「きっと何者にもなれないお前たち」にとっての「出版」の誘惑:承認のシステムの解体と自立回路
「何者にもなれないお前たちへ」はどこに着地したか
2011年のアニメ『輪るピングドラム』に登場するキーフレーズは「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」、である。この挑発的で、まるで現代社会からの宣告のような言葉は、放送から十数年を経た今もなお、私たちの中に巣食う根源的な欲望を鮮やかに抉り出している。それは、「何者かになりたい」という、あまりにも切実で、達成が困難な渇望がある。
「何者か」とは、単なる夢や目標を超えた、存在証明にほかならない。自己の存在が社会から認められ、埋没せず、特定の価値をもって受け入れられたという社会承認を指す。
とりわけ、自己表現や創作活動を志す人々にとって、この承認への渇望は、癒やし難くそして、同時に止むことなく自己を傷つけ続ける毒でもある。創造的なエネルギーの源泉ともなる一方で、それが得られない時の焦燥感や、社会の評価に振り回される。表現者を縛り付ける檻ともなり得る。私たちは、高度に統制された情報社会の中で、他者から「すごい」と指差されつつ、そこに埋没しない自分でいたいという、馬鹿みたいだが、切実な願いをこっそりと恥ずかしげもなく、抱き続けている。この願いこそが、あらゆるクリエイティブな活動の、しかし同時に最も危ういスタート地点にある。それは、しかし、ごく自然なことだ(黒歴史を抱えない表現者は偽物である)。
所得1000万円が象徴する「何者か」の経済的定義
さて、補助線としてだが、嫌な趣向をしたい。「何者か」であることの、最も具体的かつ露骨な露悪的な指標を突き詰めて考えるのだ。それは、感情論を排し、現実面で測るならば、「ある一定水準の社会承認」がもたらす経済的な安定、つまり所得が指標となる。ならざるを得ないというか。
最近、自己表現の分野で成功を収めた著名なAIエヴァンジェリストが「年収1000万円が得られるようになった」と語った事例が象徴的だった。この1000万円という数字が、現代の「何者か」のベンチマークとして機能し得ると思えたからだ。なぜ1000万円なのか。キリが良いこともあるが、この所得水準をコンスタントに20年見通せるということが、住宅ローンを組み、都心にマンションを購入するといった、「表現者ではない一般人が求める安定した社会的地位」を自己表現活動によって凌駕し獲得したことを意味するからである。「私は勝った!」とこっそりほくそ笑むことができるからだ、馬鹿みたいに。
しかも、この経済的な自由は、単なる物質的な豊かさではなく、「誰にも邪魔されず、自分の表現を(ある程度の)自己責任で追求できる時間的・空間的自由」の購入を意味する。好きなこと(自己表現活動)を核に据えながら、同時に強固な経済的基盤を築くことになる。この自己実現と生活の安定性の融合こそが、現代における「何者か」の最も強固な魅惑の一つである。
しかし、これは幻想である。経済的な成功を持続させることは、表現の才能だけでは現実的には不可能だからである。20年という長期にわたり、変化する市場の中でコンスタントに結果を出し続けるには、高度な経営感覚、すなわち自身の表現を価値ある商品として維持・流通させる能力が不可欠となる。表現者にそんな芸当が務まるはずはない。多くのプロフェッショナルな表現者は、純粋な創作部門と、利益を確保するための経営・マーケティング部門を切り離し、優秀なマネージャーやプロデューサーに委ねることで、この不安定な「経済的な何者か」の状態を維持している。そのことで、収入ラインは、3倍、少なくとも3000万円を超えなくてはならなくなるのだが。この時点で、それは異世界であるといっていい。そこからは、表現者の卵よ、目を覚ませ。この側面においては、目を覚ますだけで、済むことなのだから。
旧来の「知的権威」システムの解体と承認の分散化
現代の表現者が「何者か」を求める欲望が、これほどまでに不安定な形をとるのは、私たちが、実際面での経済・経営の充足が背景にあることに加えて、社会承認のシステムのスタンダードが崩壊した時代に生きていることもある。
