樽の中から①
エリシア港、桟橋の端。
港の中心から離れたそこは、釣り人にとっては良い場所であった。
だが――。
夜釣りを楽しんでいたビキニアーマーの女戦士――ザリーナは身体を強張らせていた。
露出の多いビキニアーマーに身を包んだその姿は、夜目にも異様な存在感を放っている。
褐色の肌は健康的というより、陽に焼かれた戦士の証といった風合いであり、しなやかな肢体には無駄がない。
それらの特徴は分かりやすいもので、クロウはザリーナに興味が無かったので褐色の女としか思わなかったが、彼女はアマゾネス――海の孤島に築かれた小国の出身であった。
かつての伝承に語られるような男の略奪は、時代とともに影を潜めている。
尤も、スラムやら戦場の捕虜など、グレーラインで誘拐したりはしているのだが……。その気質までは消え去らず、戦いと男を好む気風は今も色濃く残っていた。
アマゾネスは大抵、傭兵や探索者として各地に散る中、ザリーナは後者の道を選び、現在セラフィナのパーティーに身を置いている。
ギジガのように、弱者は追放される厳しいその集団において、新星探索者決闘祭『新人枠』で優勝し、ここまで残ってきたこと自体が、彼女の実力を物語っていた。
今夜、ザリーナが桟橋に立っている理由は単純なものだった。ふと、故郷の海で味わった新鮮な魚の記憶が蘇り、どうしてもそれを口にしたくなったのだ。
本来なら素潜りで仕留めるのが彼女のやり方であったが、エリシア海ではそうもいかないルールがある。
余計な問題を起こし、仲間に迷惑をかけるわけにもいかない。ゆえに彼女は、柄にもなく釣りという手段を選んだ。
夜釣りは魚の動きが活発になる時間帯であり、成果も期待できる。
ザリーナは夜釣りを楽しんでいた。
――はずだった。
しかし今、彼女の意識は海中の魚ではなく、別の何かへと向けられている。
恐怖が、じわりと背筋を撫で上げていた。
潮の匂いも、波の音も、何一つ変わらぬはずなのに、どこか決定的に“何かが違う”のだと、クロウが隠れた後になって、ザリーナも気付いた。
しかし、もう遅い。
小舟が静かに岸へ触れる。そこから、大小四つの影が降り立った。
いずれもフードを深く被り、背丈も体格もまちまちであるが、その気配は只者ではない。
少数精鋭――そう呼ぶに相応しい、無駄のない人数だ。
ザリーナは視線を逸らすことを選んだ。逃避であることは理解しているが、あからさまに警戒して見つめるよりは幾分ましだと判断したのだ。
ああ見えて、単なる旅人かもしれない。怪しさはあれど、確証のない段階で余計な刺激を与えるべきではないという理性も働いていた。
ここで急いで走って、何者かに非常事態だと伝えに行こうものなら、敵対と捉えられることだろう。
「……小舟は消しておきます」
全員が舟から降りると、最後尾の少女がそう言った。
控えめで、どこか機械的に聞こえる声であった。
彼女は仲間に向けて気軽に言い放ち、すっと剣を抜いた。その刃は、月光を受けて妖しく輝く。美しいが、どこか禍々しい。
次の瞬間、何も聞こえなかった。
斬撃の音も、水を裂く気配もない。
ただ、事実だけがそこにあった。小舟は跡形もなく崩れ、細かな木屑となって海へと溶けていく。
(……まったく……見えなかった……!?)
