『ToR - Promise Horizon -』(第5稿)
プロローグ:眠れない夜に届くもの
最初に届いたのは、においだった。
肉が焦げるとき、
人間の鼻はそれを食欲として処理するように作られている。
だが夢の中でそれを嗅いだとき、
久我山大地(24)は条件反射で目を覚ました。
深夜二時。
病院の椅子に座ったまま、首が痛い。
それが夢だったと気づくまで、数秒かかった。
目をこすり、乾いた口の中に唾を作ろうとしたが、
喉がひりついて上手くいかなかった。
ガラス越しに、無菌室の白いベッドを覗き込む。
妹のあかりは、今も目を閉じている。
三週間と二日、彼女はずっとそうだ。
心拍モニターの電子音だけが、等間隔に鳴っている。
夢を、見た。
正確には、自分の夢ではなかった。
あれは他の誰かの経験で、
誰かの皮膚が熱風でひび割れていく感覚で、
誰かの喉から絶叫が漏れていくのを
大地は内側から聞いていた。
空が赤く染まる景色——
火の壁が地平線の向こうから迫ってくる——を、
大地は二本足で立ちながら見ていた。
だが、その足は自分のものではなかった。
硬質な鱗に覆われた、爬虫類の足だった。
仲間たちが叫んでいた。
「空を撃ち落とせ。この大地を渡すな」
威勢のいい言葉だったが、
声には絶望が滲んでいた。
炎の壁を前にして彼らは武器を構え、
それでも一歩も退かなかった。
大地はその場にいて、
その意地の中にある痛みを、
まるで自分のことのように感じていた。
それから場面が変わった。
今度は静寂だった。白い。
プラチナホワイトの平坦な空間に、
細長い影のような存在たちが立ち並んでいた。
彼らは人に似た形をしていたが、
頭だけが大きく、
腕は枯れ枝のように細かった。
一人、また一人と、
胸の前で何かのスイッチを押し、
崩れるように横たわっていく。
自ら、止まっていく。
感情がなかった。
悲しいとも思っていなかった。
ただ計算として、続ける意味がないと判断した、
その結論だけがあった。
その「冷たさ」が、熱風よりも刺さった。
最後の一人が倒れる瞬間、
空間全体から言葉ではない何かが届いた。
言語ではない。音でもない。
だが大地の脳の奥に直接刻まれた、その単語は
——クロニウム。
「——ッ」
飛び起きた。
椅子の背もたれに後頭部をぶつけ、反射的に口を押さえた。
胃の内容物が喉元まで上がってきていた。
「……また」
もう、何度目だろう。
あかりが倒れた日から、
毎晩のようにこれが来る。
毎回、夢の内容は違う。
爬虫類の兵士の絶望か、
あの白い空間の静かな消滅か、
あるいはもっと断片的な、
理解できない光景か。
だが毎回、最後に同じ単語が届く。
クロニウム。
大地は椅子を引きずって
無菌室のガラスに近づき、
額をそっとつけた。
ガラスは冷たかった。
向こうで、あかりの胸がかすかに上下している。
十七歳の妹は、三週間と二日前、
大学の理学部の実験室で倒れた。
研究助手のアルバイトをしていたあかりは、
ある物質の実験中に事故に遭った。
手袋が裂けて指先に結晶が触れた、
たったそれだけのことだった。
だが接触した瞬間に意識を失い、
そのまま一度も目覚めていない。
物質の名称は、クロニウム。
自然界には存在しない、未同定の結晶体。
理学部の教授もその正体を把握していなかった。
「どこかの学会発表の試料が
混入した可能性がある」
という説明だったが、
入手経路は不明のままだ。
細胞の自己崩壊が
緩やかに進行しているという診断があるだけで、
原因も、治療法も、見当たらない。
あかりの顔は、
出会った頃の雪のような白さではなく、
今は紙のような白さだった。
「待ってろよ」
声に出してみたが、
自分でも上辺だけに聞こえた。
廊下の自販機でコーヒーを買い、
ぬるくなったそれを一口飲んだ。
近くのナースステーションで、
夜勤の看護師が
静かにカルテを入力している。
深夜の病院は、
死が静かに隣にいる場所だ。
クロニウム。
その単語を手がかりに、
大地はこの三週間、
あらゆる文献を漁った。
学術論文のデータベース、
陰謀論的なウェブサイト、
量子物理学の専門書。
ほとんどは空振りだったが、
一つだけ、繰り返し浮上する名前があった。
韮山健太郎。
量子物理学者。
元・大学教授。
十年前に学術界を「追放」された経歴を持つ。
現在は都内の外れで、民間の研究を続けている。
彼の発表した論文——査読は通らなかったが——には、
クロニウムの特性について、
他の誰も書いていないことが書かれていた。
「クロニウムとは、
時空の記録が物質化したものである。
これに接触した生体は、
宇宙の記録層との通信チャンネルを開く」
読んだ最初は、頭のおかしな人間の書き物だと思った。
だが、夢の中で届くあの単語を、
大地は別の文脈では説明できなかった。
翌朝、大地は韮山の連絡先を調べ始めた。
韮山の研究所は、
旧市街の工場跡地の地下にあった。
表向きは「先端医療研究所」を名乗っていた。
看板は錆びていたが、
インターホンには
「来訪者歓迎」とシールが貼ってあった。
地下へ降りる階段は、
むき出しのコンクリートで、
電球が一つ、頼りなく揺れていた。
だが扉を開けた先は、異様な光景だった。
天井まで伸びるサーバーラック。
這い回るケーブルの束。
モニターが十数台、
異なるウィンドウを映している。
その真ん中に、
分厚いアクリルガラスで覆われた、
人一人が横になれるほどのカプセルが鎮座していた。
「久我山くん、でしょ。メールを読んだ」
五十代後半と思われる男が、
コンソールに向かったままそう言った。
白衣は着ていたが、
上から薄汚れたカーゴベストを重ねている。
後頭部の髪が薄く、
神経質そうに指が動いている。
「……韮山先生、ですか」
「先生はやめて。韮山さんでいい」
振り向いた顔は、思ったより若々しかった。
だが目の下に深い隈があり、
長期間の睡眠不足が顔に刻まれていた。
「妹さんの件は聞いた。
クロニウムへの接触、か。
それで、どんな夢を見てる」
大地は少し驚いた。
「どうして夢の話を」
「クロニウムは
時空記録層の結晶化した破片だ。
接触した生体は、
そこに蓄積された記録の受信を始める。
妹さんの脳は今、その洪水の中にいる。
意識が戻らないのは、
情報量が多すぎて
神経系が防御シャットダウンしているからだ」
韮山は淡々と、
まるで天気予報を読み上げるように言った。
「あなたも受信している。
ただし妹さんとの量子的な共鳴経路を通じて、
断片だけが届いている。だから夢になる」
「……信じろと?」
「信じなくていい。
ただ俺の理論が正しいとしたら、
妹さんを目覚めさせる方法は一つだ」
韮山は立ち上がり、カプセルに手を置いた。
「受信の暴走を止めるには、
送信側の根本を修正しなければならない。
記録層に刻まれた過去の出来事そのものに、
介入する必要がある」
「過去に、介入する」
「コールドスリープ中の意識は、
クロニウム層とのチャンネルが最大化する。
そこから過去へアクセスすることが、
理論上は可能だ」
大地は黙って、カプセルを見た。
「つまり、あれに入れと」
「被験者を募集している。
報酬は払う。
ただし保証は一切できない。
俺の研究は、まだ仮説の段階だ」
「妹が治る可能性は」
韮山は少し間を置いた。
「ゼロではない。
それ以上のことは言えない」
正直な人間だと思った。
大地は三日間、考えた。
毎晩、夢を見た。
爬虫類の絶望と、
白い空間の消滅と、
クロニウムという単語を受け取りながら、
大地は考えた。
他に選択肢がないわけではなかった。
だが他の選択肢は、
何もしないこととほとんど同じだった。
三日後の夕方、
大地は韮山に電話をかけた。
「やります」
実験当日。
研究所の気温は、
地上よりも数度低かった。
大地は薄い実験着に着替え、
カプセルの縁に腰をかけた。
内部は白くコーティングされており、
横になると想像よりも広かった。
「接続を確認する。動かないでくれ」
韮山がセンサーを大地のこめかみに貼り付けながら、指示を出す。
画面には波形が走り始めた。
「何か注意することは」
「何が起きても俺は責任を取らない、
というのは言った。あとは……」
韮山がコンソールに向かいながら、少し考えた。
「見たものを、全部記憶しておけ」
「何を見るんですか」
「分からない。
ただ、夢の中の出来事は嘘じゃない。
お前が見るものは、
お前より先に誰かが実際に経験したことだ。
それだけは覚えておけ」
大地が何か答えようとした時だった。
扉が、内側からではなく外側から吹き飛んだ。
爆音ではなかった。
むしろ音は少なかった。
だが頑丈なはずの防爆扉が、
まるでカードのように折り曲がって
室内に倒れ込んできた。
煙の中から現れたのは、
五人の人影だった。
完全に密閉された白いスーツ。
ヘルメットは顔を覆っていたが、
バイザーのフィルターの向こうに、
縦に割れた瞳孔が光っていた。
爬虫類の目。
夢で見た、あれだ。
「チィッ——来やがった!」
韮山が血相を変え、
コンソールの赤いレバーに手をかけた。
大地はカプセルの縁から滑り落ち、
立ち上がろうとした。
「入れ、今すぐカプセルに戻れ!」
「おい、あいつらは——」
「後でいい! 入れ!」
侵入者たちが何かを向けた。
プラズマ状の光が、
コンソールの脇の壁を焼き抜く。
韮山が転がるように避け、
大地の腕を引いてカプセルに押し込んだ。
「聞け。
奴らは表舞台に出られない連中だ。
だから歴史の裏側から動いてきた。
俺の研究データを使えば、
彼らは記録層への大規模アクセスができるようになる」
ハッチが降りてくる。
「未来へ行け、大地。
そこに答えがある——」
韮山が何かを怒鳴った気がしたが、
カプセルの内壁を伝う振動だけが届いてきた。
冷却ガスが噴出した。
白い霧が視界を塗りつぶし、
極低温の空気が肺を締め上げた。
意識が落ちる直前に、
バイザー越しの縦割れした瞳が
大地を見下ろしていた。
夢の中にいた、あの目だ。
暗闇が落ちてきた。
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第一幕:百年後の街
解凍は、拷問に似ていた。
全身の細胞がいっせいに悲鳴を上げ、
関節という関節が抗議の声を上げ、
喉が引き裂かれそうな咳が
何度も繰り返された。
カプセルの床に嘔吐し、
それでも体は次の空気を求め、
大地は這いつくばりながら呼吸を繰り返した。
五分か、十分か。
ようやく視界が戻ってきた時、
そこに広がっていたのは、
韮山の研究所の天井ではなかった。
天井がない。
いや、あることはあった。
