っていた。
「お前の方がよっぽど変わってるだろ。」
「わたしは好奇心が旺盛なだけ。」
その声が、消えてから三週間と何日かが経った。
「行くよ」と、大地は空に向かって言った。
それは誰かへの言葉ではなく、自分への確認に近かった。
翌朝、NOAの格納庫へ向かった。
第四幕:天空の神々
「空間転移プロセス、最終段階。
……行き先は、約六千五百万年前」。
巨大な艦橋に、水原の気高い声が響き渡る。
大地が立っているのは、 時間管理局の転送チャンバーではない。
全長数百メートルに及ぶ、移動式のタイムマシン
「NOA」のメインブリッジだ。
「まさか、韮山のおっさんが残した理論の完成形が、
こんなバカでかい船だとはな」
大地は、窓の外で時空が歪み、
光のトンネルが形成されていく様を見つめながら呟いた。
「韮山の遺したタイムスリップの基礎技術は、
当時の素材や演算能力では絶対に形にできなかった。」
コンソールを操作しながら、水原が答える。
「そして今、私たちはこの船で、
レプティリアンという種族が誕生した
『根本の因果』へと向かう。」
激しい重力震。
光のトンネルが弾け、 NOAが実数空間へと実体化する。
——ドォォォォォォン……ッ!!
次元の壁を抜けた瞬間、 艦全体が激しい衝撃に揺れた。
メインスクリーンに映し出された外の景色を見て、 大地は息を呑んだ。
青空はどこにもない。
大気との摩擦で燃え盛る、
直径十数キロにも及ぶ超巨大な隕石が、
まさに地平線の彼方へと激突しようとしていた。
眼下の海は異常な引き潮を起こし、
やがて来る数百メートル級の
「絶望的な津波」の予兆を示している。
地球の生態系が一度完全にリセットされる、
恐竜絶滅の日だった。
「水原! 奴らはどこだ!」
大地が叫ぶが、
水原はスキャナーの計器を見て怪訝な顔をした。
「この先の渓谷に、微弱な生命反応がある。」
箱舟を低空へ進め、
二人はハッチから荒野へと降り立った。
熱風が吹き荒れる中、大地が発見したのは、
身の毛のよだつようなバケモノでも、
プラズマ砲を構える秘密結社の戦士でもなかった。
「……嘘だろ。」
岩陰のくぼみ。
そこに身を寄せ合って震えていたのは、
まだ卵の殻を背中につけたような、
小さな爬虫類——恐竜の赤ちゃんたちだった。
親はすでに逃げ遅れて死んだのか、
彼らだけが取り残されている。
天空が赤く燃え上がり、 大地が揺れるたびに、
彼らはピーピーと甲高い悲鳴を上げて身をすくませていた。
この光景を前に、レプティリアンの指導者層の影が見えた。
彼らは自分たち強者だけが助かるシェルターを極秘に建造し、
この無力な赤子たちを地表に切り捨てて独占しようとしていた。
「生存者は選別されるべきだ。
限られたリソースは、強き者にのみ与えられる」
それは、生き物としての近視眼的な裏切り、
「囚人のジレンマ」だった。
「これが……レプティリアンの、祖先……?」
大地の声が震えた。
未来社会で人類を奴隷として支配していた
あの冷酷な化け物たちの正体は、
この絶滅の時代を生き延び、
気の遠くなるような時間をかけて「人型」へと進化した、
恐竜の子孫だったのだ。
『警報。
巨大津波の到達まで、あと120秒』
NOAのAIが、
無機質に死のカウントダウンを告げる。
「どうするの大地。
こいつらを見捨てれば、
レプティリアンは歴史から完全に消滅する。
未来のディストピアも、中世の乗っ取りも、
最初から無かったことになるわ。」
水原が、ハンドガンを下ろしながら言った。
「歴史を正すなら、これが一番簡単な方法よ。」
大地は、岩陰で震える小さな命を見つめた。
空を見上げ、怯え、
ただ理不尽な死が降ってくるのを待つしかない無力な存在。
『やだ! 嫌だ、なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないの!』
大地の脳裏に、
2026年の病室の記憶が脳裏をよぎった。
細胞崩壊という理不尽な死に直面し、
ベッドの柵を握りしめて泣き叫んでいた妹の姿が、
目の前の小さな爬虫類たちと完全に重なった。
「誰かを切り捨てて成り立つ正しさは、
どこかで必ず破綻する。」
大地は身を翻し、
独占を企むレプティリアンの制御盤の前に立った。
「全員を、そのシェルターに入れろ!