ザリーナは、その絶技に戦慄した。
剣の軌道が見えなかった。
だが理解する。あれは、常軌を逸した技量だ。底の知れない剣士である。
四人は何事もなかったかのように歩き出す。桟橋を進み、ザリーナの横を通り過ぎようとする。
ザリーナはなおも、見て見ぬ振りを貫いた。
だが――。
「あんたら、ちょっと待ってよぉ」
不意に、鼻を突くほど濃い香水の匂いとともに、舟をバラバラにした女とは別の、年齢はもっと上の女の声が割り込んだ。
フード三人組の足音が止まった。
◇
あとから来たフードの一人が一歩前に出る。
女の声だった。舟を木屑にした少女とは違い、年若い響きではない。三十を越えたあたりの、湿り気を帯びた声音。
鼻を刺すほど濃い香水の匂いが、潮の香りを押しのけて広がる。
その女は、ゆっくりと、舐め回すような視線でザリーナの全身をなぞった。筋肉の張り、肌の質感、戦士として鍛え上げられた体躯を、値踏みするように。
「ふーん、中々ねぇ。その筋肉女の死体、ワタクシ欲しいわぁ」
ぞわり、とザリーナの悪寒が強まった。
「手駒はそいつで決まりか?」
四人の中で一番大きいフードの人物が尋ねる。男らしい渋い声をしていた。
「丁度いい位置にいたしねぇ。男は勿体ないしぃ、女がいいわぁ」
意味の通らぬ会話。だが、内容は明白だった。ザリーナは察した。自分が“対象”にされていることに。
ザリーナの指先が、わずかに強張る。
香水女はゆるりと腕を持ち上げ、ザリーナを指差してきた。
「ねぇ、ワタクシの手駒になってぇ? 使い捨ててあげるからぁ」
その声音は甘く、しかし底知れぬ悪意を孕んでいた。
「ッ――――。巫山戯るな!!」
香水女は近付きすぎている。
ザリーナはまず香水女を殴り飛ばし、フードの連中が驚いている間に脱出しようと考えていた。
そこに躊躇はない。ザリーナはさらに間合いを詰める。戦士として染み付いた反応が、思考を追い越して身体を駆動させる。
夜の静寂が、裂けた。
夜釣りの最中だったため、ザリーナは武器を帯びていない。頼れるのは己の肉体のみ。だがそれで十分だと、これまで幾度となく証明してきた。
ザリーナは瞬時に魔力を巡らせ、筋肉をパンクアップした。血流が熱を帯び、全身が戦闘のために最適化される。
踏み込みと同時に放たれた拳は、常人の頭部であれば容易く陥没し、熟れた果実のように砕け散る威力を孕んでいた。探索者の同期の中でも際立つ才を持つ彼女の一撃は、それほどまでに苛烈だった。
――だが。
その拳は、あまりにも容易く止められる。
香水の匂いを纏った女の横合いから、唐突に大きな手が差し込まれた。ザリーナの一撃は、その掌一つで受け止められる。
衝撃は完全に殺され、巨躯は微動だにしない。
「そこそこだな。で、生かしておく方がいいのか?」
低く、倦んだ声音。割り込んできたのは大男だった。揺れるフードの下、足元には靴すらない。
裸足のまま桟橋に立つその姿は、異様な威圧を帯びている。
「どっちでもいいわぁ。生きてても死んでても使えるしぃ……いや、でもこの筋肉女はぁ、やっぱ生きてても得ないし、殺しといてぇ」
香水女は気軽に結論を下す。まるで献立でも選ぶような調子で、ザリーナの生死はあっさりと切り捨てられた。
「ヒヒ、早速ですねッ! 記念すべき一人目の死人になれるなんて、運が良いッ! ボク的には惨めな死を期待してますッ! そう思いませんかッ? そう思いますよねッ!?」
甲高く耳障りな声が弾ける。今まで喋らなかった最後の一人、それは男のものだった。狂気を滲ませた歓喜が、場違いに響く。
「そうなのですか?……楽しそうで何よりです」
それに対し、少女はやはり機械じみた口調で応じる。感情の起伏は薄く、ただ事実だけを並べるような声音だった。
「興味無さそうッ!? これではアマゾネスさんの死が浮かばれませんッ!? そうだ、ボクが応援してあげないと!? が、頑張って死んでくださいッ!!」
