埋められた2万人の将校らの遺体、ただ一人の女性飛行士はなぜ空を目指し、虐殺されたのか ノンフィクション作家・小林文乃さんが迫る「カティンの森事件」の謎

ロシア・スモレンスク郊外のカティンの森にあるポーランド人捕虜集団墓地の入り口(小林文乃さん撮影・提供)

 第2次世界大戦中、旧ソ連がポーランドの将校ら2万数千人を虐殺し、現在のロシア西部の森に埋めた「カティンの森事件」。「独ソ戦最大の謎」ともいわれ、巨匠アンジェイ・ワイダ監督も映画「カティンの森」で題材としたが、日本人で知る人はそう多くないだろう。
 ノンフィクション作家の小林文乃さん(45)は、この事件にこだわった。犠牲者の中におそらくたった一人、女性がいたこと、彼女が優秀な飛行士であったことを知って、衝撃を受けたからだ。
 名前をヤニナ・レヴァンドフスカという。小林さんは彼女の足跡を追ってポーランドへ、そしてロシアを訪ねる。ヤニナはその姿をなかなか見せてくれなかった。苦労の末、書籍「カティンの森のヤニナ」を書き上げ、2023年に出版した。ヤニナはなぜ空を目指し、殺されたのか。小林さんに聞いた。(共同通信編集委員=田村文)

ヤニナ・レヴァンドフスカ=1936年撮影(小林文乃さん提供)

■ポーランドの悲劇を象徴する姉妹

―本書「カティンの森のヤニナ」によれば、ヤニナは1908年、現在のウクライナ東部・ハリキウ生まれ。活発な女性で、郵便局で働きながら飛行クラブに入り、ヨーロッパ人女性として初めて高度5千メートルからのパラシュート降下に成功したとも言われています。ポーランド空軍のパイロットとして1939年9月に出征。1940年に殺害され、1943年にカティンの森で遺体が発見されました。ヤニナがパイロットだったことは、小林さんにとって大きかったのですね。

 「そうです。もともと飛行機好きということもありますし、スベトラーナ・アレクシエービッチの作品『戦争は女の顔をしていない』の影響で、旧ソ連・赤軍の女性飛行士について調べていた時期もあります。日本では第2次大戦中に女性兵士はいなかったけれど、ヤニナはあの時代にパイロットになり、戦場に赴き、殺された。この希有な女性の存在を知り、頭から離れなくなりました。足跡をたどるうちに、飛行機の黎明期のありようや、ポーランドの航空史にも深入りしていきました」

 「家族の運命も数奇なものでした。特に妹アグネシュカは、レジスタンス組織のメンバーとなり、ワルシャワ郊外の森でナチスに処刑されたことが分かり、驚きました。独ソに分割占領されたポーランドの悲劇を象徴するような姉妹でした」

アグネシュカ・ドヴブル・ムシニツカ。ヤニナの妹=1938~39年撮影(小林文乃さん提供)

■最期ぐらいは取り乱したのだと思いたい

―主人公に据えたヤニナの足跡や人物像というのは、なかなか明らかにならなかったようですね。本書はヤニナの評伝ではなく、帯では「歴史紀行ノンフィクション」と紹介されています。

 「残っている資料が少ないし、関係者もいないので難航しましたが、例えば彼女と同じ収容所の捕虜だった人はヤニナと思われる女性について『辛抱強い』とか『あらゆる困難や拘束の不便な日々を、彼女は模範的な態度で耐えている』などと書き残しています。強い精神力を持ち、男性たちの中でも敬意を払われていたのでしょう」

 「軍人だった厳格な父に育てられ、11歳年下の妹の母親役も担いました。働きながらパイロットの資格を取り、戦争に巻き込まれてしまった。勇敢で完璧な女性だったのだと思います。殺害された時の様子は分かりませんが、いつも自分を保ち、自分の役割を演じていた彼女も、最期ぐらいは人間らしく取り乱して泣き叫んだのだと思いたかった。英雄物語ではなく、一人の女性のありのままの姿を書きたかったんです」

ヤニナと、夫のミエチスワフ。夫婦ともにパイロットだった=1939年撮影(小林文乃さん提供)

■虐殺を実行したのは旧ソ連かドイツか

―カティンの森事件が「独ソ戦最大の謎」と呼ばれているのはなぜですか。

 「第2次世界大戦中に旧ソ連の捕虜となっていた約2万数千人のポーランド人将校らが虐殺された事件なのですが、最初の数千人の遺体は1943年に見つかりました。ポーランドの軍服を着ていて、1発の銃弾で頭部を撃ち抜かれていたといいます。その約3年前から行方不明になっていた将校たちで、幾つもの穴の中に累々と積み上げられていた。弾丸はドイツ製でしたが、遺体の手を縛っていた縄は旧ソ連製、結び方も通称『ソ連縛り』。長い間、旧ソ連とドイツはお互いに相手国の犯行だと言い合っていました」

