第291話 美雪と律

「……」

 律は何も言わずに、目を伏せた。何かを隠しているような仕草に見える。

 普段のはっきりものをいう彼女とは正反対の態度。何かがある。そう思った。そして、私はそこに深く入り込むことはできないという怖さがある。


「なんでここにいるのよ」

 嫌悪感がはっきりわかる。やっと口を開いてくれた律は、イライラした様子に冷たい言葉を向けてくる。今まで親友だと思っていた彼女からこんな反応を向けられることに自業自得ながら胸がきゅっと痛くなる。


「それは……」

 言い淀んでいると、彼女は軽蔑したような目線でにらみつけてくる。もう私たちの関係は終わっているでしょと言わんばかりに。どうしても超えることはできない境界線が私たちの間にはあった。目の前にいるはずなのに、心の距離は遠く離れている。どんなことをしても埋められないくらいには深い溝がある。


「目障りだから消えてくれない?」

 そう鋭い言葉を向けられた私は「ごめんなさい」と短く伝えて、その場を離れようとした。


「ごめん待ったかい。あれお友達?」

 私が帰ろうとしたところで、律の知り合いだと思われる男の人がやってきた。思わず振り返って相手を見てしまう。金髪の男性だった。おそらく、私たちから一回り以上年上の軽薄そうな男性だった。律に対して、かなり距離感が近い。親戚や知り合いだとしても、こんな風には接しないくらいの距離感だった。


「ううん。違うよ。知らない人。早く行こう」

 律は、親し気に彼に接している。自分の考えすぎなのだろうか。恋人でもできたのかな。でも、それにしては不自然な様子だ。それにここは……最悪の可能性に行きついてしまう。


「じゃあ、今日は約束のお金でいいのね」

 そのセリフによって時が止まる。男の人のその言葉が、二人の関係を暗示させていた。信じられない、律が? 愕然とした気持ちで、少しずつ離れていこうとする二人の背中を見つめる。


 止めなきゃ。律を助けなきゃ。その言葉が頭をよぎる。

 でも、私にそんな資格なんてあるの。私の嘘のせいで律はあんなことを始めたんじゃないの。それなのに、私が律を止めてもいいの。もし、あの人が怖い人で、襲い掛かってきたらどうしよう。私だけじゃなくて、律にまで危害を加えてきたらどうしよう。


 余計なことをしようとしているだけじゃないの。律から絶交されてしまっているのに、彼女の人生にこれ以上、関与していいの。彼女のやりたいことを邪魔していいの。


 考えはまとまらない。動くのが怖い。そうだ、エイジの時もそうだった。私は弱い。怖くて何もできない。自分の本質なんてなかなか変えられない。この前、高柳先生に「変わりたい」と言ったのに、やっぱり無理だよ。


 私は変われない。このまま、自分から幸せを捨てて、孤独に生きることしかできない。

 立ち尽くして、何もできない私に向かって、心の中のもう一人の私がつぶやいた。


『こういう時、エイジならどうすると思う? ここで動けなかったらいつものあなたに戻るだけ。変わりたいと言ったのに恩人であるエイジを裏切ったときのまま……』

 その言葉に従って、私は走り出した。今頃エイジの名前を出すのはおこがましいとわかっているのに。


「律っ」

 追い着いた私は、律の肩を強く引き寄せた。


「なっ」と彼女は驚きながら、汲んでいた腕がほどけて、私の方に身体を預ける形になる。


「なんだ、お前」 

 男の人は唖然として、反応が遅くなった。そのスキを狙って、私は律の腕を強く引いた。


「逃げるよ」

 短くそう言って、私たちは走り出した。


 ※


 人通りの多い場所に向かって走り続ける。数分走り続けて、恐る恐る後ろを振り返った。男の人は追ってこなかった。諦めてくれたみたいだ。


「痛い。いい加減に離してよ」

 律の抗議が聞こえて、立ち止まって手を放す。

 彼女は涙目でこちらをにらんでいた。


「いいかげんにしてよ。なんで、勝手なことをするの」

 律は叫んでいた。周囲の人がぎょっとした感じで、私たちに注目する。


「ごめん。どうすればいいかわからなくて」


「今さら友達面なんてしないでよ。あんたのせいで、私の人生めちゃくちゃなんだよ。もうどうすることもできないのに。なら、このまま堕ち続けるしかないじゃない。お金をもらって何が悪いの。なんで、止めるのよ。美雪に……あんたにそんな資格なんてないでしょ」

 怒るのは当たり前だとわかっている。だから、私は何も言えない。結局、一緒に逃げたのは私の自己満足だ。そして、自分の責任を少しでも軽くしようと思っていた打算的な行為だとも自覚してしまう。


「ごめんなさい」

 私はかろうじて謝罪をすることしかできない。


「なんで今なの。どうして、あの時じゃないの。友達だと思っていた。親友だと思っていたのに、どうして裏切ったの」

 律はそう叫んだ後、私の頬を強く叩いた。強烈な痛みが広がる。それでも、私は言葉を絞り出した。


「資格なんてないのは、わかっている。それでも、やっぱり律にもっと苦しんでほしくないと思ったから」

 律はその言葉を聞いて、「どうして」と短くつぶやき、「絶対に許さない」という恨みの言葉を絞り出して、私の前方に崩れ落ちた。それ以上、私は何もすることができなかった。

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