こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。娘への暴力が原因で巨人軍監督を辞めた――というか事実上のクビになった阿部さんの件をめぐっては、やはりというか毎度おなじみ、暴力を矮小化・美化・正当化する詭弁で阿部さんを擁護する人たちが、うじゃうじゃと湧いてきました。
私はそういう人たちのことを暴力応援団、略して暴援団と呼ぶことにしました。
暴援団がなぜ暴力を正当化したがるのか。いったいどこからそういう理屈や思想が出てくるのかを、説明しましょう。
その前に今回の件では、どうしても指摘しておかねばならない重大な点がいくつかあります。
まず、暴力行為があったことは阿部さんも認めてますので事実です。暴力はなかったと全否定したらそれはデマです。
娘さんが事後に公表した手紙では、殴る蹴るの暴行はなかったとしてますが、それは裏を返せば、殴る蹴る以外の暴行があったことを否定していないのです。ウソをつかせずに父親の暴力を矮小化するための証言をさせるという、法律に詳しい者がよく使うテクニックです。証言のあとで、暴力はあったじゃないか、となった場合にも、いや、殴る蹴るはなかったといっただけで、暴力がなかったとはいってませんけど~と言い逃れができるのです。
巨人軍の味方である読売新聞にも、阿部さんが娘の襟元を掴んで投げ飛ばす暴力行為があったとはっきり書かれてます。長年体を鍛えてきたガタイのいいプロスポーツ選手が酒に酔った状態で18歳の女性を掴んで投げ飛ばしたら、ヘタすりゃ大ケガを負わせる可能性もあるのだから、きわめて危険な暴力です。
今回の件では娘から相談を受けた児童相談所が即、警察に通報し、警察が即父親を逮捕したことが驚きをもって報じられました。そのため、児相も警察もやりすぎだとの声が上がったのですが、これは決してやりすぎではありません。両者の対応は適切だったと私は考えます。
児童相談所の職員も警察官も、さまざまな事例を多数見て処理してきたプロです。しょうもない家族のケンカから、傷害事件まで、いろんなケースを知ってる彼らだからこそ、誤通報や誤認逮捕につながらないよう、慎重な対応を心掛けているはずです。むしろストーカー殺人などの例では、警察の対応が慎重すぎたことがたびたび問題視されてきました。
なのに今回の件では、児相、警察、ともに即座に対応しました。これはつまり、両者ともに、あきらかに緊急性を要する重大な暴力事案と判断したということを示しています。
仮に、電話で相談を受けただけの児相が勇み足で警察に通報したのだとしても、警察は個人宅というプライベートな空間に踏み込んだのですから、さらに慎重になっていたはずです。それでも現行犯逮捕したのだから、そうせざるをえない理由があったと考えるべきです。
何の暴力行為も認められないのに逮捕したのなら、とんでもない人権侵害です。阿部さんと弁護士はなぜ即座に警察を訴えなかったのですか? それはつまり阿部さんの側も警察と児相の判断が適切だったと認めてるからですよね。
もうひとつ気がかりなのは、暴力の現場に居合わせたとされる阿部さんの妻(娘の母親)の動向がまったく不明だということ。いろいろな報道に目を通したのですが、妻の動向が一切報じられてないのは不自然すぎます。未成年の娘に声明文を出させておいて、父親とともに娘の監督責任を負っているはずの母親が何も行動しない、何も発言しないのは、それこそ無責任だとの誹りをまぬがれないはずです。
それとも、妻が見聞きした事実を公表されると阿部さんが抜き差しならないマズい状況に追い込まれてしまうとか? だから口止めされてるとか? このへんのことは週刊誌が追加取材であきらかにしてくれるのを待ちましょう。
さて、前置きが長くなりましたが、暴援団の倫理観と詭弁についての解説に入りましょう。
暴力を肯定・擁護・正当化する人たちの言説は必ずダブルスタンダードになるという原則を、まずは知っておいてください。
以前私がブログ記事(
戦争を異常だと感じなくなってきたみなさんへ)で述べたように、暴力を否定するなら、原則的にすべての暴力を否定するしかないのです。これは良い暴力だから許す、これは悪い暴力だからダメ、なんて区別をすれば、必ず暴力の恣意的な正当化が起こり、その矛盾によって暴力否定論は骨抜きにされます(警察など公権力による暴力の行使は厳しい規則で縛ることで例外的に許されているとみなされます)。