こんなところで、見殺しにできるかよ。」
大地は岩陰に飛び込み、
恐竜の赤ちゃんたちを両腕に抱え込んだ。
「本気なの!?
彼らを助ければ、
また未来であのトカゲどもと戦うことになるのよ!」
「関係ねえ!
どんな未来になるにせよ、
今ここで震えてる命を
見捨てる理由にはならない!!」
大地の泥臭い絶極の叫びに、
水原は一瞬だけ目を丸くし ——
やがて、諦めたようにフッと笑った。
水原の操作により、
NOAの下部から強烈なレーザーが照射され、
岩盤が円形にくり抜かれていく。
「さあ、入れ! もう大丈夫だ!」
大地は開かれた地下空洞へと、
恐竜の赤ちゃんたちを次々と逃がしていく。
彼らは大地の手にすり寄り、
最後にキュッと小さな鳴き声を上げて、
暗い地底へと姿を消していった。
すべての命を平等に収容したその瞬間だった。
天空で砕け散った隕石の巨大な破片が、
炎の尾を引いてNOAの船体を直撃した。
——ズガァァァァンッ!!
「きゃああっ!?」
「くそっ、何が起きた!」
艦内に激しい警報が鳴り響き、赤色灯が点滅する。
『警告。コンテナセクション大破。
メインエンジンへの動力伝達に異常。
このままでは墜落します』
NOAのAIが無機質に告げる。
船体は高度を失い、
地割れが走る荒野へと真っ逆さまに落ちていく。
眼下には、すべてを飲み込む
数百メートル級の黒い大津波が迫っていた。
「ダメだ、持ち直せない!
コンテナを切り離さないと、船ごと潰れるわ!」
水原が叫ぶ。
「待て! コンテナにはあいつらが乗ってるんだぞ!」
大地は血相を変えた。
「でも、このままじゃ全滅よ!」
大地はモニターに映る大地の亀裂を見た。
先ほどの隕石の衝撃で、
地殻の奥深くへと続く巨大な縦穴が開いている。
「……水原!
あの地割れの真上に船を持っていけ!
コンテナごと、あの穴の底へ落とすんだ!」
「本気!?
コンテナにはNOAの機関部の一部も積んであるのよ!」
「やるしかない!」
水原は歯を食いしばり、
操縦桿を限界まで引き絞った。
NOAが地割れの真上を通過した瞬間、
大地は強制パージのレバーを叩き落とした。
ガコンッ、という重い音と共に、
恐竜の赤ちゃんたちを乗せたコンテナセクションが切り離され、
暗い地底の奥深くへと落ちていく。
大地はすかさず、NOAの特殊樹脂射出システムを起動し、
地割れの入り口を完全に密閉した。
身軽になったNOAは推力を取り戻したが、
ナビゲーションシステムは完全に大破していた。
時空の制御を失った船は、急激に加速し、
帰還ルートから大きく外れて別の時空へと流されていく。
眼下では、地球の地表が完全に濁流に飲み込まれ、
生態系のすべてが一度リセットされていく。
光の奔流の中。
大地は、泥だらけになった自分の手のひらを見つめながら、
ハッと息を呑んだ。
「……待てよ。
俺が彼らを、あの完全に密閉されたコンテナごと
地下空洞に逃がした……?」
中世ヨーロッパの修道院で、
地上の空気を吸って
苦しみのたうち回っていた
レプティリアンたちの姿が蘇る。
彼らは、あの閉ざされた地下空間で
気の遠くなるような時間をかけて進化し、
文明を発展させた。
しかし、隕石の粉塵や地上のウイルスから
完全に隔離された「巨大な無菌室」で育ったがゆえに ……
彼らは免疫力を完全に失ってしまったのだ。
「それに……」
水原が、信じられないものを見るように計器を見つめた。
「コンテナに残されたNOAの技術……。
あいつら、長い時間をかけてあれを解析し、
独自のタイムスリップ技術を編み出したのよ。
手に入れたそれが、
巡り巡って韮山の研究のベースになった……」
「俺が、彼らを無菌の地下へ助け、
未来の技術を与えたから……
彼らは進化し、韮山の技術が生まれ、
俺たちがここに来ることができたのか……!」
敵の最大の弱点を作り出したのも、