だが崩れていた。
コンクリートの梁が斜めに倒れ、
その隙間から土が落ちてきている。
周囲は石と錆と黒ずんだ金属の廃墟で、
カプセルだけが、
埋葬されたように泥の中に半分沈んでいた。
「……何年、経った」
呟いて、答えを求められる相手がいないことに気づいた。
体が動くまでに時間がかかった。
大地は慎重に廃墟の中を這い、
かろうじて残っていた鉄梯子を登り、
地上へと頭を出した。
空を見た。
鉛色の雲と、それに混じる赤黒いスモッグ。
太陽は白く濁った光源として存在しているだけで、
暖かさを感じない。
地平線の方向に、黒い塔群が見えた。
建築様式が違った。
大地の知っている都市の建物は、
直線と曲線を組み合わせた
人間的な造形を持っていた。
だがあの塔群は、
幾何学的な模様を繰り返す
黒曜石のような壁面を持ち、
窓の位置も大きさも、
人間の生活を想定して
設計されたものには見えなかった。
まず水が要ると思った。
廃墟から出て舗装路を見つけ、
大地は塔群の方向へ歩き始めた。
街に近づくほど、人影が増えてきた。
人間だった。
ただし、全員が同じ色のくすんだ作業着を着ていた。
首の後ろには何かのタグが張り付けられていた。
近くを通り過ぎる男の後頭部を見ると、
バーコードだった。
皮膚に直接刻まれていた。
誰も話していなかった。
誰も誰かと目を合わせていなかった。
列をなして歩く彼らの顔に、
表情と呼べるものはほとんどなかった。
疲労や倦怠よりも深い何か、
諦めとも違う、
感情そのものが磨耗した顔をしていた。
街角に、白いスーツの兵士が二人立っていた。
完全密閉の装甲。
バイザーの奥に、縦割れした黄金色の瞳。
研究所に押し入ってきた、あいつらだ。
大地は俯き、人の波に紛れて歩いた。
作業着を着た男たちは、
どこかの施設へ向かうように整然と動いていた。
道の脇には、大きな電光掲示板が設置されていて、
爬虫類を象ったシンボルが光り、
下に文字が流れていた。
言語は英語に近かったが、微妙に変化していた。
「今日の生産ノルマ達成率」
という文字だけが読み取れた。
(どれだけ先に来た)
大地は人波に乗りながら、
内心で状況を整理しようとした。
韮山は「未来へ行け」と言った。
だが韮山自身は
装置を制御できる立場にいなかった。
カプセルが自動的に「未来」へ向かったとして、
それがどれほどの未来なのか、大地には分からない。
「不適合者、認識タグを提示しろ」
背後から、合成音声が響いた。
反射的に走り出した。
背後で警報が鳴り始め、
通行人たちが静かに道を開けた。
誰も大地を助けようとしなかった。
誰も止めようともしなかった。
ただ壁のように、道を作って立ち尽くしていた。
路地に曲がり、また曲がり、廃品の山を飛び越えた。
膝ががくがくした。
百年分の休眠で筋肉が戻っていなかった。
躓いた。
瓦礫に足を取られて倒れ、
立ち上がろうとした瞬間に背後を向いたら、
銃口がそこにあった。
「処理する」
合成音声が言った。
——マンホールの蓋が吹き飛んだ。
穴から飛び出してきた人影が、
兵士の顔面に何かを叩きつけた。
小さな缶のようなものだった。
バイザーが激しくフラッシュし、
兵士がよろけた。
スーツのどこかが破れたのか、
ゴポゴポとした咳が始まり、
そのまま崩れ落ちた。
「立て。走れる?」
声は低く、早口だった。
覗き込んできた顔は、
二十代後半の男だった。
切れ長の目、薄汚れたレザージャケット。
だが大地が見たのは顔ではなく、
その腰に下がった、
見たこともない形状の武器だった。
「……走れる」
「なら走れ」
男はマンホールに飛び込んだ。
大地も続いた。
地下水道は暗く、半分水が溜まっていた。
男は躊躇なく走り、大地は後を追った。
迷路のように曲がりくねった水路を、
男は迷わず進んだ。
重い隔壁の前で止まり、
男はパネルに数字を打ち込んだ。
「入れ」
隔壁の向こうは、水路ではなかった。
広い空間だった。
天井は高く、
数十本のケーブルが蜘蛛の巣のように張られていた。
簡易的なテーブルや寝床が並んでいて、
七、八人の人間が作業をしていた。
全員が作業着ではなく、
手に入れた様々な服を着ていた。
壁には何かの地図が貼られていた。
「座れ」
男がそっけなく言い、
古いスチール椅子を引いた。
大地は座った。体中が痛かった。
「お前は、どこから来た」
「……二〇二六年」
男の眉が、わずかに動いた。
「その古い実験着。
韮山健太郎の研究所を知っているか」
「そこから来た」
男はしばらく大地を見た。
鑑定するような目だった。
「名前は」
「久我山大地」
「藤堂だ」
男——藤堂——は
テーブルの端に腰を下ろし、腕を組んだ。
「百年前から来た人間が、今の時代に現れた。
韮山が言い残していた通りだ」
「おっさんが言い残していた?」
「あんたが飛ばされた日に韮山は死んだ。
奴らに殺された。
だが彼は記録を残していた。
いつかコールドスリープから誰かが目覚める、
そいつは過去の人間だから
歴史の因果に縛られていない、と」
大地は視線を落とした。
韮山が死んだ。
そこだけが、妙にリアルに刺さった。
「今は、何年だ」
「二一二六年」
「百年」
「ちょうどな」
部屋の空気は重かった。
大地は周りを見回した。
地図の前で作業している若い女、
毛布にくるまって眠っている子供、
回路基板を修理している老人。
「あいつらは何者だ」
「奴らを呼ぶ名前は色々ある。
俺たちは単純に、爬虫類と呼ぶ」
藤堂はコーヒーらしき液体を
二つのカップに注ぎ、
一つを大地の前に置いた。
「地下にいた連中だ。
人類の歴史に先んじて、
地底で独自の文明を発達させていた。
地上に出てきたのは十四世紀、
ヨーロッパでペストが流行した頃だ」
「なぜペストの時代に」
「あの病が作り出した混乱と恐怖を
利用したかったからだ。
人間が最も脆弱な時代を選んで、
権力の中枢にもぐり込んだ。
一人ずつ、時間をかけて、入れ替わっていった。
気づいた頃には遅かった」
大地はコーヒーを一口飲んだ。
苦くて、薄かった。
「で、今は」
「ご覧の通りだ」
藤堂は壁の地図を顎でしゃくった。
「表向きは人間の都市だが、全部奴らが作った。
人間は労働力として使われている。
生産したものは全部奴らのものになる。
それ以外の時間は、
指定された区画で生活することが許されている」
「逃げようとしたら」
「処理される。
死ぬか、どこかへ連れていかれるか」
低い声で言って、藤堂はカップを置いた。
「なぜ俺を助けた」
「百年前の人間を
奴らに渡すわけにはいかないからだ」
答えは早かったが、
大地には何かが引っかかった。
「それだけじゃないだろう」
藤堂は少し間を置いた。
「……韮山の記録にあった。
過去から来た人間を、
時間改変装置に乗せろ。
そいつに頼め。
そう書いてあった」
「俺に何をさせたい」
「まずは休め。今日はいい」
藤堂は立ち上がり、
毛布を一枚、大地に投げた。
「三日は、ここにいろ。
街のことを見て、理解してから話をしよう」
三日間、大地は地下基地から外へ出た。
藤堂に言われた通り、
作業着を借りて、
バーコードに似た布製のタグを首に貼り付けて、
人間たちの列に紛れた。
最初の日は、食料の配給所へ行った。
長い列の先に、窓口があって、
タグをかざすと一日分の食料が渡された。
穀物を固めた棒状のものと、繊維質の葉、水の入った袋。
味はなかった。
列に並ぶ人間たちは、誰も文句を言わなかった。
誰も笑わなかった。
老人が、受け取った食料を袋に入れながら落とした。
周囲の数人が一瞬動きを止めた。
誰かが拾おうとした。
だが白いスーツの兵士が近くにいて、
その人物は動きを止め、また俯いた。
老人は自分で拾い、列を出て行った。
二日目は、作業エリアを遠くから眺めた。
人間たちが長いベルトコンベアの前に立ち、
部品を組み立てていた。
何の部品かは分からなかった。
監視員として、白いスーツが五人、
エリアの端に立っていた。
ある男が、ラインを止めた。
手を押さえていた。
怪我をしたのか、動きが変だった。
監視員が近づき、何かを言った。
男は首を振った。
監視員がタグを読み取り、記録した。
男は包帯もなく、片手でラインに戻った。
それを、誰も見ていなかった。
三日目の夕方、
大地は地下基地に戻って、
藤堂の前に座った。
「分かった。何をしてほしい」
藤堂は今度は間を置かなかった。
「奴らを追い払うには、
根っこから断つしかない。
奴らが歴史に介入し始めた時代
——十四世紀のヨーロッパへ戻って、
その足がかりを潰す」
「タイムマシンがあるのか」
「ある。ただし、未完成だ」
藤堂は大地を、
基地の奥の部屋へ案内した。
部屋の中央に、
直径三メートルほどのリング状の機械があった。
青白い光を放ちながら、
低い音を立てて稼働していた。
「韮山の基礎理論を元に、
俺たちが三十年かけて組み上げた。
奴らの技術を少しずつ盗みながら、な」
「未完成だとは」
「座標精度が低い。
大まかな時代と場所は指定できるが、誤差が大きい。
そして最大の問題は……」
藤堂はリングを見上げた。
「俺たちはもう、
奴らの歴史の因果に取り込まれている。
この時代の人間が過去に戻って
奴らの歴史を変えようとすると、存在が消える。
因果律のパラドックスだ。
俺たちには、
自分たちの歴史を変えることができない」
「だから俺が必要か」
「あんたは百年前から来た人間だ。
この時代の因果に縛られていない。
だから変えられる可能性がある」
「可能性がある、か」
「俺には保証できない。
試したことがないから」
大地はリングを見た。
青白い光の中に、揺れるような歪みがあった。
空気が屈折しているように見えた。
あの向こうに、過去があるのか。
「中世のヨーロッパへ行って、
奴らの足がかりを潰す。
それで、この百年後の世界が変わるのか」
「変わるはずだ。
だが、変わった世界に
俺たちが存在しているかどうかは分からない」
「あんたたちが消えるかもしれない」
「それは、甘んじて受ける」
言葉に迷いがなかった。
大地は藤堂を見た。
三日間、この男を観察していた。
話し方は素っ気なかったが、
食料の配分には細かかった。
怪我をしている仲間の手当てを、
必ず自分でやっていた。
誰かが落ち込んでいる時、
言葉は少ないが、近くに座っていた。
嘘をついているようには見えなかった。
「妹がいる」
大地は言った。
「二〇二六年に。病院で眠っている。
俺がここに来た理由も、それだ」
「知っている」
「あかりを目覚めさせるには、どうすればいい」
「歴史の根本の歪みが修復されれば、
彼女の状態も安定するはずだ。