今回の件でも暴援団は初手からあきらかなダブルスタンダード(ダブスタ)をやらかしてました。暴力があったかどうかも不明とされていた当初の時点で、事情があきらかでないのに父親を責めるのはおかしい、と彼らは擁護したのですが、そう発言した同じ人たちが、娘が児相に相談した行為については「軽率だ」と批判してたんです。娘の行動だって事情があきらかでなかったのに、同じ理由で父親は擁護し、娘は批判する。とてもわかりやすいダブスタです。
要するに暴援団にとって、父親が正しくて娘が悪いという結論は事情を聞くまでもなく最初から決定事項なんです。その結論を正当化するために彼らの主張は果てしなく歪み、矛盾にまみれていきます。
暴援団の考えの根底にあるのは「暴力は両者の力関係において正当化される」という勝手すぎる価値観・倫理観です。
そもそも彼らは、暴力は秩序を保つために不可欠な手段であると決めつけてます。暴力なしで秩序を守ることなんてできっこないだろ、とそれが宇宙の法則ででもあるかのようにいうのですが、暴力がよのなかに不条理・不公正・不平等を生み出して秩序を乱す大きな原因となっていることは完全に無視してます。暴力による秩序はまやかしの平和です。
そんな彼らは自分でも暴力を振るっているのかというと、そうとはかぎりません。暴力を振るうことができない小心者なのに――いや、小心者だからこそ、暴力による支配や強さにあこがれることもよくあります。暴力加害者を賛美して自分も強者の仲間入りをしたつもりになっているだけです。でも強者はそういう小心者のことをせせら笑っているんですけどね。
暴力の矮小化・美化・正当化は、暴力を振るった者が有力者や権力者、有名人である場合にとりわけ顕著に見られます。
よのなかには、有力者や権力者の暴力(性暴力や恫喝も含め)はすべて免責されるべきだと本気で思ってる人たちが少なからず存在するのです。
いうまでもありませんが、社会的地位のある有名人は犯罪を行ったとしても免責されるなんて法律はありません。もしあったら憲法の法の下の平等に反します。
なのになぜそういう考えを支持するのか。暴援団が理想とする秩序がいわゆる「タテ社会」の秩序、支配と服従の関係性だからです。彼らは人間関係には、支配するかされるかの二択しかないと考えます。なのですべての人間には順位があって、上位の者が下位の者を支配するのは当然の権利であると考えます。上位が下位に対してどんな理不尽な行為をしても許される。下位の者は黙って服従するしかない。悔しかったら支配する側になるしかないのだ。とまあ、そんなような殺伐とした人間観です。
地位の高い者が、自分より下位の者の行為を見て、それが自分の価値観に反してると判断した場合、地位が高い者にはそれを矯正する権利がある。言って聞かなければ殴って従わせる当然の権利がある。というのがタテ社会信奉者にありがちな考えかたです。
それを学校に当てはめると、教師が生徒を殴るのは教育的指導や矯正のための良い暴力、必要な暴力として正当化されます。特にヒドいのが運動系の部活動で、コーチが選手を殴る、先輩部員が後輩部員を殴るといった、タテの力関係を背景とした暴力が昭和時代には蔓延してましたし、いまだにたびたび発覚して問題になるってことは、運動部の体質はむかしから変わってないのかもしれません。
悔しかったら支配する側になれという考えかたこそが、タテ社会のもっとも有害な倫理観です。それは暴力継承システムとして機能し続けるからです。
理不尽に先輩やコーチに殴られて悔しいのなら、その先輩やコーチを殴り返せ、というのなら、それはある意味公正な暴力システムです。
ところがタテ社会では暴力の流れは上から下への一方通行という掟があるので、下位の者が上位の者を殴るのは御法度です。じゃあ殴られた者は悔しさをどこへぶつけるかというと、自分が先輩になったときに後輩を理不尽に殴るのです。
これがタテ社会の暴力継承システムであり、私はイジメというものがなくならないのも、このシステムに絡め取られてしまう人が多いからだと考えます。
こどものころにヒドいイジメを受けていたことを告白した芸人は何人もいます。ところがその人たちが売れて上の立場になると、後輩をいじめたり、立場の弱い女性をレイプしたなんてことが報道されてます。
