抗議デモは「ごっこ遊び」ではない カウンター・デモクラシーと民主主義のもう一つ回路
ここ数ヶ月ほど、日本において、高市政権への抗議デモが大きな盛り上がりを見せています。国会前には、改憲や戦争加担に反対する市民が集まり、ペンライトやプラカードを手に、政府に対して明確な異議申し立てを行っています。先日のデモでは、主催者発表で5万人が集まったとも伝えられました。
この動きについて、とある政治家が「国会に集まってペンライトを振っても政権は変わらない」「ごっこ遊びにしか見えない」と発言をして失笑と顰蹙を買いました。
なるほど確かに、デモをやったからといって翌日に政権が倒れるわけではないし、ペンライトを振ったからといって、ただちに法律が変わるわけではないかもしれません。つまり、もし政治というものを「選挙で勝つこと」「議席を取ること」「政権を奪うこと」だけに限定して理解するなら、デモは政治的に無力なものにしか見えないでしょう。
しかし、そのような見方は、民主主義というものをあまりにも狭く捉えています。
フランスの政治思想史家ピエール・ロザンヴァロンが提唱した 「カウンター・デモクラシー」 という概念を、現在のコンテキストを読解するための補助線として引くと、日本で起きている一連の運動はまったく違って見えてきます。
カウンター・デモクラシーとは?
ロザンヴァロンは、現代民主主義を、選挙によって代表者を選ぶ制度だけでは捉えきれないと考えました。民主主義には、代表を信任する仕組みとは別に、市民が権力を疑い、監視し、批判し、時には阻止しようとする「不信にもとづく民主主義」の次元があります。
ロザンヴァロンはこれを「 la contre-démocratie=Conter Democracy=カウンター・デモクラシー」と呼びました。
ここで重要なのは、カウンター・デモクラシーとは「反民主主義」ではない、ということです。むしろそれは、民主主義を補完するものです。ロザンヴァロンによれば、カウンター・デモクラシーは、市民社会が権力に対して 監視・阻止・審判 を行う実践として現れます。
この観点から見れば、現在の高市政権への抗議デモは、決して「ごっこ遊び」などではありません。それは、選挙と選挙のあいだに、市民が権力に対して「私たちは見ている」「私たちは承認していない」「この決定には政治的コストがある」と可視的に示す行為なのです。
別の言い方をすれば、デモの意味と目的は、ただちに政権を倒すことだけにあるのではありません。デモは「権力への監視」であり、「政策への牽制」であり、「政治家への審判」という意味もあるのです。現在の日本で起きている高市政権への抗議デモは、まさにロザンヴァロンのいうカウンター・デモクラシーの実践なのです。
「ごっこ遊び」に見えるものの中に現代政治の変化がある
興味深いのは、今回の抗議活動が、従来型のデモとは少し異なる文化的スタイルをまとっていることです。ペンライト、推し活グッズ、手作りのプラカード、SNSでの拡散といったスタイルには、かつての労組型・党派型の動員で動いた左翼運動とは異なる、市民文化・若者文化・ファンダム文化と政治的意思表示の接続が見て取れます。
このようなスタイルを見たからこそ、件の議員は「ごっこ遊びのようだ」と感じたのかも知れませんが、もしそのような薄っぺらい感想しか持てなかったのだとすれば、現在の世界で進行している「政治参加の形式の変化」というマクロ・コンテキストを全く読み取れていない、ということを示しています。
現代の政治参加は、かつてのように、党員証を持ち、組合旗の下に集まり、定型的なシュプレヒコールを上げるものだけではありません。個人が、それぞれの生活世界や文化的記号を持ち寄りながら、政治的意思を表明する。これもまた、現代民主主義の一つの姿です。
ペンライトを振ることが「ごっこ遊び」にしか見えないという感覚にこそ古い政治観が露呈しているのです。政治とは、永田町の中だけで行われるものではありません。政治とは、社会の中で何が許され、何が許されないのかをめぐる意味の闘争でもあります。
その意味で、街頭に集まり、身体をそこに置き、声を発し、光を掲げることは、きわめて現代的な政治的行為なのです。
エリカ・チェノウェスの「市民的抵抗」
ここで、もう一つ重要な補助線があります。エリカ・チェノウェスによる 「市民的抵抗」 の研究です。
チェノウェスは著書「市民的抵抗:非暴力が社会を変える」などを通じて、20世紀から21世紀にかけての暴力的闘争と非暴力的闘争を比較し、非暴力的な市民的抵抗が、しばしば暴力的闘争よりも大きな政治的成果を上げてきたことを明らかにしました。
チェノウェスによる研究では、1900年から2006年までの主要な暴力的・非暴力的キャンペーンを比較した結果、非暴力キャンペーンの成功率は暴力的キャンペーンを大きく上回ったとされています。