クロニウムが記録している「エラー」の量が減れば、
受信の暴走も止まる」
「……はずだ、か」
「俺には確約できない。
だが、それ以外に方法はない」
大地は目を閉じた。
三日間、地上で見た光景が浮かんだ。
列に並ぶ人間たち。
老人が拾えなかった食料。
包帯もなくラインに戻った男の横顔。
「分かった」
大地は立ち上がった。
「行ってやる。中世とやらへ」
藤堂が、わずかに頷いた。
それだけだった。
派手な握手も、感謝の言葉も、なかった。
ただ、その目の奥に、何かが灯ったように見えた。
第二幕:黒死病の街で
移送の感覚は、説明するのが難しい。
体が解体されて、
再構成される感じではなかった。
むしろ意識だけが一瞬、
完全な暗闇に放り込まれるような感覚で、
その暗闇はほんの一瞬のはずなのに、
何年分かの時間が詰まっているように感じた。
そして、においで時代を認識した。
腐敗と泥と何か有機的なものが混じった、
重く湿った空気。
現代の都市のどこにも存在しない種類のにおいだった。
消毒されていない、ろ過されていない、ただそのままの空気。
大地は固い石畳の上に膝をついていた。
夜だった。
街灯など存在しないが、
窓から漏れる蝋燭の光が、
石畳に黄色い模様を描いていた。
頭上に星があった。
百年後の鉛色の空では見えなかった星が、
こちらでは密度高く存在していた。
立ち上がり、周囲を確認する。
石造りの建物が密集した路地。
道幅は大地が両腕を広げたくらいしかない。
道の端に、布にくるまれた何かが転がっていた。
大地はそちらを見ないようにした。
においがそれが何かを告げていた。
藤堂に渡された修道士のローブを頭から被り直し、
大地は街の中心に向かって歩き始めた。
人影は少なかった。
だが少ない人影の一人一人が、
深く目を伏せて歩いていた。
誰かとすれ違う時、
互いに顔を向けなかった。
鼻と口を布で覆っている者が多かった。
それが意味することは、一目で分かった。
ここには病がある。
そして誰もが、
次に倒れるのが自分かもしれないと知っている。
角を曲がると、
十字架を掲げた行列に出くわした。
ローブを着た修道士たちが、
松明を持ちながら
祈りの文句を唱えていた。
声は美しかったが、
顔は疲労と恐怖で歪んでいた。
行列の後ろに、荷車があった。
乗せられているものから、
大地は目をそらした。
歩き続けた。
街の規模は大きかった。
石畳の道が迷路のように続き、
広場があり、市場があった。
市場は昼間は開いているのだろうが、
今は閉まっている。
台の上に残った食料の残骸を、
猫のような動物がかじっていた。
大地は藤堂に言われた情報を反芻した。
「街の最も高い修道院が目標だ。
丘の上にある。
外壁を越えて、最奥の区画に入れ。
そこに奴らの幹部が集まっている。
何をするかは、現場で判断しろ」
「武器は」
「それだけだ」
と言って渡されたのは、
手のひらに収まる小型のEMP発生器と、
発煙筒が二本だった。
プラズマ兵器と渡り合うには
貧弱すぎる装備だったが、
大地には「正面から戦う」という選択肢が
そもそも想定になかった。
丘が見えてきた。
修道院は、
それ自体が小さな城のような造りだった。
石の外壁が高く、
入口には夜番の修道士が立っていた。
大地は外壁に沿って半周し、
裏側へ回った。
蔦が壁面を覆っている場所があった。
登れる。
息を殺して外壁を登り、内側に降りた。
修道院の内部は、静かだった。
深夜の礼拝堂には人影がなく、
松明だけが揺れている。
大地は石の廊下を進んだ。
藤堂から渡された手書きの地図を頭の中に描きながら、
奥へ奥へと向かった。
そこで、気づいた。
においが変わった。
いや、なくなった。
廊下の先の一角だけ、においがゼロになった。
外の街のにおいも、松明の煙のにおいも、
石と蝋燭のにおいも、なくなった。
完全に、無臭だった。
大地は足を止めた。
壁に手をつき、指先で石の質感を確認した。
問題ない。床も同じだ。
だが、鼻がそこから先を「別の空間」と判断していた。
壁の境目を指でなぞると、
石と石の隙間が、
透明な何かで完全に塞がれていた。
樹脂、だ。
十四世紀の修道院の石の隙間に、
透明な樹脂が充填されている。
この時代に、そんなものがあるはずがない。
大地は天井を見上げた。
通気口が見えた。
格子が嵌まっていた。
ここからなら内部が見える。
古い格子を音を立てないよう外し、
大地は暗い通気路を這って進んだ。
光が漏れている。
格子の隙間から覗くと、
そこは広い部屋だった。
円卓に、六人の修道士が座っている。
だが松明の他に、
部屋の中央に見たことのないものが置かれていた。
円筒形の機械だった。
高さ一メートルほど。
表面に細かい模様が刻まれ、
青白い光を静かに発している。
低い駆動音が、
部屋全体を微かに振動させていた。
そして、修道士たちの会話が聞こえてきた。
ラテン語ではなかった。
英語でも、フランス語でも、ドイツ語でもなかった。
それは、摩擦音と高低差で構成された言語だった。
昆虫の羽音を高度に制御したような、
人間の声帯では出せない種類の音だった。
大地は息を止めた。
修道士の一人がフードを外した。
顔の皮膚と、首の付け根の間に、ずれがあった。
一見すると人間の顔に見えるが、
その境目から、硬質な鱗が覗いていた。
目が、光を受けて縦に割れた。
百年後の街で見た、あの目だ。
大地は格子を握る手に力が入るのを感じ、
意識してゆっくりと呼吸した。
奴らの会話から、
大地が理解できる音は少なかった。
だが時折、人間の言語に近い単語が混じった。
「浄化」という音、
「猿」という音、
「楽園」という音。
円筒形の機械に、奴らの一人が触れた。
機械がわずかに音を変えた。
大地はその機械を見た。
奴らの会話に、
何度も「浄化フィルター」に相当する音が出てきた。
機械はそれを指して言われていた。
この部屋だけが無臭なのは、この機械のせいだ。
外の空気を、この機械を通して
「浄化」して取り込んでいる。
なぜ浄化が必要なのか。
大地の脳の中で、
これまで見た光景が繋がり始めた。
百年後の世界でも、
奴らは完全密閉のスーツを着ていた。
外の空気に直接触れない。
接触を徹底的に避ける。
今、十四世紀の修道院でも、同じことをしている。
「——猿どもの病に怯えねばならんのだ」
その音を、大地は確かに聞き取った。
ペスト。
奴らは、この時代のペスト菌を恐れている。
地上のウイルスや細菌に対する免疫力が、ない。
だから密閉する。だから隠れる。
だから正面から制圧せず、
歴史の裏側から
権力者に成り代わる方法を選んでいる。
圧倒的な技術力を持ちながら、
彼らが歴史の表舞台に出られない理由は、それだった。
(弱点が分かった)
大地は通気路の中で、体勢を変えた。
EMPデバイスを取り出す。
これで円筒の機械を潰せば、
部屋の浄化システムが止まる。
そこに窓を割って外の空気を流し込めば——
だが、それは奴らを弱らせるだけで、
「殺す」ことになるかもしれなかった。
大地は少し止まった。
「殺す」という行為について、
自分が何を考えているかを確認した。
夢の中で見た、
あの爬虫類の絶望の記憶が過ぎった。
炎の壁を前にして、
それでも大地を渡すなと叫んでいた声。
あれは、こいつらの先祖の記憶なのか。
だが今、目の前にいる奴らは、
百年後に人間を家畜として飼育する体制の
礎を作ろうとしている。
(考えている時間はない)
大地は格子越しに、デバイスを落とした。
——カン、という金属音がした。
部屋の中で、動きが止まった。
デバイスが床を転がり、
円筒の機械のそばで止まった。
「何だ」
修道士の一人が立ち上がった。
デバイスが、光った。
強烈な電磁パルスが、
密閉された部屋の中で乱反射した。
円筒の機械の光が揺れ、
静かな駆動音が悲鳴のような音に変わり、
そして止まった。
大地は通気路を這い戻り、
廊下に飛び降りた。
出口に向かうのではなく、
その部屋の扉に向かった。
扉を蹴り開け、椅子を一脚つかんだ。
部屋の奥の、ステンドグラスの窓へ向かって、
渾身で投げた。
カラフルなガラスが粉々に砕け散り、
夜の冷たい空気が、一気に雪崩れ込んできた。
奴らの反応は、大地が予想したよりも速く、
そして激しかった。
喉を押さえた。咳が出た。
本能的なものだった。
訓練で抑えられる種類の反応ではなかった。
皮膚のマスクの下で、
鱗に覆われた顔が苦痛に歪んだ。
「外気が——フィルターが——」
一人が武器を構えようとしたが、
咳が止まらなかった。膝をついた。
大地は転送デバイスのスイッチに手をかけた。
部屋に立ち尽くし、
奴らが崩れ落ちていくのを見た。
威勢よく躍りかかってきたわけでも、
怒号を上げたわけでもなかった。
ただ、肺が受け付けない空気の前に、
静かに、しかし確実に倒れていった。
あの夢の中で見た、
炎の前で絶望しながら戦っていた彼らと、
今、中世の修道院で外気に崩れていく彼らが、
どこかで繋がっているような気がした。
だが、それが何を意味するのかは、
まだ分からなかった。
大地はスイッチを押した。
暗闘の後の白い光は、いつも唐突だった。
=============================
第三幕:修復された世界で
転送の暗闇が晴れると、
石畳のにおいも、修道院の冷気も、消えていた。
立っているのは、滑らかな白い床の上だった。
天井が高く、壁全体がガラスで構成されていた。
外には、昼間の光が差している。
百年後の赤黒い空ではなく、
青く透き通った空が広がっていた。
施設の外を見ると、都市があった。
塔群はあった。
だが黒曜石のような無機質な壁面ではなく、
ガラスと金属が組み合わさった、
もう少し人間的な造形の建物が並んでいた。
道を歩く人間は、
くすんだ作業着ではなく、
思い思いの服を着ていた。
首の後ろにバーコードがなかった。
「完了確認。特異点、座標到達」
背後から声がした。
振り向くと、
黒いロングコートを着た女性が、
タブレットを片手に立っていた。
三十代前半くらい。
切れ長の目と、
笑っているのか冷ややかなのか判断しにくい口元。
「藤堂は」
大地が言った。
「元気よ。随分老けたけどね」
「部屋の奥のデスク」と女性が顎でしゃくった先に、
白髪交じりの男が座ってコーヒーを飲んでいた。
別人のようだったが、目が同じだった。
藤堂が顔を上げ、大地を見て頷いた。
「ご苦労だった」
声まで落ち着いていた。
あの鋭い若者の面影は、
表情のしわの奥に少しだけ残っていた。
「ここは」
「時間管理局、と俺たちは呼んでいる」