品のない激励に、ザリーナの眉がわずかに歪む。
初対面の人に向かって無礼なことを宣う香水女に、山から降りてきた原人のような大男。
頭のオカシそうな騒がしい男と、無機質な少女。
四人は揃って、その在り方がどこか決定的に逸脱していた。
ザリーナは逃げたくて仕方ない。
しかし――動けない。
拳を止められた瞬間から、ザリーナの腕は大男に掴まれている。
彼女は振りほどこうと力を込めるが、びくともしない。純粋な腕力だけで、ザリーナの全力を封じ込めていた。
大男の手がじわり、と握力が増していく。
ザリーナの手の骨が軋む。嫌な音が内側から響く。筋肉が圧迫され、血が滞る感覚が走る。
(折られる――)
理解と同時に、覚悟がよぎる。骨ごと、肉ごと、握り潰される未来が鮮明に浮かび上がった。
逃れられない。
そう思わせるだけの力が、そこにはあった。
「言っておくけどぉ、美品で頼むわぁ」
「……注文の多い女だ」
香水女の言葉に、気怠げな応答とともに、大男はザリーナを掴む力をわずかに緩めた。
締め上げられていた腕に一瞬の余白が生まれる。骨を砕かれかけていた激痛が薄れ、思考が戻る。
――好機。
ザリーナの身体が弾けるように動いた。左足で地面を強く蹴り、体勢を強引に立て直すと、反動をそのまま乗せて右脚を振り抜く。
魔力で強化された蹴撃は、岩をも砕く威力を帯び、吸い込まれるように大男の首筋へと叩き込まれた。
「ほう……」
初めて大男から漏れる、感嘆とも取れる低い声。
だが、それだけだった。
手応えは確かにあったはずなのに、砕ける感触はない。むしろ――。
「うぅっ……!!」
呻いたのはザリーナの方だった。
蹴り抜いた脚に、硬質な壁へ叩きつけたかのような衝撃が返ってくる。骨が軋み、筋が悲鳴を上げる。耐えきれず、彼女は脚を押さえた。
次の瞬間、大男の手が離れる。
だが解放ではない。力の均衡を失ったザリーナは、痛む脚で踏みとどまることもできず、その場に崩れ落ちた。
「変に欠損はNG……よし、首にしておこう」
大男の淡々とした判断。
気づけば、ザリーナの身体は宙に浮いていた。
筋肉質で重いはずの体躯が、まるで軽い荷物のように持ち上げられている。大男の手がザリーナの首を掴み、万力のような力で締め上げていた。
ザリーナは必死に抗う。両手でその腕を掴み、脚を振り上げて打ちつける。
しかし指一本動かせぬほどの力で固定され、びくともしない。
「…………うっ……ぐ」
喉が潰され、呼吸が奪われる。空気が入らない。
視界が滲み、意識が遠のいていく。
「絞首刑! 絞め殺すんですかッ! なるほど、なるほどッ! いいじゃないですかッ!」
「納得。生き物にとって首は弱点ですから、たしかにそうかもしれません」
「いや、そういう意味じゃなくて……ッ! ああッ! 話が通じませんんんッ!」
騒がしい男と少女の、場違いなやり取りが続く中、ザリーナの抵抗は急速に弱まっていく。
彼女の腕の力が抜け、脚の打撃も次第に鈍くなり、やがて空を切るだけになる。
そして――。
グキッ、ベキリ、と鈍い音が響いた。
「………………、ぁ…………………………」
ザリーナの首が、不自然な角度へと折れ曲がる。
支えを失った頭部が、だらりと横に垂れた。神経が断たれたのか、四肢の動きもぴたりと止まる。
「………………」
数瞬前まで確かにそこにあった生命は、呆気なく途絶えていた。
「死んだぞ」
大男は力を抜き、動かなくなったザリーナの身体を地面に放り捨てると、興味を失ったように視線を逸らす。
新星探索者決闘祭『新人枠』において優勝を果たした実力者、ザリーナ。
彼女は港の片隅で、あまりにもあっけなく終わりを迎えた。
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