以前に拙ブログで、喫茶店で『早く死んで生まれ変わりたい』と言っていた人の話を書いた。私は興味深くその人の言動を見ていたのだが、ある種の『自暴自棄』をすべての根底にみた気がする。
私などは『大事に使えば死ぬまで使える身体だ』と考える(笑)。逆に言うと、健康になるためにジョギングとか、ジム通いとかは一切しない。ジムへ通ってマシーンでトレーニングしていて、重いものの持ち上げ過ぎかどうか知らないが、膝が痛くて仕方がない人を何人か知っている。ジョギングのし過ぎで膝を壊した人も知っている。
長年の人生経験で、私は身体には自動操縦のような、自動的に修復して健康になろうとするちからが働いていると思う。それが自然に健康を保ってくれる。身体の全細胞の数や臓器の数とその複雑な機能を考えたら、個別に見て、それぞれに指示を出していたら、とてもではないがうまくコントロール出来ないだろう。裏返して言うと、各部が他の全体と連携をとって、調和を保つ仕組みが常に機能している。これは最新の医学で、臓器同士がコミュニケーションをしていることが実証されている。
その中心にあるのは”こころ”だろうと思う。こころが落ち着けば身体も落ち着く。こころに不安があれば、身体も不安で満たされる。
身体がうまく行っていないと、こころも影響を受ける。英語だとストレスがたまってくると『こころにヒビが入ってきつつある』という表現をする。深海で潜水艦の窓にヒビが入ってくるイメージ。そういう時には健康第一で、すべての作業を停止して自転車に乗って、(あるいは乗りに)どこかへ行ってしまう。自転車に乗っていれば、こころは流れゆく風景の中で雲のように平和に浮かび、うれいや不安もなくなって行く。
私にとっての自転車の重要な点は、そこなので、自転車は最新型や最高級である必要がない。レアな人がうらやましがるものである必要がない。乗って楽で、使っているうちに愛着がわき、あきないものであればよい。また、自転車はその使う人、乗る人の反映でもある。
長年拙ブログをお読みの方はお気づきのことと思うが、私はそこに宗教的・哲学的な要素をみている。いまの50歳代から80歳代の日本人は、”宗教に関してクールで、冷めているのが好もしいという価値観で育てられた”と思う。そして科学的であるというパラダイムが最高という価値観が根強かった。
私が小学生の時、教師が『植物も動物もどっちも生きているのに、肉を食べてはいけないなんていう宗教は馬鹿げている』というのを聞いた。ニワトリとかウサギとかウズラとかを飼っていたことがあるが、それを殺して食べることなど、まず不可能に思えた。小学生ながら『植物も動物もどっちも生きているという問題ではなく、それを殺して食べるという残酷さの話だ』と思ったのを覚えている。
中学生のころ、古い自転車の部品が面白いと思った。くず鉄屋へモンキーとドライバーを持ってゆき、古いタケノコばねの変速器や変わった形のヘッドランプを外させてもらった。そのとき『技術なんかはどんどん進歩しているんだ。最新型を使わないとダメだ。』という自転車店の店主がいた。同じ店主が当時、高度成長経済のときの有名な一言”消費は美徳”というのを口にしていた。その店主が、後年、MTBやロードの最新式の調整や修理に対応できず、古物自転車部品の専門になったのは皮肉というほかない。
私がそのころ働いていた自転車店(バイト)に、第二次世界大戦前のB.S.A.のロードスターが修理に入ってきた。せんべい屋の主人が大切に何十年も使ってきた自転車だった。いよいよハブの部品が無くて修理が出来ないので、リアホイールを組み直して欲しい、というので持ち込まれた。ホイールを組み直し、乗って見たのだが、まったく『異次元』。『なんだ!!!この不思議な乗りやすさは!!!』と思った。親方が『なんて読むんだろうね?BROOKSじゃないね。』と言った。Wrightだった。そのおせんべい屋の店主は『簡単だし、軽くて保守が楽だから、シングル・フリーでいい』というので、ハブギアを外して、シングルで組み、三光舎のフリーを入れたのを覚えている。
そのとき、『自転車はどんどん乗りよくなっている』というベクトルが壊れた。そのころ、丸石のスピード日本の古い物が修理に入ってきたが、ブリアンザのようなすごいラグが入っていた。
そのB.S.A.の話を父にした。『それはそうだ。1920年代、1930年代、1940年代、1950年代、英国の乗り物がオートバイでも自動車でもどのくらい世界のレースで勝ったかわからない。それは古い物だからと言ってあなどれないだろう。』と言った。そのとき、『ROVERだって、今のやつより産婆さんのローバー(P4はそう呼ばれていた)はランチュウ(金魚)のようなへんな格好をしているが、運転するとものすごく良かった』と言ったのを記憶している。ところが、はるか後に、小林編集長にパーティーでお会いした時、彼はかつてP6を持っていて、私がP5を持っていたことからローヴァ―の話になり、『P6よりP5のほうがいいと思いますね』と言われた。そしてそのあと、『でも、P6よりP5より、P4のほうがもっといいですよ。』と言われて爆笑してしまった。