局長になった藤堂が、立ち上がりながら言った。
「あんたが十四世紀の結社を潰したことで、
歴史が本来の軌道に戻った。
奴らは再び地下に引っ込み、
人間の文明はここまで自力で発展した」
「奴らは今も地下にいるのか」
「いる。
だがこの時代との力関係は逆転した。
今は、奴らがこちらの動向を警戒している状況だ」
大地は窓の外の都市を見た。
百年後の、あの街とは違う。
白いスーツの兵士は見えない。
うつむいて歩く人間の列もない。
それだけで、どれほど変わったかが分かった。
「あかりは」
大地は女性の方を向いた。
「妹さんの脳波は安定した。
でも、まだ目覚めない」
女性の声のトーンは変わらなかった。
だが言葉を選んでいることは分かった。
「歴史の軌道は修正された。
でも根本の傷はまだ残っている」
「根本の傷」
「ええ」
女性が名乗った。
水原、という名だった。
「あんたが今潰したのは、
奴らが人間社会に入り込んだ入口だった。
でも、奴らがああいう存在になった原因、
そもそもなぜ彼らが地下に潜って免疫を失ったのかは、
もっと遠い過去にある」
大地はソファに腰を下ろした。
疲れていた。
中世の空気で肺がまだ重く感じた。
「どれくらい遠い」
「約六千五百万年前」
沈黙した。
「恐竜絶滅の時代よ。
巨大隕石の衝突で地球の生態系が一度リセットされた、
その時期に、ある種の生き物が地下へ逃げ込んだ。
それが、奴らの起源だと考えられている」
「つまり、そこへ行かないといけない」
「理論的には、そう」
水原はタブレットを操作し、
年表をホログラムで表示した。
大地はそれを見ながら、
自分の中の何かが
ゆっくりと落ち着いていく感覚があった。
「あかりを目覚めさせるには、
歴史の傷を根本から修復しなければならない。
そのためには、
彼らがこうなった原因の瞬間に戻らなければならない。
私はそう考えている」
「そこへ行って、何をする」
水原は少し間を置いた。
「分からない、というのが正直なところよ。
現地で判断するしかない」
「随分と曖昧な計画だ」
「そうね」
水原は同意した。
「だから、私も行く」
大地は水原を見た。
「あんたは」
「私は、この時代の人間だから因果に縛られている。
その制約の中でできることをやる。
判断は、あんたに委ねる部分が多くなる」
「なぜそこまでするんだ」
質問が出るのは自然だと思ったが、
水原は少し驚いたように大地を見た。
「それを聞かれると思っていなかった」
「聞くだろう、普通」
水原はタブレットを下ろし、窓の外を見た。
「私の母が、奴らの支配下だった時代の生まれだった。
私が生まれた時には、もうこの世界だったから、直接体験はない。
だけど母の話を聞いて育った。食料の配給の列に並んで、
何が入っているか分からないものを食べていた話。
後頭部のバーコードを、毎朝確認される習慣が、
解放されてからも何年も抜けなかった話」
大地は黙って聞いた。
「修復されたとはいえ、歴史の傷が残っている限り、
この世界はいつまた変わるか分からない。
私は、根本から治したい。それだけよ」
「あかりのこともか」
「……あなたの妹さんが目覚めることが、
根本の修復と直結している。
それは本当のことよ」
嘘をついているようには見えなかった。
「分かった」
大地は立ち上がった。
「行こう」
「準備があるわ。三日待って」
「急ぐ必要があるのか」
「あかりさんの状態は安定しているが、
徐々に悪化している。時間はあまりない」
三日間、大地は時間管理局の施設に置かれた。
藤堂局長と話す時間があった。
地下基地での三日間の印象そのままに、
藤堂は飾らない人間だった。
年を取って落ち着いたというより、
もともとこういう人間で、
若い頃はそれが尖って見えていただけなのかもしれない、
と大地は思った。
「水原を信頼していいか」
一度、そう聞いた。
「信頼できる。
ただ、あいつは一人で抱える癖がある。
何かを隠しているわけではないが、言わないことがある」
「どういうことだ」
「あいつの専門分野は、理論物理学だ。
この局の中で、時空理論を最もよく理解している。
それゆえに、おそらく一番多くのリスクが見えている」
「見えているが言わない」
「言っても変わらないと思っているからだ。
あいつは楽観主義者ではないが、悲観主義者でもない。
確率の低い道でも、
正しい道なら歩くという考え方をしている」
大地はそれを聞いて、水原への印象が少し変わった。
三日目の夜、大地は施設の屋上に出た。
星があった。
百年後の鉛色の空ではなく、
本来の星の密度で、空が光っていた。
あかりは星が好きだった。
理学部に進んだのも、
ロマンというよりは、
自分が存在している宇宙の仕組みを知りたい
というシンプルな動機からだったと言っていた。
クロニウムの実験に関わっていたのも、
その延長線上だった。
未知の結晶体。
既存の理論で説明できない物質。
あかりはそれに惹かれた。
「普通の人間は知らないことを知りたがらないでしょ。
でもお兄ちゃんは知りたがるから、ちょっと変わってる」
そう言って笑っていた。
「お前の方がよっぽど変わってるだろ」
「わたしは好奇心が旺盛なだけ」
その声が、消えてから三週間と何日かが経った。
「行くよ」と、大地は空に向かって言った。
それは誰かへの言葉ではなく、自分への確認に近かった。
翌朝、NOAの格納庫へ向かった。
第四幕:六千五百万年前の荒野
NOAは、想像よりもずっと大きかった。
格納庫の扉が開いた時、大地は思わず足を止めた。
全長二百メートルを超える船体が、
白と灰色の塗装で格納庫の照明を反射していた。
流線型ではなく、機能優先の角張った設計だった。
各部に溶接の痕や補修の跡があり、
一度や二度ではなく
何十年もかけて改修が繰り返されてきたことが分かった。
「韮山の基礎理論を出発点に、
二十年かけて作った。
過去への遡行を力技でやるために、
エンジンは過剰なくらい積んである」
水原がそう説明しながら、乗艦路を上った。
「精度が低いのは最初から知っていた。
目的地の時代と大陸は指定できるが、
どこに降りるかは着いてから調整するしかない」
艦橋は広く、
六つのコンソールが半円形に並んでいた。
水原が操縦席に座り、大地は副席に座った。
「着いたら何をする」
出発前に、大地は改めて聞いた。
「分からない。
その時代に何があるかを見て、考える」
「本当に計画がないんだな」
「詳細な計画を立てると、
それ通りにしようとして判断が遅れる。
大枠だけ持って行く方がいい場合もある」
「それは楽観主義ではないのか」
「違う。確率論よ」
水原はコンソールを操作した。
「状況が読めない場所へ行くとき、
詳細な計画は誤った安心感を生む。
むしろ何も決めていない方が、
実際に見たものに反応できる」
大地はシートベルトを締めながら、
それを消化した。
理屈は分かった。
気は進まなかったが。
NOAが動き始めた。
格納庫の外壁が開き、
施設の外の空が見えた。
そこから、機体が垂直に上昇した。
都市が小さくなり、
雲の層を抜け、
空の色が濃くなっていく。
大気圏の外縁で、機体が振動し始めた。
「時空転移、開始」
水原の声は平静だった。
転移の暗闇は、今回は長かった。
コールドスリープの時ともリングの時とも違った。
体は意識を保ったまま、
視覚だけが完全に消えた。
暗闇の中で、時間の感覚がなくなった。
五分のような、五十年のような。
そして光が戻った。
艦橋のスクリーンに、
外の映像が映し出された。
大地は息を止めた。
地平線が燃えていた。
正確には、地平線の彼方から
巨大な光の柱が立ち上っていて、
その周囲の大気が熱で揺れていた。
空の色は、
大地がこれまで見たどんな夕焼けとも違う
橙と黒の混合だった。
「隕石が大気圏に突入した直後だ」
水原の声は静かだったが、
スクリーンを見つめる目が、
わずかに固まっていた。
「降りる」
NOAが高度を下げた。
荒野が広がっていた。
針葉樹の森が見えた場所もあったが、
隕石の衝撃波で根こそぎ薙ぎ倒されたと思われる区域が広がっていた。
川があり、川沿いに複雑な地形が続いていた。
「生命反応を探せるか」
「いまスキャナーを動かしてるとこ。
……ある。
この先の渓谷に、複数の微弱な反応。」
NOAが渓谷の上空で停止し、
大地と水原はハッチから降りた。
熱風だった。
空気自体が温かかった。
吸い込むと、煙と土と、
何か有機的なものの焦げた匂いがした。
地表は乾いていて、
足元の砂が風に運ばれていた。
渓谷の壁面に、
岩が張り出している場所があった。
その影に向かって、水原がスキャナーを向けた。
「ここだ」
大地が覗き込んで、止まった。
岩の影のくぼみに、
三頭の小さな生き物がいた。
体長は大地の腕ほど。
背中に、まだ乾ききっていない
卵の殻の破片が貼り付いていた。
皮膚は硬質で、色は灰緑色。
後ろ脚でバランスを取りながら、
前肢を体に引き寄せてうずくまっていた。
空が赤く光るたびに、
甲高い音を出して身をすくませた。
「……恐竜」
声が出た。
「幼体よ。
孵化したばかりだと思う。親はもういない」
水原の声は穏やかだったが、
手がスキャナーに添えられたままだった。
感情的な反応を意図的に制御しているように見えた。
大地はくぼみの前にしゃがんだ。
三頭が、大地の動きに反応して一斉に後ずさった。
だが逃げなかった。
逃げる場所がないことを、
本能で知っているのかもしれなかった。
「大地」
水原が静かに言った。
「分かっている」
「分かってない。聞いて」
大地は振り返った。
水原の表情が、初めて変わっていた。
「この子たちを見捨てれば、この種族は絶滅する。
今、ここで終わる。
百年後のディストピアも、中世の権力奪取も、
最初から存在しなかったことになる。
歴史はその時点で正常化される」
「それで、あかりは」
「目覚める可能性が高い。
根本の傷が消えるから」
大地はくぼみの三頭を見た。
もう一度、水原を見た。
「その可能性が高い、
というのは確実ではないということか」
「確実ではない。
でも、この子たちを生かせば、
未来でまた同じことが起きる可能性がある。
歴史が変わるとしても、
別の形で収束するかもしれない」
「あかりが目覚めないかもしれない」
「……その可能性も、残る」
正直に言ってくれた、と思った。
「お前はどうしたいんだ」
大地が聞くと、水原は少し間を置いた。
「私は、判断を委ねると言った。
この時代の人間が干渉すると、
パラドックスが生じる可能性がある。
だから私が決めることはできない。
これはあんたが決めることよ」
「逃げてるな」