チェノウェスがいう市民的抵抗とは、武器を持たない市民が、ストライキ、デモ、ボイコット、不服従、座り込み、監視、告発などの非暴力的手段を組み合わせて、政治的・社会的な対立に働きかける実践です。
チェノウェスの主張の重心は、単に「平和的だから良い」といった類の道徳論ではあるのではなく、「効果的だから良い」という戦略としての実効性にあります。チェノウェスの議論の核心は「抗議デモなどの非暴力的抵抗には、実践的・戦略的な政治的パワーがある」ということです
暴力的闘争には、参加できる人が限られます。危険も大きく、共感も支持も得られにくく、政府側に弾圧の口実を与えやすい。それに対して非暴力的抵抗は、高齢者、若者、女性、障害者、専門職、学生、労働者など、より幅広い人々が参加しやすい。参加のハードルが低いからこそ、運動の規模が大きくなり、社会全体に広がりやすい。
そして、運動が大きくなればなるほど、権力の側はそれを無視しにくくなります。メディアは報じざるを得なくなり、政治家は発言を迫られ、官僚機構や警察、司法、企業、労組、宗教団体、教育機関など、社会のさまざまな中間組織も態度を問われるようになります。これが、市民的抵抗の力です。
言い換えるならば、非暴力的な抗議デモは「ゴッコ遊び」ではありません。むしろ、多数の人々を巻き込み、権力の正統性を揺さぶり、社会の規範を変化させるという点で、きわめて強力な政治的実践なのです。
重要なのは、非暴力的な市民的抵抗が、21世紀の政治変動において中心的な役割を果たしているという事実です。市民は必ずしも政党に入ることだけで政治参加するわけではありません。労働組合だけが動員の中心でもありません。人々はSNSでつながり、街頭に集まり、ボイコットを呼びかけ、寄付を行い、動画を拡散し、企業や大学や自治体に立場表明を迫る。政治参加の回路は、多層化し、分散化し、日常生活の中へと浸透しています。
テクノロジーがカウンター・デモクラシーのインフラになった
さらに見落としてはならないのは、テクノロジーによって政治権力の構造そのものが変化しているという点です。
かつて政治的影響力は、政党、官僚制、マスメディア、労働組合、大企業といった巨大な中間組織に集中していました。市民は、その組織に参加し、そこを通じて政治的影響力を行使するしかありませんでした。政治家に声を届けるには政党が必要であり、社会に問題を知らせるには新聞やテレビが必要であり、多数の人を集めるには労働組合や業界団体や宗教団体の動員力が必要でした。
しかし現在では、SNS、スマートフォン、動画配信、メッセージアプリ、オンライン署名、クラウドファンディング、ハッシュタグ、ライブ配信によって、個人や小さな集団が、かつては考えられなかった規模で情報を発信し、人々を動員し、権力を監視することができるようになっています。
その意味で、政治権力は国家や政党から大衆へと単純に移ったというより、垂直的な構造からネットワーク的な構造へと変化しているのです。
法律を制定する権限や行政を動かす権限は、依然として政府や議会にあります。しかし、注目を集める力、世論を形成する力、政治家に説明を迫る力、不祥事を可視化する力、正統性を揺さぶる力は、明らかに市民の側へと分散しています。
これは、ロザンヴァロンのいうカウンター・デモクラシーを大きく増幅する変化です。
市民はもはや、選挙の日に一票を投じるだけの存在ではありません。スマートフォンを手にした市民は、監視者であり、発信者であり、動員者であり、審判者でもあります。テクノロジーは、カウンター・デモクラシーのインフラになったのです。
かつての権力は、上から下へ流れるものでした。政府が決める。新聞とテレビが報じる。国民が受け取る。選挙で評価する。これが大まかな回路でした。
しかし現在は、下から上へ、横から横へ、瞬時に情報が流れます。市民が現場を撮影する。SNSに投稿する。共感が広がる。メディアが後追いする。政治家が反応を迫られる。行政が説明を求められる。企業や大学や自治体も態度を問われる。こうした回路が生まれています。
2019年には、世界各地で大規模な抗議運動が広がりました。ニューヨーカー誌は、同年の抗議運動について、香港、チリ、スーダン、アルジェリア、ボリビアなど、世界のさまざまな地域で、市民が街頭に出て政治的変化やよりよい統治を求めたと報じています。そこでは、非暴力的な手法、現代テクノロジー、SNSによる組織化が重要な役割を果たしたとされています。
この変化を考えると、高市政権への抗議デモも、単なる「街頭の騒ぎ」ではありません。それは、デジタル時代における政治権力の再配置の一部です。大衆は、もはや政治を受け取るだけの存在ではない。情報を生産し、意味を拡散し、権力を監視し、正統性を揺さぶるネットワーク主体になっているのです。
高市政権への抗議デモをどう見るべきか
以上の補助線を引くと、高市政権への抗議デモは、単なる一時的な反対運動ではなく、より大きな文脈の中に位置づけられます。