そしてこの物語を動かす技術を与えたのも、
他でもない「過去の自分自身」の行動だった。
もしあそこで彼らを見捨てていれば、
韮山の技術も生まれず、
あかりを救うためのハッピーエンドには
絶対にたどり着けなかったのだ。
すべてが円環のように美しく、
そして残酷に繋がっている。
タイムパラドックスの途方もないスケールと、
因果律の皮肉さに、大地は思わず身震いをした。
「歴史ってやつは、とんでもなくよく出来てるな」
箱舟の窓の外を流れる時空の光を見つめ、
大地は静かに呟いた。
これで、レプティリアンの因果のループは閉じた。
彼らは地下で密かに文明を築き、
やがて中世で暗躍し、 そして大地に敗れる。
だが、制御を失ったNOAのハッチが開いた先は、
彼らの全く知らない「灰色の未来」だった。
第五幕:感情のない世界
到着したのは、西暦50万年後の地球だった。
かつて豊かな生命を育んでいた星は、
太陽の異常膨張によって大気が極限まで薄くなり、
地表のすべてがプラチナホワイトの幾何学的パネルで覆い尽くされた
死の世界に変貌していた。
そこに佇んでいたのは、
感情をノイズとして完全に切り捨て、
純粋な論理と演算のみで社会を維持する人類の末裔——
『グレイ』だった。
だが、彼らの誇る超高度AIが弾き出したのは、
「生存確率0%」という完璧な絶望の数式だった。
地球環境の変化、大気組成の不適合。
AIは「生存確率を最大化するため、
全個体の70%を即座に機能停止(シャットダウン)させ、
残りの30%のエリートのみを延命させる」という
冷酷な最適解を提示していた。
グレイの民たちはそれに「論理的」に従い、
感情を交えずに、ただ従順に死の列へと並んでいた。
誰かを犠牲にして、
一部の血脈だけを残そうとする全体主義の罠。
大地は、スクラップ場で
古い地球の花のホログラムを無意味に見つめていた、
一体のグレイの子供の姿を見た。
感情を捨てたはずの彼らの中にも、
消しきれない「生きたい」という
意志のエラーログが脈打っていた。
大地はグレイの中枢AIへハッキングを仕掛けた。
時間管理局の技術と、
大地の明晰夢による予測パターンを組み合わせ、
システムの盲点を強引に突き抜ける。
そして、切り捨てられるはずだった70%のエネルギーを、
全市民へと公平に再分配した。
「一時的な延命措置に過ぎない」とAIは警告する。
だが、大地は代表体に言い放った。
「全員で生き残って、全員で次の技術を考えろ。」
不確定要素を受け入れ、
全員で前に進むという「公正公平」の選択。
それを見たグレイの代表者は、
自らの胸に手を当て、
失われていた未知の鼓動を検知した。
『……計算の枠外に、未来が存在する可能性を認める』
グレイは、自分たちが歴史の観測者であるがゆえに干渉できない
「ある座標」を大地に託した。
それは、彼ら自身の祖先であり、
歴史の歪みの中に置き去りにされた超人類——
『アヌンナキ』を救うための計画だった。
彼らは、大地に
「誤差ゼロの小型高精度時空転移艇」を
わざと譲り渡した。
彼らの祖先を、正しき因果へと導かせるために。
第六幕:天空の神々
グレイから託された小型転移艇に乗り、
大地と水原は、アヌンナキ全盛期である数万年後の未来へと飛んだ。
そこには、大理石のように白く透き通る肌を持つ、
長身で美しき超人類が君臨していた。
だが、彼らの生きる地球もまた、
深刻な環境激変に見舞われていた。
彼らを過去の安全な時代へ逃がそうとしたその時、
大地は高度なコンソールの操作を誤り、
予定よりずっと過去の
「約2万年前の地球(アトランティス大陸)」へ
彼らを連れて行ってしまう。
エネルギーは枯渇し、
彼らをその時代に置き去りにせざるを得なくなった。
大地は去り際、指導者エンリルに告げた。
「ここで文明を築け。
だが、今から約1万年後、