「……そうかもしれない」
認めた。
大地はまた三頭を見た。
空が赤くなった。
遠くから、地響きが届いた。
三頭が同時に甲高い声を上げ、互いに寄り添った。
その瞬間、大地の脳裏に夢の映像が過ぎった。
最初の夢。
炎の壁を前にして、
「この大地を渡すな」と叫んでいたあの声。
皮膚がひび割れながら、後退せず、立っていた。
あれはこの子たちの、
気の遠くなるほど遠い未来の記憶だ。
そして、別の記憶も浮かんだ。
白い病室。
あかりが柵を握りしめて泣いていた夜のことを、
大地は実際には見ていない。
だが夢で受け取った断片に、そのシーンがあった。
理不尽な痛みの前で、それでも柵を手放さなかった。
「ふざけるな」
口から出た。
自分でも少し驚いた。
「何かに助ける価値があるかどうかを決める立場に、俺はない。
こいつらが未来に何をするかを理由に、
今ここで見捨てるなんてことは——できない」
「あかりが目覚めないかもしれない、と言っても?」
「……それでも」
一番つらい部分だった。
言ってから、自分でも驚くほど迷いが残った。
だが迷いが残ったまま、それでも、という結論だった。
「こいつらを見捨てて妹が目覚めたとして、
俺はあかりの顔を見れる気がしない」
水原は黙っていた。
「……私の母は」
静かな声だった。
「あの時代に、ある人間に助けられたことがある、と言っていた。
食料の配給で、倒れた老人が転んで食料を落とした時に、
誰も拾えない中で、見知らぬ人間が拾って老人に渡した。
次の日に、その人は処理されたと聞いた」
大地は黙って聞いた。
「母は、その話をする時いつも泣いた。
勇敢だったとは言わなかった。
ただ、人間だった、と言った」
水原が、三頭の方を見た。
「私は判断を委ねると言った。
でも……正直に言うと、
私もあんたと同じことを思っていた」
「最初から?」
「……最初から」
「なんで言わなかった」
「私の判断が入ると、パラドックスのリスクが——」
「それは理屈だ」
大地が遮ると、水原は少し黙った。
「……そう、ね。理屈よ。
本当は、あんたが決めてくれると楽だと思っていた」
「正直だな」
「今更ね」
二人でくぼみを覗いた。
三頭は、まだ身を寄せ合っていた。
「どうやって船に乗せる。暴れるか」
「この子たちはまだ孵化したばかりで、体温が下がっている。
今は動ける状態じゃない。手で抱えられると思う」
「お前が抱えろ。俺は後ろを警戒する」
「分かった」
水原が慎重に手を差し出した。
三頭が反応した。
うなり声のような音を出した。
だが逃げなかった。
NOAの格納庫の下部に、コンテナセクションがあった。
温度管理ができるスペースだった。
水原が三頭を運び込み、温度を調整した。
「行くわよ」
NOAが上昇を始めた。
その時、地響きが来た。
艦橋のスクリーンが、外の光景をとらえた。
空が割れていた。
隕石の本体は既に着地していたが、
衝突で砕けた巨大な破片が、
いくつも大気圏を引き裂きながら落ちてきていた。
その一つが、軌道を描きながら、
NOAの方向へ向かっていた。
「回避——」
水原が叫ぶ間もなかった。
衝撃が来た。
艦橋の天井から火花が散り、スクリーンが半分消えた。
警報が複数同時に鳴り始めた。
「エンジン出力が落ちた!
コンテナセクションに損傷!」
「三頭は!」
「スキャナーが死んでいる、分からない!」
NOAが傾いた。
高度が落ちている。
地表が近づいてきた。
「このままでは地面に叩きつけられる。
コンテナを切り離すしかない」
水原が言った。
「コンテナには三頭がいる!」
「コンテナを切り離さないと船が立て直せない。全員死ぬ」
大地は外を見た。
隕石の衝撃で地殻が割れており、
深い縦穴がいくつも口を開けていた。
「あの地割れを使う」
「何?」
「コンテナを穴の底に落とす。
地下なら津波を防げる。
空気があれば、生き延びられる可能性がある」
「その穴の深さは不明よ。
着地衝撃で死ぬかもしれない」
「可能性がゼロじゃなければやる」
水原は一瞬だけ目を閉じた。
「分かった。
コンテナの緩衝装置を最大にして、
穴の真上で切り離す」
NOAが傾いたまま、地割れの上空へ向かった。
大地はコンテナの切り離しレバーを握った。
穴の真上を、スクリーンで確認した。
レバーを引いた。
重い音がして、コンテナが落ちていくのが見えた。
暗闇の中へ、消えていった。
大地は樹脂射出システムを起動させ、穴の入口を封鎖した。
内部の空気が保たれる可能性が、わずかでも上がる。
それだけだった。
身軽になったNOAが推力を取り戻し、
水原が操縦桿を引き絞った。
高度が上がる。地表が遠ざかる。
眼下で、津波が押し寄せてきた。
白い巨大な壁が、荒野を飲み込んでいく。
地割れの入口も、海水に沈んでいった。
「……行けた」
水原の声が、かすかに震えた。
大地は、暗い海に沈んでいった穴の方向を見続けた。
「……なあ」
しばらく経ってから、口を開いた。
「あの三頭が地下で生き延びたとして、地上に出られるのか」
「密閉されたコンテナの中で生き延びるためには、何かが必要よ。
食料、水、空気の循環。
コンテナにはNOAの補助システムの一部が積まれていた。
もし彼らにそれを扱う知性が芽生えていけば……」
「NOAの技術を、時間をかけて解析する」
「理論的には。気の遠くなる時間をかけて」
大地は手のひらを見た。
泥と灰が染み込んでいた。
「俺がやったことで、
あいつらは地下の完全に密閉された空間に閉じ込められた」
「そうなる」
「免疫力を失う原因を、俺が作った」
「……そうなる可能性がある」
「中世で、あいつらが外気に弱かった理由は」
「あなたが作ったから、になる」
大地は目を閉じた。
そして、少し笑った。
笑うしかなかった。
「ついでに言うと」
水原が続けた。
「コンテナに残ったNOAの技術。
もし彼らがそれを解析して
独自のタイムスリップ技術を編み出したなら」
「……韮山のおっさんの基礎理論の元になった」
「理論的にはそうなる」
「俺がここに来られたのも、
俺が三頭を助けたからか」
「円環になる」
大地は暗い海の向こうを見た。
「とんでもない話だな」
「そうね」
水原も、同じ方向を見ていた。
「後悔してる?」
「……してない」
即答だった。
「ただ、話がでかすぎて、頭がついてこない」
「それは私も同じよ」
NOAが時空のトンネルへと向かい始めた。
機体の振動が、また始まった。
大地は座席に背を預けながら、
あかりのことを考えた。
今、歴史のどこかに、
三頭のための傷が刻まれた。
それはあかりが受信している記録の一部になる。
助けられたという記録が、
絶望の記録に混じって届く。
「根本の傷が消えた、とは言えない。
形が変わっただけかもしれない」
大地は独り言のように言った。
「そうかもしれない」
水原が答えた。
「次はどこへ行く」
「NOAのナビゲーションが完全に死んでいる。
転移先の制御ができない状態よ」
「つまり」
「どこに出るか、分からない」
大地はため息をついた。
「それが計画か」
「計画外よ」
暗闇が来た。
今度の暗闇は、転移のそれとは違う重さがあった。
制御を失った船が、時間の流れの中を漂っている感覚。
それがどこへ向かうのか、大地には分からなかった。
第五幕:廃墟の星で
着地の衝撃で、大地は座席から投げ出された。
転がりながら頭を抱え、何かにぶつかって止まった。
警報が鳴っていたが、
数秒後に電力が落ちて静かになった。
赤い非常灯だけが点滅している。
「水原」
「いる」
暗闘の中から声がした。
コンソールの下に潜り込んでいた。
額に細い切り傷があって、
少し血が出ていたが、動けるようだった。
「外を見る」
ハッチを手動で解放し、大地が先に出た。
立ち上がり、周囲を見た。
言葉が出なかった。
NOAは、広大な平原に不時着していた。
機体は片側に傾いており、
着地の際に削った跡が長く続いていた。
問題は外の景色だった。
地表は白かった。
乳白色というより、プラチナに近い白。
見渡す限り、同じ色の
幾何学的なパネルが敷き詰められていた。
継ぎ目はほとんど分からないほど精密で、
自然物のように見えながら、
どこかで人工的に作られたと分かる模様があった。
空には太陽があった。
だが色が違った。
本来の黄色ではなく、
膨張して赤みがかった光を放っていた。
主系列星が老化した時の色だ、
と大地はあかりから聞いたことがあった。
大気はあった。
呼吸できた。
だが薄かった。
深く吸わないと肺が満たされなかった。
「時代は」
水原が後ろから出てきながら言った。
手にしたスキャナーを見ていた。
「……五十万年後よ」
大地は空を見上げた。
「また未来に飛びすぎたか」
「NOAのナビゲーションが機能していない。
ランダムに近い状態で転移した。
時間軸の慣性で未来方向に流された」
「戻れるか」
「エンジンが再起動できれば、可能性はある。
でも今は無理よ」
大地はプラチナの地面を歩いた。
足音が、反響した。
下に空洞がある音だった。
「建造物よ。これ全部」
水原がスキャナーを地面に向けた。
「表面は自然化しているが、
地下に複雑な構造物がある。
かなり古い。
数十万年前に建造されて、
それ以降誰も手を加えていない」
「誰かいたのか」
「いる」
水原が言った直後、大地も気づいた。
影が、瓦礫の陰から現れていた。
最初は一つ。それからまた一つ。
体型は人間に似ていたが、細かった。
腕が長く、足が短く、
頭部だけが不均衡に大きかった。
皮膚は灰色で、光沢があった。
口は薄く閉じられており、
鼻孔は小さかった。
目だけが、顔の面積に不釣り合いなほど大きく、
漆黒だった。
大地はハンドガンを構えた。
反射的だった。
影たちは動きを止めた。
攻撃的な素振りはなかった。
ただ立っていた。
「待って」
水原が大地の腕に手を置いた。
「武器を向けているのはこちらだけよ」
影たちは、確かに何も持っていなかった。
武装していなかった。
ただ静かに、大地と水原を見ていた。
大地はゆっくりとハンドガンを下ろした。
影たちが一歩、近づいてきた。
そして、声ではない何かが届いた。
音ではなかった。
振動でもなかった。
大地の頭の中に、
直接、言葉の形をした何かが入ってきた。
明確な文章ではなく、
概念の塊のようなものだった。
——旅人。危険ではない。待っていた。
「……テレパシー、か」
大地が呟くと、水原も同じ反応をしていた。
「届いた?」
「届いた」
大地は正面の一体を見た。
一体、という言い方が正しいのかどうかも分からなかったが。
「あんたたちは何者だ」
概念として問いかけてみた。