それは第一に、カウンター・デモクラシーです。選挙によって成立した政権に対して、市民が白紙委任を拒み、継続的な監視と牽制を行う行為です。
第二に、それは市民的抵抗です。暴力ではなく、集会、デモ、言葉、光、身体、SNS、文化的表現を通じて、権力に対して異議を申し立てる非暴力的な政治実践です。
第三に、それはテクノロジーによって可能になったネットワーク型政治参加です。従来の政党や労組の動員とは異なり、個人が情報を見つけ、拡散し、共感し、自発的に集まることで成立する、新しい政治参加の形式です。
そして第四に、それはグローバル・コンテキストの一部です。代表制への不信、権力への監視、ネットと街頭の接続、若者文化と政治参加の融合、非暴力的抵抗の広がり。これらは日本だけの特殊現象ではなく、世界中の民主主義社会で起きている変化です。
この動きを「ごっこ遊び」と嘲笑することは、民主主義の理解としてあまりにも貧しいと言うしかありません。
デモは、ただちに政権を倒すためだけのものではありません。デモは、権力に対して「あなたたちは見られている」と知らせる行為です。社会に対して「この政策に同意していない人々がこれだけいる」と示す行為です。参加者自身に対して「自分は孤立していない」と確認させる行為です。そして、まだ迷っている人々に対して「声を上げてもよいのだ」と示す行為です。
市民的抵抗の力は、こうした小さな効果の積み重ねにあります。最初は小さな光に見えるかもしれません。しかし、それが集まることで、政治の風景は変わります。誰が多数派なのか。何が正当なのか。何が許されるのか。社会の感覚が少しずつ変わっていく。
政治変化とは、しばしばそのように起こります。
民主主義は投票箱の中だけにあるのではない
もちろん、カウンター・デモクラシーにも、市民的抵抗にも、テクノロジーによる大衆的権力にも危うさはあります。不信が健全な監視として働く場合もあれば、単なる怨念、陰謀論、反制度感情、ポピュリズムへと劣化する場合もあります。非暴力運動も、組織化を欠けば一過性の熱狂に終わることがあります。主張が曖昧であれば、広がりはあっても政治的成果につながらないこともあります。
しかし、その危うさを認めたうえでも、市民が非暴力的に集まり、声を上げ、権力に異議を申し立てることは、民主主義にとって不可欠です。
民主主義とは、投票日に一票を投じて終わるものではありません。選挙で選ばれた権力に対して、市民が継続的に目を向け、声を上げ、異議を申し立てることもまた、民主主義の重要な構成要素です。
むしろ、選挙で勝った政権だから何をしてもよい、という発想の方が危険です。代表制民主主義は、権力への白紙委任ではありません。選挙は信任の制度ですが、民主主義には同時に、不信を制度化し、可視化し、政治的圧力へと変換する仕組みが必要です。
その一つが、デモであり、抗議であり、市民社会による監視です。
そして、その非暴力的な抵抗が、ときに大きな政治的成果を生み出すことを、エリカ・チェノウェスの研究は示しています。さらに、そのような抵抗を生み出し、広げ、可視化するためのインフラを、現代のテクノロジーが提供しています。
「ごっこ遊び」と嘲笑されたペンライトの光は、実は、現代民主主義のもう一つの回路を照らしているのです。
選挙で代表を選ぶ民主主義だけでは、もはや市民の政治的意思は十分に表現されない。だからこそ、市民は街頭に出る。SNSで声を上げる。プラカードを掲げる。ペンライトを振る。動画を配信する。ハッシュタグをつける。仲間を見つける。自分は一人ではないと知る。
そうした一つひとつの行為が、権力に対する監視となり、牽制となり、審判となる。そして、それが持続し、広がり、組織化されていくとき、非暴力的な市民的抵抗は、現実の政治を動かす力にもなりうる。
高市政権への抗議デモを、単なる一時的な反対運動として見るのではなく、カウンター・デモクラシーの実践として、市民的抵抗の一形態として、そしてテクノロジーによって可能になったネットワーク型政治参加として見ること。そこから、現代日本の政治だけでなく、世界の民主主義が置かれている大きな文脈が見えてきます。
民主主義は、投票箱の中だけにあるのではありません。民主主義は、街頭にも、広場にも、インターネットにも、そして市民一人ひとりの「それはおかしい」という感覚の中にもあります。
今回のデモの盛り上がりは、そのことを改めて私たちに思い出させているのだと思います。
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”抗議デモは「ごっこ遊び」”などとのたまう議員に、 はや”奢り(おごり)"が感じられます。 そのような議員や政党が政権の中心にいることに、怒りと、 ”この国を危うくする(久しからず、としてしまう)のは そういう政治家だろう”などと不安を感じます。