かつて、知的な達成や言論、創作活動における「何者か」の座は、アカデミズム(大学、研究機関)や、大手出版社、新聞社といった、社会構造に組み込まれた権威的な機関によって厳格に管理・保証されていた。評論家や学者、文筆家は、一流の出版社を介して本を出し、その著作が世に認められることで、堅牢かつ充足した社会承認を得ることができた。彼らが獲得する名声は、専門的な知識と既存の社会的地位に裏打ちされており、その承認は社会構図に根ざすがゆえに揺るぎにくいものであった。このシステムは、芥川賞や直木賞、啓発書やエッセイのベストセラーといった形で今も機能しているが、その権威は失われつつある。
ここで、インターネットとソーシャルメディアの登場は、この強固な「承認の門」を揺るがした。情報流通の門戸が下方に開放され、誰もが即座に自己表現を発表できるようになったため、旧来の権威を通じた承認の価値は相対的に低下した。とりあえず表現者は今、大学の教授会や大手編集部のデスクといった単一の権威に依存するだけでなく、YouTubeのチャンネル登録者数、SNSのフォロワー数、あるいはクラウドファンディングの支援総額といった、極めて流動的で分散化された指標によっても「何者か」を測ることが可能であるかのようになった。旧来の承認システムの解体と分散化こそが、現代の「何者かになりたい」という欲望を、より切実で、自己責任の範囲が広く、そしてより不安定なものにしている理由の一つでもある。これも、芽を覚ませよの部類ではあるが。
作品が「商品」になることで生じる承認の疎外
旧来の堅牢なシステムが崩壊したとはいえ、社会的承認を得るための基本的な回路、特に知的な層においては、その強烈なインセンティブは残っている。それは、「出版」や「公的な業績」といった、創作物・表現物を介した承認である。
逆に言うなら、YouTubeのチャンネル登録者数、SNSのフォロワー数というものでは、確固たる自己表現を実現したとは評価しづらい。少なくとも、表現者の内面において、YouTubeや「インフルエンサー」のやからは、具体的な表現の確固たる存在とはとうてい見えない。彼らはどちらかというと、人気を維持する芸(パフォーマンス)をしているに近い。そのように見えること自体が、知的な表現者的な志向とは異なる。というか、馬鹿みたいだろ、あいつら。
悲しいかな。表現者にとって「出版」は、未だに最も強い誘引(インセンティブ)でありつづける。自己の内側から湧き出た表現は、このプロセスにおいて、一度、疎外された具体的な対象物(商品、業績)へと変容する。市場、編集者の目、大衆の需要といった外部のフィルタを通過し、社会に対して客観的なパッケージとして提示されるものが出版物である。このパッケージが流通されることによって、あるいはそれによってのみ、表現者は間接的に他者・社会から承認されるという構図が完成する。この承認は、理想的には、努力と苦闘に対する具体的な報酬として機能し、表現者に達成の快感と、活動を継続するための持続可能性を与える、はずのものだ。
ここに避けることのできない「罠」が潜んでいる。自己承認の軸としての出版物は、表現の達成感そのものから、いつか来た道ともいえるが、疎外された形態(出版物など)の市場価値や社会的な評価へと移行せざるをえない。この段階で、表現の目的は「表現したいこと」から「評価されたいこと」へと、静かにすり替わりやすい。お金だって、欲しい。また、あの循環である。
コメディの裏に潜む「再定義」の試み:社会構造からの離脱
この不安定な「何者か」への渇望は、個人の問題に留まらず、現代社会の構造的な課題とも深く結びついている。2013年の映画『俺はまだ本気出してないだけ』は、何者でもない中年男性が突然「漫画家」を目指す姿をコミカルに描いている。もっとも、この作品の根底には、就職氷河期を経験し、既存の安定したサラリーマン社会から脱落したり、埋没したりした人々が抱える切実な感情も流れている。主人公や副主人公が、会社という既存の「何者か」(=安定した会社員)の定義から意図せず脱落していく様は、彼らが創作活動という新しい回路を通じて、自己を「クリエイター」という価値基準で社会に再定義しようとする試みでもあった。