声に出しながら、思考に乗せた。
しばらく間があって、また概念が届いた。
——人類の末裔。あなたたちの後継者。
「人類の」
大地は水原を見た。
水原の表情が固まっていた。
一体が、瓦礫の方向へ歩き始めた。
ついてこいという意図は、言葉なく伝わった。
大地と水原は、後に続いた。
瓦礫の向こうに、入口があった。
地下への開口部で、傾斜路が続いていた。
照明はなかったが、壁面自体がわずかに発光していた。
地下の空間は広かった。
数百メートル四方に及ぶ、ドーム型の構造物だった。
壁面に無数の装置が埋め込まれていて、
低い駆動音が響いていた。
空気は地上より濃く、呼吸が楽だった。
その中に、おそらく百体以上が存在していた。
彼らは各自の場所に座り、
または立ち、何かの作業をしていた。
会話はなかった。
音がなかった。
ただ、それぞれが黙々と動いていた。
大地が感じたのは、寂しさに近いものだった。
なぜそう感じたのかは、すぐには分からなかった。
外見が人間に似ているからかもしれなかった。
あるいは、その沈黙に
何かが欠けているからかもしれなかった。
「彼らは……会話をしないのか」
水原が小声で言った。
概念が届いた。
——音声による通信は、我々には非効率だ。
思考が直接届く。それで十分。
「感情は?」
大地が問いかけた。
間があった。
——感情という概念は、
演算上のノイズとして除去した。
現在は存在しない。
「除去した」
——生存に必要なかった。
環境適応の過程で、選択的に失われた。
「失われた、か。捨てたのか、なくなったのか」
また間があった。今度は、少し長かった。
——……区別の意味が分からない。
大地は周りを見渡した。
無音で動く彼ら。
表情のない顔。
互いに目を合わさない。
いや、合わせる必要がないのだろう。
思考は直接伝わるから。
それでも、大地には欠落しているものが分かった。
感情がないだけではなかった。
間違いを指摘し合う様子がなかった。
誰かを気にかける動作がなかった。
作業が完了した時の、
達成感に似たものが見えなかった。
あかりが実験の結果を見て
目を輝かせていた顔が、なぜか浮かんだ。
「あんたたちの祖先は人間だと言った。いつ頃の人間だ」
——概ね、あなたたちの時代からおよそ三千年後。
環境の急変により、
感情処理に特化した旧型の脳は生存に不利となった。
高速演算能力への移行が始まった。
「三千年かけて、今の姿になった」
——正確には、それより長い。段階的な変化だった。
「その間に何を失ったか、分かっているか」
——必要のないものを失った。
「本当にそうか」
大地が問いかけると、一体が動きを止めた。
周囲の何体かも、動きを止めた。
「感情がノイズなら、
なぜあんたたちは俺たちを待っていたと言った。
待つという行為は、期待や不安を含む。
それは演算だけでは説明できない」
沈黙が続いた。
今度は、概念の形が変わった。
明確な文章ではなく、感覚に近いものが届いた。
言語化するなら——困惑、とでも言うものだった。
「気づいていた」
大地は続けた。
「あんたたちが待っていたのは、
計算の結果として
俺たちがここに現れると分かっていたからじゃない。
何か別の理由があった。そうだろう」
長い沈黙の後、概念が届いた。
——我々には、欠けているものがある。
演算では特定できない欠落だ。
生存の確率はゼロに近づいている。
演算上の最適解を全て試みたが、どれも失敗した。
「なぜ失敗した」
——分からない。それが問題だ。
分からないことが存在するという事実を、我々は処理できない。
大地は水原を見た。
水原も同じものを受け取っていたのか、
考え込む顔をしていた。
「分からないことを前にして、どうするかを知らない」
大地が言うと、一体が顔を向けた。
——それをどう処理するか、教えられるか。
大地は少し笑った。
「教えられるかどうか分からないが、
俺自身はその状況に今まで何度もいた」
——その経験を共有できるか。
「概念として送れるか分からないが、試してみる」
大地は座った。
地面が冷たかった。一体が向かいに座った。
大地はここ数日の経験を思い起こした。
中世のレプティリアンたちの前で、
何をすべきか分からなかった。
恐竜の赤ちゃんを前にして、
どうすべきか迷った。
妹の病室のガラスに額をつけながら、
何もできない自分がいた。
分からないまま、それでも動いた。
確実な答えを持たないまま、判断した。
そのことを、思考の形で伝えようとした。
どれだけ伝わったか、大地には分からなかった。
しかし、少し経って、概念が届いた。
——……不確定を、前提にして行動する。
「そうだ」
——非効率だ。
「そうかもしれない。
でも、それ以外に動く方法がない時がある」
また沈黙。
そして。
——我々が直面している危機を、伝える。
あなたたちの判断に委ねる。
大地は、水原に目を向けた。
水原が頷いた。
概念が、一括して届いた。
地球の環境崩壊。
大気組成の変化。
生存可能な区域の縮小。
演算能力がいかに高くても、
物理的な環境の限界は超えられない。
そして最大の問題——種としての行き詰まり。
環境変化に適応するための「変化する能力」を、
高度に特化した演算脳が失っていた。
変われない種族は、滅びる。
それは、どれほど賢くても変わらない法則だった。
「あんたたちの祖先の時代に戻って、
何かを変えることはできるか」
——できない。
我々はこの時代の因果に縛られている。
だが——
一体が立ち上がり、奥の区画へ向かった。
扉が開き、その中から、一機の小型機が現れた。
涙滴を横にしたような形。
全長五メートルほど。
表面に、NOAとは比較にならない精密さで
複雑な回路が刻まれていた。
——これは、我々が開発した高精度の時空転移艇だ。
NOAの百倍以上の座標精度を持つ。
あなたたちが本来向かうべき時代へ、
誤差なく届けられる。
「なぜそれを俺たちに渡す」
——我々が生き残るためには、
我々の祖先が正しい歴史の経路を辿る必要がある。
あなたたちが各時代で行った介入が積み重なることで、
やがて我々の起源に変化が生じる。
しかしその変化が完成するには、
さらにいくつかの点が必要だ。
「具体的には」
——我々の祖先が、
ある時代に別の場所へ移住する必要がある。
あなたたちの時代から見て、
数万年後の地球に存在する別の種族に関わることが、
その鍵になる。
「どの種族だ」
——あなたたちの時代の人類とは異なる経路で発展した、
もう一つの人類だ。
今のあなたたちには、
まだその名を知る手段がない。
行けば分かる。
大地は転移艇を見た。
コンパクトだが、密度があった。
技術水準が全く違うことが、外見だけでも分かった。
「この船を使えば、
今から数万年後の地球へ行ける」
——正確には、
数万年後と、二万年前の二か所への移動が必要になる。
順序は、数万年後が先だ。
「理由は」
——順序を変えると、因果が正しく積み重ならない。
大地は水原を見た。
「行けるか」
「座標が分かれば行ける。
この船の精度なら問題ない」
水原は転移艇を見て、プロの目で点検していた。
「ただし」
水原が続けた。
「この船のエネルギー容量では、何度も転移できない。
行ける回数は限られる。
計画的に動かないと詰む」
「何回転移できる」
水原がスキャナーで転移艇を調べた。
「三回。慎重に使えば四回。それ以上は無理よ」
大地は計算した。
数万年後に行き、二万年前に行き、帰還する。
最低でも三回。
「ギリギリだな」
「私たちのことだから、
予定通りにはいかない可能性が高い」
「最悪の場合は」
「帰還できない」
大地は頷いた。
「分かった」
転移艇に乗り込む前に、大地は振り返った。
地下空間に並ぶ、百体以上の無音の存在たち。
その沈黙が、今度は別の意味に見えた。
感情がないのではなく、
感情を表す方法を失っているのかもしれない。
あるいは、感情に相当する何かが
別の形で残っているのかもしれない。
大地は正面の一体に向かって、概念を送った。
言葉ではなく、感覚として。
——生き延びてくれ。
返ってきたのは、また長い沈黙だった。
そして、かすかに、ほんのかすかに——
概念の色が変わった。
「感謝」と呼べるものに近い何かだった。
言語化するには不十分だったが、確かにそこにあった。
大地は転移艇に乗り込んだ。
「出発するわ」
水原がコンソールに向かった。
「今度こそ、ちゃんとした座標で」
「頼む」
エンジンが静かに起動した。
NOAのような荒々しい振動はなかった。
機体がわずかに浮き上がり、傾斜路を抜けて地上へ出た。
プラチナの地面が、下に広がった。
地下空間の入口近くに、何体かが出てきて立っていた。
見送っているのか、それとも別の用があるのかは分からなかった。
ただ立っていた。
転移艇が高度を上げ、空の色が変わり始めた。
大地は後ろの窓を見た。
プラチナの地面が小さくなっていった。
————
転移の直前、
大地の頭に夢の断片が過ぎった。
白い空間で、感情を持たない存在たちが、
次々と横たわっていく光景。
自分が何度も見てきた、あの夢だ。
あれは、こいつらのことだった。
あの夢の中では、絶望だけがあると思っていた。
だが今、思い返すと、違うものが見えた。
倒れる前の最後の瞬間に、
一体だけが——顔を上げていた。
暗闇が来た。
第六幕:沈む前の大陸
数万年後の地球は、まず色で大地を驚かせた。
空が、深い緑がかった青だった。
大気の組成が今より少し違うのか、
光の屈折がわずかに変わっていて、
夕方でも朝でもないのに空の端が緑色をしていた。
転移艇が大地に降りると、暖かい風が来た。
草の匂いがした。花の匂いがした。
「ここは」
「北大西洋の方向に相当する位置よ。
今の時代には海しかない場所」
水原がスキャナーを広域に向けた。
「生命反応が密集している。
規模の大きな定住地がある。
南西に向かうと良い」
転移艇をその場に置いて、大地と水原は歩いた。
丘を越えると、見えてきた。
白かった。
建築物が、白い石で作られていた。
列柱が続き、広場があり、水路があった。
水が引かれていた。
水路の水は透き通っており、底の石が見えた。
市場があり、人々が動いていた。
人々——あるいは人々に近いもの——が。
身長は大地より少し高かった。
肌が白く、光に当たると真珠のように光の屈折が変わった。
髪は金か白かで、目の色が均一に薄かった。
動きは人間に似ていたが、より滑らかで、角がなかった。
「アヌンナキ、か」
グレイから聞いた名前を、大地は口に出した。
彼らは大地と水原の存在に気づいた。
距離が縮まると、数人が歩み寄ってきた。