このアトランティス大陸は
『大洪水』によって必ず海に沈む。
その時は、空に輝く赤い星、火星へ逃げろ!」
アヌンナキはこの言葉を「神託」として受け継ぎ、
アトランティスからメソポタミアへと文明を発展させていった。
そして——紀元前1万年。
歴史の収束である超巨大な大洪水が、
メソポタミアの黄金の神殿(ジッグラト)に迫っていた。
アヌンナキの強硬派は、
自分たちだけが空中都市で逃げ延び、
原始人類を「進化の失敗作」として見捨てようとしていた。
原始人類もまた、彼らを信じず、奪い合いの泥沼に陥っていた。
大地は両陣営の間に立ち、
アヌンナキの技術と原始人類の労働力を公平に結びつけた。
全員で生き残るための「火星移住用の箱舟」の建造。
大洪水がすべてを飲み込む直前、
アヌンナキたちは大地の預言に従い、
宇宙船へと乗り込んで
火星の地下空洞へと旅立っていった。
火星の過酷な環境で適応し、
進化した彼らの成れの果てこそが、
あの「グレイ」へと繋がる因果の鎖だった。
すべての歴史の糸が、
自分たちの手によって紡がれている。
大地は、小型転移艇のコックピットの中で、
水原と共に時間管理局の待つ
2136年への帰還レバーを引いた。
第七幕:新しい命
2136年の時間管理局へと戻った大地と水原を待っていたのは、
束の間の平穏だった。
幾多の死線を共に越えてきた二人の間には、
いつしか確かな絆が芽生え、
やがて水原の身体に新しい命が宿った。
だが、宇宙の免疫機能である『歴史収束』は、
彼らを許さなかった。
これまでの過度な過去改変の反動により、
2136年の地球そのものが物理法則を無視して
「自壊」を始めるという、
宇宙規模の時空クライシスが発生したのだ。
地殻が崩壊し、大気が消滅していく絶望の淵。
身重の水原を庇い、大地が死を覚悟したその瞬間、
空間が真横に裂け、
かつてのNOAの意匠を遥かに凌駕する超巨大時空艦
『NOA2』が出現した。
船内から降り立ったのは、
歴戦の戦士の顔つきをした一人の青年だった。
「間に合った……。
迎えに来たよ、父さん、母さん」
彼は、未来の過酷な環境で育ち、
両親を救うためにNOA2を完成させて時間を遡ってきた、
二人の息子だった。
大地、水原、老いた藤堂局長、
そして生き残った少数の人類がNOA2へ乗り込み、
滅びゆく時代から脱出する。
NOA2が向かったのは、
環境が回復した
「数万年後の未来(アヌンナキの創世記)」だった。
そこで降り立った大地の息子たちの系統こそが、
気の遠くなるような時間をかけて進化し、
あの『アヌンナキ』となり、
やがて『グレイ』へと繋がっていく真の起源だったのだ。
「俺たちの血脈が、
未来のすべての種族の始まりだったのか……」
自分たちの家族の歴史を守るための戦い。
大地は、すべてのパズルのピースを握りしめ、
最後の謎である『ノルディック』の待つ領域へと、
水原と共に最終跳躍を仕掛けた。
最終幕:宇宙意識
転移の光が消えた。
窓があった。雨が降っていた。
廊下の蛍光灯が見えた。
心拍モニターの電子音が聞こえた。
消毒液の匂いがした。
大地は、知っている場所にいた。
国立医療センターの地下病棟。
あかりの無菌室の前だった。
だが、そこはかつての病院の姿をしていなかった。
空間そのものが熱を持ち、
まるで巨大な生命体の内臓のように、
ドクン、ドクンと不気味に脈打っていた。
壁や床のタイルが、
白血球に溶かされるように
ドロドロと消滅していく。
「始まったわ……宇宙の
『ガベージコレクション』が!」
水原が叫んだ。
「宇宙は一つの生命体。過去改変という
『癌細胞』を排除するために、
この空間ごと私たちを消去しようとしているのよ!」
ベッドの上で、あかりの体はすでに半ば透け、
空間の蠕動に飲み込まれようとしていた。
大地は崩壊する空間に飛び込み、