彼らにとって「出版」されること(その映画においては商業誌デビュー)は、社会のメインストリームから外れてしまった自分を、創造性という新しい尺度で社会に認めさせるための、最も直接的な手段であった。それは、社会が提供してくれなかった居場所を、自ら創造物を通して勝ち取ろうとする、壮絶なサバイバル劇の裏返しでもある。そして、それは滑稽な、あるいは旧来の「人情味」の次元に予定調和する。めでたしめでたし(絶望的だな)。
均衡しない渇望:「疎外された自己承認」の罠
出版を介した熾烈なサバイバルの中で獲得した外部の承認も、表現者に永続的な満足を与えることはない。これが「表現者の罠」の現実である。社会承認を求め、作品を世に出しても、それは中期的にも、永続的にも充足されないという、本質的な、そして自然な不均衡の状態で均衡してしまう。社会的承認は常に相対的であり、かりに一度ベストセラーを達成しても、次に求めるのはより大きな反響、より高い評価、より多くの所得へのシステムに組み込まれる。人間が構成されるときには、その欲望は歯止めがなくなるものだ。外部からの承認という「水」では、この集団化した渇望の「コップ」を満たすことはできない。
かくして、外部の評価、特に経済的な評価に、自己承認を強く依存させると、評価が得られない時には、あるいは評価が下がった時には、必然的に自己否定に繋がる。社会承認は確かに自己表現の継続を助けるインセンティブだが、それ経済的な機構に組み込まれるてしまうと、表現者は市場や他者の顔色を過度に窺い、本質的な自己表現から離れてしまう。
埋没の中で「自立的な回路」を維持するために
では、私たちはこの「何者かになりたい」という根源的な欲望と「出版」に魅了された、知的な自分という、やっかいで小っ恥ずかしい存在を、どのように飼いならし、新しい自己創造へと変容させれば良いのだろうか。
答えは、「何者かであること」を完全に否定することではない、というか、それであってはならない、と断念的に自己了解すべきなのだ。
社会の構造の中に一時的に埋没し、「何者でもない自分」を受け入れつつも、自分が自立的に自己表現できる回路を維持すること、そう生きる可能性を模索していい。森鴎外のひそみではないが、何者でもないものが、何者、かのように生きるという自己慰撫の幻想のなかで、ある堅実な日常は可能なのだ。2013年の映画『俺はまだ本気出してないだけ』を、そう受け取ってもいい。
これが「些細だが自立的な回路」となる。外部の評価軸に囚われず、表現そのものが自己充足をもたらす内発的動機に基づいた回路である。具体的には、大衆的な出版市場とは別に、特定のファンコミュニティ内での小さな実験的な活動、個人による自費出版やデジタル配信、そして収益を社会承認に依存させすぎない多角化・分散型の表現活動を持つことが含まれる。たとえ主要な経済的な承認システムで評価が得られなくても、表現活動そのものを中断せずに済む「防波堤」を築くことができる。いいじゃないか。50部売れたらいいじゃないか。
社会承認の渇望を完全に捨てる必要はないのだ。それを自己承認の絶対的な起源としなくてもいい。承認の欠乏を自己否定ではなく、次の創作への内発的なエネルギーとして静かに継続する力のほうが、はるかにましだ。旧来の表現者の罠を乗り越え、些細でも自分らしい表現を追求し続けるための鍵となる。
「きっと何者にもなれない」という現実は、悲観的な諦念ではない。そんな当たり前ことは認めるまでもない。無視していいのだ。課題な社会評価という鎖から解き放たれるべきなのだ。自分自身の価値基準を育成し、継続するために自立への出発点を見つめ、自己を一つのプロセスとして了解すればいい。何者かとなって墓石を刻んだとしても、あなたの生は、そこにはないのだ。生はただ、そのプロセスのなかにしかない。



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