この『進歩の神話』というのは、ある種の”信じ込まされた宗教”のようなものだと私は思う。これがたとえば芸術の世界であれば、『カラバッジョはラッファエロより進歩してよくなっている』などとは誰一人言わない。『バルドビネッティのほうが後に出て来たからボッティチェリより優れている』などとは誰一人いいません。
すべてのものは、その時代で完結している。ロダンは『ヨーロッパの芸術は、フィジアス、プラクシテレスのあと600年間以上衰退した』と発言した。
数日前、フェラーリの最新型の電気自動車?をみた。”テスラの大きいやつかな?”と思った。正直、日本のカローラ級の大衆車のフロントグリルを”マスク”したようなテスラの自動車にも、まったく魅力を感じない。それの大型化のような印象を受けた。
最近の電気冷蔵庫は後世から見て魅力があるのだろうか?後世に残らないと思います。ある種の自動車はその意味で”家電化”している。愛着の湧かない冷蔵庫と同じだ。私はじつは最新型のプリウスはあのデザインは嫌いではない。発現の仕方は違うが、あきらかに1960年代1970年代のシトロ―エンを見て育った美意識が感じられる。初代のプリウスのメーターは最初期のシトロ―エンDSのものとそっくりでした。
さて、かつてフランスに、ジャン・ポール・サルトルという哲学者がいた。その彼の神がいないという証明論理が面白かった。私はしかし、サルトルの論理は逆にも出来ると考えている。たとえば、私が古い英国の見捨てられたフレームから自転車を一台組む。『マニア喜び庭駆け回り、背中丸めてネットみる』(爆)。私はありあわせの部品で組んでいるのだが、和菓子屋の親爺から植木屋の親爺にまで声をかけられた。それは突然、勝手にひとりでに出来上がったものではない。私が一生続けた趣味でカッコよいものをつくろうと、こころがつくったものだ。そういうものは”マーケティングでは出てこない”。マーケティングで出来た熱のない物は人に何が何でも欲しいと思わせないだろう。
同じように、アオスジアゲハとキアゲハ、アサギマダラはどうして姿があれほど違い、飛び方も違うのか?どうして同じ種にまとまってしまわないのか?それになるための大元が、宇宙が最初に出来た時から内在していた、と私には思える。一休さんと盗賊の話ではないが、『梅の木の幹を切って見ても、中に花が詰まっているわけではないし、梅の実が詰まっているわけでもない』。
宇宙そのものの中に生命活動が含まれているとしか、私には思えない。人間もそうなのではないか?宇宙の中の生命活動、あるいは宇宙の意志のごときちからによって生かされて、じつは宇宙と一体。
そこから考えると、私の中で宗教と科学は矛盾しない。
アサギマダラはじつに優雅に飛ぶ。アオスジアゲハはけっこう速い。なぜその一方で小さいシジミチョウがいるのか?これは必要な多様性だろう。環境の急激な変化があっても、どれかが生き延びる。それが宇宙の生命の戦略だろう。あえて挑発的なことを言わせてもらうと、蝶の多様性と人類の文化の多様性も同じなのではないか?人の顔が違うように頭蓋骨のカタチも違えば、顔が違うように脳も違うはずだ。日本人と西洋人・チュートーの人では虫の声の聴こえ方が違う。チュート―から来た5人組の面倒をみていた時、彼らが『セミがやかましい』と大騒ぎして、『一匹残らずすべて殺すべきだ。それをしない日本人は害虫を駆除せず放置しているのと同じだ』というので、国が違えばずいぶん変わるものだと思った。
ところが、現代の超金持ちたちは”自分たちがエリートで何でも知っていると思いあがっている”。その彼らが”世界を均質化して、一か所に多様性なものをつくろうとした計画は、無残にヨーロッパで大失敗した。
その、セミが害虫と考える彼らの聖典には『目を愉しませる黄色の牛』などが最重要なものとして描かれる。また、先日、あるシューキョー指導者がその聖典を解説していて、『神はもうひとつの動物をおまえたちのために創造した。外見は人のようでお前たちが怖がらないように、男に似せて造られた。それは男のために与えられたのだ。牛や他の動物と同じように人の役に立つ』と大勢の人たちに教えているので驚愕。アダムが一人でいるのはよくないと、アダムのあばら骨からイヴを作ったという話を、そう解説する人がいる。”お前たちが食べられるように魚や木の実を作ってやった。女もそういう目的で牛と同じようにお前たちのために造ってやった”と教えていた。すさまじい男性原理。別の指導者が、彼らのシューキョー法を説明していた。『ONNA-ドレ―は我がものとしたあとメンス・サイクルが一回過ぎたら、そのドレーを好きに扱ってよい』とのこと。家畜並みの扱いではないか。そういう法律を日本でも適用せよと、日本の路上で行進している連中は、将来的に大きな問題になるのではないか?
バートランド・ラッセルがいまから半世紀以上前に、オーストラリアの哲学者アラン・ウッドとの対談の中で、アメリカの平等意識は哲学的に考えて誤っている。』として、それをアメリカの誤った平等意識、と呼んでいた。皮肉なことに、そのことはポリコレとして全ヨーロッパに広まり、そのために全ヨーロッパ文化が危機に瀕していると私には見える。