警戒しているようには見えなかったが、
好奇心も表には出ていなかった。
品定めのような静けさだった。
「どこから来たか」
先頭の男が、古い様式の言語で言った。
大地には分からなかったが、
転移艇に積まれていた翻訳補助デバイスが、
耳元で変換してくれた。
「遠くから来た。
あなたたちのことを知りたい」
男は大地を見た。水原を見た。
「お前たちは我々ではない。
だが同じ系統の存在だ」
「人間だ」
「人間。知っている言葉だ」
男が振り返り、何かを言った。
周囲の数人が頷いた。
「話を聞こう。来い」
列柱の建物に案内された。
内部は広く、
中央に水が張られた浅い池があった。
壁面には、複雑な模様が刻まれていた。
植物の形と星の形が混在していた。
男の名前はエンリルと言った。
この集落の長の一人だと、
後になって分かった。
ただし、大地が想像したような「指導者」ではなかった。
決定を下す専権を持つ人物ではなく、
他の長たちとの合議で物事を決める役割だった。
「最近、空が変わった」
エンリルが言った。
「変わったとは」
「夜に見える星の位置が、
祖先の記録とずれ始めている。
ゆっくりと、だが確実に」
大地は水原を見た。水原が小さく頷いた。
「大陸の端で、地震が増えている。
地下から聞こえる音が大きくなった。
祖先は言い伝えを残している。
大地が揺れ始めたら、水が来る、と」
「言い伝えを信じているか」
「信じる者と、信じない者に分かれている」
「あなたは」
エンリルは少し考えた。
「信じたいわけではない。
だが否定できる根拠もない」
正直な人間だと思った。
その夜、大地と水原は集落に泊まった。
夕食を与えられた。
食材は分からなかったが、味は複雑だった。
甘さと塩気と、何か草のような風味が混ざっていた。
食事をしながら、大地は集落を観察した。
子どもがいた。老人がいた。
作業をしている者、話している者、
歌っているらしい者がいた。
笑い声が聞こえた。
怒鳴り声も、一度だけ聞こえた。
グレイの無音の地下空間と、まるで違った。
翌日、大地は大陸の南端まで歩いた。
海が見えた。
大きかった。
水原が言う通り、
この大陸は今の時代には地図に存在しない。
海底に沈んでいる。
崖の上から海を見ていると、エンリルが来た。
「お前たちが何者かは分からない。
だが、長旅をしてきた顔をしている」
「そう見えるか」
「そういう目をしている」
大地は少し考えた。
どこまで話すべきか。どこまで話せるか。
「あなたたちに、起きることを知っている」
「何が起きる」
「この大陸は沈む。
時期は分からないが、大洪水によって海に沈む」
エンリルは表情を変えなかった。
しばらく海を見ていた。
「祖先の言い伝えは、正しかったか」
「そう思う」
「いつだ」
「千年か、二千年か。
この大陸の規模では、急なことではない。
だが確実に来る」
エンリルは崖の縁に腰を下ろした。
「信じてもらえると思っていなかった」
大地が言うと、エンリルが言った。
「信じるかどうかは、後で考える。まず聞く。それからだ」
「どこへ逃げればいい」
「東の方向に、陸地が続いている。
川が二本流れる土地だ。そこへ移れ。
技術があれば、十分生きていける」
「川が二本流れる土地」
「後の時代には、そこに文明が生まれる。
あなたたちの子孫が作る文明が」
エンリルは静かに空を見た。
「それが約束されているのか」
「約束、ではない。
起きることだ。
過去から来た俺には、後の記録が見えている」
「後の記録が見える者が、なぜここにいる」
「それは」
大地は答えに詰まった。
「……自分でも、完全には分かっていない。
ただ、あなたたちに伝えなければならないことがある
と思ってここにいる」
エンリルは大地を見た。
長い視線だった。
「もう一つ言った。
大洪水の後に、どこかへ行けと言いたいのか」
「空の上だ」
大地は空を指差した。
「夜になれば、赤く光る星が見える。
今の時代には、表面が荒れているが、
住める可能性がある。
技術があれば、到達できる。
一万年後、あなたたちの子孫が川の土地で積み上げる知識は、
そこへ辿り着ける水準になる」
「星に、人が住める」
「住める。あなたたちが到達することになる」
エンリルは空を見上げた。
夜空には、赤い光点が見えた。
「そこへ行ったその先は」
「分からない。
俺が知っているのは、
あなたたちがそこへ行くということだけだ」
「それは、希望として受け取っていいのか」
大地は少し間を置いた。
「あなたたちがいつか別の星へ旅立つ。
その子孫が長い時間をかけて、再びここへ戻ってくる。
それが起きることだ。
希望かどうかは、あなたが決めることだと思う」
夜の海風が来た。
エンリルは立ち上がった。
「集落に戻ろう。皆に話す必要がある」
「信じてくれるか」
「信じる者と信じない者が出る。それが我々だ。
ただ、無視する者はいないと思う。
お前の目が、そういう目をしている」
大地には、その意味が正確には分からなかった。
だが、それ以上聞かなかった。
集落へ戻る道で、水原が隣に来た。
「どこまで話した?」
「言うべきことは言った。あとは彼らが決める」
「それでいい?」
「それしかできない」
水原が、少し前を歩くエンリルの背中を見た。
「ここへ来て良かった、と思う?」
「思う」
「理由は」
大地は少し考えた。
「あいつが、すぐに信じなかったから」
「それが理由?」
「すぐに信じる人間には、後で裏切られる。
疑いながら聞いて、
それでも動く人間は、本物だ。
エンリルはそっちだ」
水原が少し笑った。
「あなたは人を見るのが得意ね」
「得意じゃない。
ただ、あかりが昔そういうことを言っていた。
疑うのは賢さじゃない、
疑いながら動けるかどうかが大事だって」
水原は何も言わなかった。
集落の明かりが見えてきた。
翌朝、転移艇に戻った。
エンリルが見送りに来た。一人だった。
「礼を言う」
「まだ何もしていない」
「来てくれたことへの礼だ」
大地はエンリルと向かい合った。
握手という文化があるかどうか分からなかったが、手を差し出した。
エンリルは少し間を置いて、手を取った。
「大洪水の後、東へ行く。
星のことは……長い話になるが、忘れない」
「忘れてくれなくていい。
必要になる時が来たら、思い出してくれればいい」
転移艇が浮き上がった。
エンリルが小さくなっていった。
大地は後ろの窓から、集落の白い建物を見た。
いつか、これが沈む。
その前に、彼らが東へ向かう。
川が二本流れる土地で、
何百年も積み重なって、また別の文明が生まれる。
その文明の中で、赤い星への夢が語り継がれる。
そして、どこかの時代に、人間たちが空を飛ぶ。
「行こう」
水原がコンソールを操作した。
「最後の転移よ」
「帰れるか」
「エネルギーは残っている。
二〇二六年へ、問題なく届く」
大地は前を向いた。
暗闇が来る前に、一瞬だけ目を閉じた。
あかり。
今から帰る。
=============================
最終幕:病室の夜に
転移の光が消えた。
窓があった。雨が降っていた。
廊下の蛍光灯が見えた。
心拍モニターの電子音が聞こえた。
消毒液の匂いがした。
大地は、知っている場所にいた。
国立医療センターの地下病棟。
あかりの無菌室の前だった。
「ここに転移した?」
水原が周囲を確認しながら言った。
「座標を二〇二六年のここに設定した。
あかりさんの病室が特定できる情報を持っていたから」
「いつかここへ戻ることを、最初から考えていたのか」
「最初から、終着点はここだと思っていた」
大地はガラスを覗いた。
あかりが、白いベッドに横たわっていた。
変わっていなかった。
三週間と何日か前に見た時と、
表情も位置も変わっていなかった。
胸がかすかに上下している。
モニターが動いている。
生きている。
「状態は」
水原がデバイスを向けた。
「……悪化している。
脳波の振れ幅が大きくなっている。
受信量が増えている」
「なぜ増える」
「あなたが各時代で行った介入の記録が、
クロニウム層に蓄積されているから。
介入が増えるほど、記録量が増える。
彼女の脳は今、その全てを受信しようとしている」
「俺のせいで悪化したのか」
「そう単純ではない。
介入をしなければ、根本の傷は残ったままだった。
歴史が修復される可能性はなかった。
悪化したのは事実だが、それは必要な経過でもある」
大地はガラスに手を置いた。
冷たかった。
「根本の傷は、修復されたのか」
「……確認する」
水原がデバイスを操作した。
長い沈黙があった。
「レプティリアンが地下に入った原因の記録は、変化した。
彼らが選んで地下へ潜ったのではなく、
あなたが助けたという記録に変わっている。
それは歴史に刻まれた」
「アヌンナキは」
「エンリルたちは、
数百年後に東の土地へ移住する記録がある。
それも整合している」
「グレイは」
「……グレイの時代は、まだ変化が伝播していない。
時間的に遠いから、変化が届くまでに実時間がかかる」
「つまり、根本の修復は完全ではない」
「今の時点では、そうなる」
大地は額をガラスに押し当てた。
あかりの顔を、すぐ向こうに見ながら。
「彼女が目覚めるには、どうすればいい」
水原は少し黙った。
「……歴史の修復が完全になれば、
受信の暴走が止まる可能性がある。
だが完全になるまでに、
どれだけの時間がかかるかは分からない。
数百年かもしれない」
「数百年後に目覚めても意味がない」
「そうね」
「別の方法は」
水原がデバイスを見た。
「一つ、考えていることがある」
「言え」
「あかりさんの脳は今、
過去と未来の無数の記録を受信している。
その中に含まれているのは、
あなたが各時代で出会った存在たちの記録も入っている。
レプティリアンの恐怖も、グレイの困惑も、
アヌンナキの静かな決意も、全部」
「それが彼女を圧迫している」
「そう。
問題は、受信している情報の質よ。
絶望と恐怖の記録が多すぎる。
そこに希望や生存の記録を大量に流し込めば、
バランスが変わる可能性がある」
「どうやって流し込む」
「あなたが話しかけること」
大地は振り返った。
「話しかける?」
「クロニウム層は、
強い意志や感情を持つ記録を優先的に保存する。
あなたがここで話すことは、
あかりさんが受信している記録の中に直接入る。
あなたの声が、
暴走している受信を落ち着かせるかもしれない」
「確証はないのか」
「ない。でも、やれることはそれしか思いつかない」
大地はガラスを見た。
看護師が廊下を通り過ぎた。
面会時間はとっくに過ぎていた。