透けかけた妹の手を握りしめ、
シウルから託されたクロニウムの石をその間に挟んだ。
瞬間、大地の脳裏に、
すべての時代で見てきた光景が、
圧倒的な熱量を持って逆流してきた。
岩陰で震えていた恐竜の赤ちゃん。
煙に向かって手を伸ばしたグレイ。
空を見上げたエンリル。
そして——雪原で見送っていた、
ノルディックのシグルの目。
ここで、すべての裏に隠されていた大いなる欺瞞が暴かれる。
ノルディック——
人類滅亡後に、
カマキリ型から進化した彼らは、
自らが過去に行った過度な時空介入の失敗により、
宇宙の寿命を縮める時空クライシスを引き起こしていた。
彼らは自らの滅びを回避するため、
大地の脳に「明晰夢(偽の預言)」を送り、
時間管理局のAIを裏から操作して、
自分たちの身勝手な歴史修正(尻拭い)を
大地に「させていた」黒幕だったのだ。
大地は、ノルディックが仕組んだ因果のシステムを
脳内で完全に拒絶した。
宇宙意識が生命をデリートしようとしている真の理由。
それは、生命という存在が
常に「他者を犠牲にして自分だけが生き残る」というバグ、
醜い癌細胞に過ぎないからだった。
ノルディックの身勝手な介入こそが、その証明だった。
だが、大地は違った。
大地が各時代で貫いてきたのは、単なる生存競争ではない。
レプティリアンに共生を教え、
グレイに分配を教え、
アヌンナキに平等を教え、
ノルディックの特権を打ち砕いた。
常に「公正公平」の正義を信じ、
誰も切り捨てずに明日を創ろうと足掻き続けた、
その美しき因果の記録。
大地は、あかりの脳(最強の観測点)を通じて、
そのすべての「生存の調和」のデータを
宇宙の鼓動へと一斉に送り込んだ。
ドクン……!
空間を溶かそうとしていた宇宙の蠕動が、完全に停止した。
宇宙の生命維持システムが、
大地の貫いた「公正公平」の調和を宇宙の理(いしずえ)として評価し、
生命の存在を正式に承認したのだ。
その恩赦として、空間の崩壊は消滅し、
時空の縛りを完全に超越する恒星間航行技術——
『ワープ航法(時空固定技術)』の発明が、
宇宙の物理法則として許容された。
「……お兄ちゃん」
あかりのまぶたが、ゆっくりと開かれた。
彼女の瞳の奥には、
宇宙の誕生からすべての世界線を見届けてきた、
途方もない深さと静けさがあった。
「夢を見ていたよ」
あかりはかすれた声で微笑んだ。
「みんな、死ぬのが怖くて泣いていた。
でも、お兄ちゃんが、
ずっと一緒に手を握ってくれていたから……
もう、怖くないって。」
「ああ。ずっと一緒だったよ、あかり。」
大地が見ていたすべての明晰夢は、
量子的にリンクしたあかりの意識が受信していた
宇宙の記憶そのものだった。
最初から最後まで、
二人は共に歴史を旅していたのだ。
大地は、静かに病室の窓を開け放った。
そこには、冬の雨雲など存在しなかった。
成層圏の向こう側、無限に広がる星の海。
そこに、巨大な光の航跡が浮かび上がっていた。
レプティリアンの巨大装甲艦、
アヌンナキの黄金の箱舟、
グレイの幾何学的な演算船、
そして、自らの過ちを認めて謙虚さを学んだ
ノルディックの光の帯。
数億年の時を超え、
異なる道を歩んだ人類の兄弟たちが、
宇宙の祝福を受け、
一つの星の海へと旅立とうとしていた。
「お兄ちゃん、未来ってどんな感じだった?」
大地は、水原と顔を見合わせ、
そして窓の外を飛ぶ無数の船団の光を見つめて、
力強く答えた。
「……みんなで、作ったんだ。
だから、こんなに綺麗なんだよ。」
星空へ旅立つ無数の船団の光が、
二人のいる病室を優しく、そして暖かく照らし出す。
未来は誰かに与えられるものではない。
囚人のジレンマを打ち破り、
公正公平の意志を繋いだ者たちだけが、
自らの手で作り上げるものだ。
無限に広がる新しい地平線を残して、
物語は静かに幕を閉じた。
(了)