 「決着するのはゴルバチョフ政権下です。タス通信が、事件はスターリン時代の内務人民委員部(NKVD)によって1940年に行われたと公式見解を発表しました。この発表はペレストロイカの柱である『グラスノスチ』(情報公開)の中でも重要なものだった。でも、いまだに事件の全貌が判明しているわけではありません」

ヤニナの故郷ルソヴォの博物館に収蔵されているヤニナの頭蓋骨のレプリカ。1943年に発見され、2005年に故郷へ返還された(小林文乃さん撮影・提供)

■ホームステイから帰国後、崩壊した旧ソ連

―小林さんがカティンの森事件に関心を持ったきっかけを教えてください。

 「アンジェイ・ワイダ監督の映画『カティンの森』を見て強烈な印象を受けたのですが、歴史的な背景がよく理解できていなかった。その後、私の前作『グッバイ、レニングラード』を書くために独ソ戦を調べた際に、事件の重要性を知り、映画を見直しました。やがて虐殺された捕虜の中に女性飛行士がいたという事実に行き当たり、彼女を追ってみようと決心しました」

 「ロシアとの出会いは10歳の頃にさかのぼります。1991年夏、テレビ番組の企画で『こども特派員』として2、3週間ほど旧ソ連に滞在したのです。モスクワ市内の家庭にホームステイし、コルホーズ(集団農場)での生活も経験した。帰国してまもなく、旧ソ連が崩壊しました。以来、ソ連とは何だったのかと関心を持ち続けています」

―取材はいつからで、どんな経過をたどったのですか。

 「2019年は3度、現地に入りました。6月にワルシャワで『カティン博物館』などを取材したのを皮切りに、クラクフ、グダンスク、ポズナン、ヤニナの故郷の村と回りました。その後、ロシアに入国して、捕虜収容所のあった場所から、最終地カティンの森へ。さらに2021年にはヤニナの妹アグネシュカの取材のため再びポーランドへ行きました」

小林文乃さん=2026年3月、東京都内

■「使命感に突き動かされ」

―本書には、取材しながら自問自答する場面が何度も出てきて印象的でした。取材に出る前には『私は知りたい。私が知りたいと思うものを、人は知りたいと思わない。ならば、その価値を証明することは、自己の証明に他ならないだろう』と記しています。その後も、自分を励ましながらの取材だったようですが、情熱の源泉は何だったと思いますか。

 「使命感のようなものに突き動かされていたのだと思います。子どもの頃は冒険小説や少年漫画が好きで、中学生の頃には宮崎駿監督の映画『紅の豚』の世界に憧れた。乗り物全般が大好きで、車の免許を取るとサーキットでのドライバー講習に出たりしました。だからこそ、女性飛行士のヤニナに強く惹かれた。一方で、私は戦争を経験したわけではなく、家族を殺されたわけでもない。当事者ではない私が書いていいのかという問いを、常に抱えていました」

「カティンの森のヤニナ」の表紙

■ヤニナは私であり、あなたでもある

―2022年にロシアがウクライナに侵攻して以降、また状況が変わったと聞きます。

 「ロシアがまた、カティンの森事件はドイツのしわざだと言い始めているのです。私には、今回のウクライナ侵攻が独ソ戦の続きのように思えてなりません。ロシア軍撤退後のキーウ近郊などでは、地中から遺体が次々と発見され、カティンの森事件の資料で見た光景と重なります。1933年から45年までの間にドイツと旧ソ連によって、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ロシア西部の一帯で1400万もの人が死に追いやられたとも言われています。米国の歴史学者は『ブラッドランド』(流血地帯)と名付けました。そして21世紀のいま、また血が流れている。とてもつらいです」

 「本の執筆中にウクライナ侵攻が始まったこともあって、夜、悪夢をよく見ました。自分の住んでいる村に軍隊が押し入ってくる。屋根裏に隠れているのですが、とてつもない恐怖です。戦争は昔の話ではありません。ヤニナは私であり、読者のみなさんでもあると、私は思います」

―「カティンの森のヤニナ」は、ポーランド外相主催の「最優秀歴史書コンテスト」外国語出版物部門で日本人初の特別賞を受けました。授賞式はいつ、どこで開催されたのですか。

 「2025年12月にポーランドの外務省で開かれました。私が受賞した際の選考対象は、2023年と2024年に刊行された作品です。カティンの森事件の犠牲者の中に女性飛行士がいたことは、実はポーランド国内でも知る人はあまりいません。私の受賞で、一人でも多くの人に知ってもらえる機会になればうれしいです」

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 こばやし・あやの 1980年、神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。京都造形芸術大卒。広島の牧師、谷本清さんの長女、近藤紘子さんの著書のプロデュース・構成を担当、「ヒロシマ、60年の記憶」として出版され、話題になった。単著にノンフィクション「グッバイ、レニングラード」、共著に「ショスタコーヴィチを語る―亀山郁夫対談集」など。

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