自分がいじめられてツラい思いをしたから自分は決してそんなことをしない、というのが人間としてまともな生きかただと私は思うんですけどね。自分がエラくなったから今度は弱い立場のヤツをいじめてやろう、陵辱してやろう、なんてヤツは性根が腐ってます。でも弱い人間ほど支配と服従の関係制から逃れられず、結局、暴力継承システムに加担してクズになってしまうのだとしたら、哀しいことです。
やっかいなのは学校よりも家庭内にタテ社会的支配がある場合です。学校での暴力は当事者やそれ以外の目撃者が告発することでバレますが、家庭内暴力は家族しかいない密室で起こるので、なかなか周囲に気づかれません。
だからこそ、こどもの人権と安全を守るために児童相談所や警察の介入が必要とされるのですが、タテ社会の倫理観では、こどもが親の暴力を告発することも、平和と秩序を乱す卑劣な裏切り行為とみなされます。なので暴援団は暴力を振るう親を擁護するだけでなく、被害者である子どもの味方をさせまいと牽制球を投げまくります。
阿部さんの件では、事件発覚後には、こんな感じの声がたくさん上がりました。
娘が親に殴られたことの腹いせに通報するなんて、あきれる。
巨人の現役監督である父親が逮捕されたら、どういう事態になるかくらい理解できないのか。
誰のおかげでメシが食えていい生活ができてると思ってるんだ。
こういった批判は娘本人に向けられたものであると同時に、娘の味方をしようとする者への牽制でもあるのです。
こういうことを平然といえる(書ける)人たちが、よのなかには大勢います。この人たちは自分をクズだなんて思ってません。同じ考えの仲間が大勢いるのを知ってるから、、自分の正しさに自信を持っているのです。
社会的地位のある親は家族に何をしても許される。こどもは立派な親に恥をかかせるようなマネをしてはいけない。たかが暴力ごときで、社会的に有用な人間が活動を制限されるのは社会にとっての損失なので、地位の低い被害者は暴力を不問にすべきである。タテ社会原理に根ざした暴力応援団によって、これからも暴力容認論は継承されていくでしょう。
ここまでお読みになって、タテ社会の信奉者は私に激しい敵意と憎しみを抱いたかもしれません。SNSに呪詛や邪言を書きこみ憂さを晴らしますか。それとも図星を突かれた悔しさを隠すために、わざとシニカルな態度をとって、俺は強い男だぜとアピールしますか。
もしもあなたが私に共感し、タテ社会の不条理さに嫌悪感や怒りをおぼえたならば、あなたは私と同じリベラルな考えの人間です。
一般的にはリベラルと保守が対立概念とされがちですが、それはリベラルと左翼を混同した間違いであることは多くの識者がすでに指摘しています。
リベラルの定義はいろいろあるのですが、私はリベラルを、支配するされるという暴力的なタテの関係性から人間を解放し、ヨコのつながりと対話による秩序を重視する行動原理ととらえてます。
第二次大戦後、世界はリベラルな価値観を理想とする方向へ進んでいたはずなのに、近年は日本を含め世界中で、タテ社会的価値観が復活してきています。なんだかこのままだと『北斗の拳』のような、力がすべてを支配する殺伐とした世界になってしまいかねないそうだなんて思ってたところに、4月から『北斗の拳』のリメイク版アニメが放送され始めたのでびっくりしました。ひょっとしたら私と同じ懸念を抱いてる人たちが企画したのでしょうか。
タテ社会の倫理と暴力を肯定する一部の人たちは、それが古代からある儒教の教えにもとづいているとカン違いしてたりするので、孔子や『論語』をむやみにありがたがります。
でも儒教の祖とされる孔子が徹底した非暴力主義者だったことは、ほとんど知られていません。孔子が弟子やこどもに手をあげたなんて逸話はひとつもないんです(自分の家族は放置して弟子たちと放浪してたことは、それはそれで問題かもしれませんが)。
『論語』で孔子は死刑も戦争も否定しています。国の予算が逼迫したらまず軍事費を減らせといってます。『論語』のなかで孔子が暴力をふるったのは一度だけ。いい歳こいて無礼な振る舞いばかりしてる親戚の男のスネを杖で叩いたというエピソードのみです。
儒教はたしかに長幼の序というタテ社会的倫理観を大事にしますが、孔子がそれを非暴力で実現すべきものとしていた点は、孔子の思想を理解する上で非常に重要なのに、ほぼ無視されてます。もし、学校の国語や漢文の授業で孔子の戦争否定論や非暴力主義を教えたら、教育の政治的中立性に違反している! と文科大臣に叱られちゃうのかな。