「無菌室に入れるか」
「防護服を借りれば入れる。
夜間の手順を調べる」
水原が廊下に出た。
大地は一人、ガラスの前に立った。
あかりの顔を見た。
十七年間、見てきた顔だった。
生まれた時から知っている。
小学校の頃、大地がいじめに遭っていた時に、
担任よりも先に気づいたのはあかりだった。
何も言わずに毎朝並んで学校まで歩いた。
大地が「お前と歩いてると恥ずかしい」と言っても、翌日も来た。
高校の時、大地が進路を決めきれずにいた時に、
あかりは「お兄ちゃんはいつか遠くへ行くと思う」と言った。
どういう意味か聞いたら、「なんとなく」と言って笑った。
その子が今、自分のせいに近い理由で眠っている。
完全に自分のせいではないかもしれない。
クロニウムに触れたのはあかり自身の選択だった。
だが、もしあかりがそれをしなければ、
大地がここへ来ることもなかった。
因果は円環になる。
「あかり」
声を出した。
無菌室のガラスは分厚く、声は届かなかった。
だが大地は続けた。
「遠くへ行ってきた。
本当に遠く。
韮山のおっさんが言っていた通り、時間を越えた。
意味が分からないと思うが、
俺も最初は意味が分からなかった」
自分の声が廊下に吸われていった。
「爬虫類みたいな連中に会った。
中世ヨーロッパで、修道院に潜り込んだ連中だ。
怖かったし、何度か死にかけた。
でも、あいつらの先祖が恐竜だと知った時に、
不思議と怖くなくなった。
先祖は、岩陰で身を寄せ合って震えていた赤ちゃんだった」
あかりの表情は変わらなかった。
だが大地は続けた。
「未来には、もっと変な連中がいた。
頭だけが大きくて、感情がないと言っていた。
でもそれは嘘で、正確には感情の出し方を忘れていた。
あいつらが俺に何かを伝えようとした時、
言葉でも概念でもなく、もっと生っぽいものが届いた。
あれは感情だったと思う。
名前をつけようとすれば、
感謝か、あるいは寂しさか、そういうものだった」
廊下で、水原が防護服を手に戻ってきた。
大地は受け取り、着込んだ。
手順を看護師に確認し、
無菌室の前の小部屋で空気を入れ替えた。
ロックが解除されて、内側の扉が開いた。
部屋の空気は無臭だった。医療機器の低い音がした。
大地はあかりのベッドの脇に、椅子を引いて座った。
姉弟の間に、今度はガラスがなかった。
あかりの手を取った。
細かった。点滴のチューブが刺さっていた。
「数万年前にも行った。
アトランティスってやつだ。
お前、アトランティスって信じてたか。
俺は信じていなかったが、あった。
あったというより、俺が作った部分もある。
詳しく話すと長くなる」
目を閉じたまま、あかりは動かなかった。
「そこに、エンリルという男がいた。
長みたいな人間だった。
俺が大洪水のことを伝えた時に、すぐには信じなかった。
疑いながら聞いていた。
それがお前に似ていた。
お前もそういうやつだろ。
なんか変なことを言われた時に、
すぐ納得しないで、でも否定もしないで、とりあえず聞く。
お前はいつもそうだった」
心拍モニターが、変わらず鳴っていた。
「クロニウムのことも、そうだったんじゃないか。
誰も手をつけていない結晶があって、なんだこれと思って、
でも否定する根拠もないから触れた。それがお前のやり方だ」
あかりの手が、わずかに動いた気がした。
「気のせいじゃないと思いたいが、気のせいかもしれない」
大地は続けた。
「どの時代でも、
死にそうになるたびに思ったのはお前のことだった。
それが不思議だった。
妹を助けたいから行動するというよりも、
なんかお前の顔が浮かんで、
こんなところで死んだらあかりに怒られるという気がして、
それで動いた。変な話だな」
モニターの波形が、わずかに変化した。
水原が小窓越しに覗いていた。
「俺が旅の間に出会ったのは、
みんなどこかで死を前にしていた。
絶滅するか、滅ぼされるか、
あるいは自分たちの意志で止まっていくか。
でも、どいつも、何かを続けようとしていた。
炎の前で引かなかった。
穴の底で長い時間をかけて技術を解析した。
星へ行くための知識を積み上げた。
それは、お前がベッドの柵を握っていたのと同じ顔だと思った」
あかりの眉が、かすかに動いた。
「俺はその顔を、各時代で見てきた。
お前の顔を借りながら、みんなを見てきた。
だからみんなのことが、他人に思えなかった。
助けたのは、お前に似ていたからかもしれない」
モニターの音が、少し変わった。
周期が、わずかに規則的になった。
「あかり」
大地は手を握り直した。
「帰ってこい。まだここにいる」
静かだった。
医療機器の音だけがあった。
それから、数秒が経って。
あかりの唇が、動いた。
声は出なかった。だが、口の形が変わった。
「お……に……」
大地は前に身を乗り出した。
「聞こえるか」
まぶたが、ゆっくりと動いた。
開こうとして、止まって、また動いた。
光の中に、虹彩が現れた。
焦点が合っていなかった。
天井を見ていた。
それが少しずつ定まって、大地の顔に向いた。
「……うるさい、な」
かすれた声だった。
「何が」
「さっきから。ずっと」
「聞こえていたのか」
「……全部は、無理だった。でも、途中から」
あかりが目を細めた。
「エンリルって誰」
「後で話す。水を飲めるか」
「少しなら」
大地は立ち上がり、小窓に向かった。
水原が驚いた顔で立っていた。
「呼んでくれ。医者を」
水原がすぐに動いた。
大地は戻って、あかりの隣に座った。
「どのくらい寝てた」
「一か月くらいだ」
「……そんなに」
「お前が言ったことがあるだろ。
目を覚ましたら星を見たいって」
「言ったっけ」
「言った。小六の時」
あかりが少し笑おうとした。
顔の筋肉が動ける範囲で、笑みに近いものが出た。
「夢、見てた」
「どんな」
「いろんな、ところにいた。
暑いところとか、寒いところとか。
誰かが怖がっていて、
誰かが怒っていて、誰かが……諦めようとしていた。
でもみんな、何かを持ってた。すごく小さい何かを」
「何だ、それは」
「分からない。でも、あったと思う」
廊下が騒がしくなり始めた。医師と看護師が来た。
大地はベッドから離れ、邪魔にならない場所へ引いた。
水原が隣に来た。
「奇跡ではないわ」
水原が静かに言った。
「それぞれの時代の記録が蓄積されて、
バランスが変わった。
あなたが話したことで、
彼女の受信が整理された。説明はつく」
「分かっている」
「でも、あなたは奇跡だと思っている顔をしている」
「思っているかもしれない」
水原が、小さく笑った。
初めて見る種類の笑顔だった。
医師があかりに話しかけていた。
あかりが答えていた。声が少しずつ出るようになっていた。
「あなたはこれから、どうするの」
水原が聞いた。
「ここに残る。あかりが退院するまで」
「その後は」
「分からない。
帰る時代は二〇二六年だから、
韮山の研究所がどうなったかも知らないし、
この先何が起きるかも分からない」
「時間管理局に来る気はないの」
「ない。俺は局員みたいな人間じゃない」
「そうね」
水原は病室の窓を見た。
夜が明け始めていた。
雨が上がっていた。
「各時代に残してきた変化が、
これからゆっくりと歴史に伝播する。
グレイの時代まで変化が届くのに、
実時間でどれだけかかるかは分からない。
数百年かもしれない。
でも、動き始めている」
「あかりの受信は、どうなる」
「暴走は止まった。
でも、チャンネルは残る。
クロニウムに触れた以上、感度は残り続ける」
「それは」
「不便になることも、あると思う。
でも、あなたが旅の途中で
クロニウム層の記録を受け取れたのと同じように、
彼女には別の時代の何かが届き続ける可能性がある」
大地はあかりを見た。
医師の問いかけに答えながら、あかりが何かを言った。
医師が苦笑いしながらメモを取っていた。
「夢の話をしています、とあかりさんが言っています」
水原が翻訳してくれた。
「夢の中で見たことを、全部話したいって」
大地は少し笑った。
「お前らしいな」
病室に、朝の光が差し込んできた。
廊下の蛍光灯が、自動で消えた。
大地は窓の外を見た。
空が、青くなり始めていた。
まだ星が残っていた。
あかりが最後に見たいと言っていた、その星が、
夜明けの空に薄く光っていた。
「お兄ちゃん」
あかりの声が、部屋に届いた。
大地は振り返った。
あかりが天井ではなく、窓の方を見ていた。
「空、きれいだね」
大地は、何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
二人で、同じ窓を見た。
夜明けの空に残る星が、ゆっくりと薄れていった。
————
物語が終わった後に起きたことを、簡単に書いておく。
大地はあかりが退院するまで病院に通った。
あかりは三週間後に退院した。
医師たちは「原因不明の自然寛解」と記録した。
クロニウムの実験を行っていた理学部の研究室は、
その後また別の不明な物質を発見したが、
あかりはその実験には関わらなかった。
水原は二一三六年に戻った。
時間管理局の記録には、
この時代への介入の履歴が残った。
藤堂局長はそれを読んで
「想定通りではない」と言ったが、
記録を削除はしなかった。
レプティリアンは地下に留まった。
中世への介入の記録が消えたわけではなく、歴史の形が変わった。
ある世界線では彼らが人類と接触し、
摩擦があり、時間をかけて別の均衡に至る可能性が生まれた。
それが良い結果を生むかどうかは、まだ先のことだ。
グレイの時代まで変化が届くには、長い時間がかかった。
だがいつか届く。
エンリルは大洪水の数百年前に、集落の人々を説得した。
全員ではなかったが、多くの人間が東の土地へ向かった。
川が二本流れる場所に着いた時、
エンリルはもう老人だった。
彼はその地で死んだ。だが彼の言葉は残った。
「星を目指せ」という言葉が、
何千年もかけて伝わっていった。
大地はその後、普通に生きた。
韮山の研究所の件は、結局うやむやになった。
爆発があったが、負傷者はなかったということになった。
大地は事情聴取を受けたが、
覚えていないことが多すぎて、警察も困惑した。
あかりは翌年、大学に復学した。
専攻は変えなかった。
クロニウムの研究は、別の研究者が引き継いでいた。
夢は、続いた。
大地も、あかりも、時々夢を見た。
知らない時代の、知らない存在の記憶が届いた。
目が覚めると、何を見たかは細部から薄れていった。
だがある種の感覚だけが残った。
誰かが、どこかで、明日を諦めていなかったという感覚。
それだけが、朝になっても残り続けた。
(了)

