権利を行使したければ、義務を果たさなければならないは間違い ←これが嫌いな理由
法曹の人やリベラル系の人から、タイトルのようなことを聞くのだが、単刀直入にこのワードが嫌いである。
何かもっともらしく出してくれるが、個人的にはあんまり役に立たないし間違っているとしか言いようがない。
しかし、それをプロが当然のごとく語っていると、なんだかもやもやするため、なぜダメなのかを書いていこうかと思う。
1 留保が付いていないまま説明される
まず、「権利を行使したければ、義務を果たさなければならない」と端的に語るが、何ら留保もなしに説明されるので、まるですべてがそうかのように錯覚するのだ。
民法上の話
特に民法上の話になるのだが、権利を行使する際には同時に役務提供(義務)をするというのは普通に出てくる。
例えば、単に物を購入する際やサービスの提供をしてもらう際に、同時に金銭を支払うといったことが挙げられよう。
何か欲しいものがあっても、こちらも対価を支払わなければ提供する義務はない。
といったように、法律によってそもそもタイトルのようなことは発生しないというのは、よくある話なのだ。
特に同時履行の抗弁権と呼ばれるものは、典型的な例だろう。
簡単に説明すれば、相手が契約上すべきことをしないために、こちらもすべきことをしないというものだ。
まさに権利行使のために義務を果たせという典型的な例であるが、こういったことを書かずにまるですべての法律がそのようなものだというのは、多くの人に誤解を与える結果となるだろう。
本来は憲法上の話ではないか?
タイトルのような話は、本来憲法上の話ではないかと考えられる。
その中の自然権(人間が生まれながらにして持っているとされる権利)を指しており、何ら義務を課されることなく当然に行使できるものを話しているのだろう。
自然権を前提とすれば、他人から自分の権利行使に関して、何ら止められるような筋合いはない。
また、法律の内容によっては、一定の条件にさえ当てはまれば、特に義務もなく権利行使できる設計になっているものもある。
しかし、最初に書いたように、そういった前提がない議論はいたずらに混乱を招くだろう。
2 本当に使ってほしい時には出してこない。
また、こういった議論は本当に使ってほしい時には出させないケースもある。
不満を潰すためだけに使う行為
こういった声は、不満を潰すためだけに使われるケースが多い。
例えば、社員側にある何らかの能力不足を理由に、権利があってもそれを制限するようなケース、義務はないのだが一定の行為をさせるために従わせたいケースなど。
明らかにここで使うべきというときには、出てきてくれないケースがある。
わかりやすい場面だと、コロナ禍における場面が挙げられる。
特にこの時にも法的な制限はなかった(できなかった)が、見事に国民は自粛の流れに乗っただろう。
この流れに逆らうものはどうなってきたことか。
場合によっては公権力からわざわざ「義務」を実質的に果たすような圧力もあったことは珍しくもない。
こういった場面だからこそ、彼らを守るべきなのだろうがそういった声がなぜか聞こえてこないのだ。
マスキュリズムでは聞いたこともないほど使わない
また、この分野ではまず聞いたこともないほど、この言葉を使われないのだ。
自然権を前提にすれば、男性にとて権利を主張してもよいだろう。
だが、思い出すだけでも、任意とされていても「乗るな」「痴漢を撲滅せよ」と言われることから、面会交流の実質的制限、暗黙の内に課される肉体労働・超過勤務、DV被害などに対する対応、果てには男性ゆえに原罪を負うかのような言論など。
さまざまな理由をつけては、権利を主張してもいい場面ですら、それを妨害してきたのではないか。
そして、何ら義務もない場面でも、一回もタイトルのようなことを聞いたことはないのだ。
まるで忘れ去られたかのように。
3 法的議論以外の話をしているのに・・・。
法的な議論であれば、タイトルのような話もまだわからなくはない。
だが、たいていは法的な議論というよりは、道徳や倫理、道義などといった別の話をしている場面でこれを使うため、話がずれている。
法以外で求められる姿勢
例えば、ノーブレスオブリージュといったもののように、不文律や地位故に義務を背負うというようなものといえば想像がつくだろうか?
あるいは、「お天道様は見ている」や「悪さをしたら罰が当たる」というようなものや、茶道やマナーのような一つの作法が求められる場面がいいだろうか?
法的には存在しないが、社会的な責任や道徳的な義務といったような話をする場面で、その人がすべき作法やしぐさをしなければならない。
そういったところに、法的な話を混ぜるとどうなるだろうか。
法とそれ以外を混同する議論
法の話ではないのに、法の話を持ってきたところで、そもそも話が違うのだから意見がかみ合わない。
話し手としては「こうしなければならない場面」で話しても、法的議論を混ぜられてはそもそも話が違うとしか言えない。
法的な義務がないからと言って、ルール無用の行為をするとなれば、特定の世界が成り立っている状況が崩壊することにもつながるだろう。
また逆に、法的議論をすべき場面なのに、道徳や倫理を解くような話を混ぜて権利行使を妨害する場面もあるだろう。
明確なルールで書かれていようが、ルール的にアウトな内容だろうが、「男性は乗るな」と言われる女性専用車両はいい例だ。
話の前提を混ぜてもらっては、議論がかみ合わないということが繰り返されれば、いやになる気持ちもわかるだろう。
4 結局は、使う場所を考えろという話
結局のところ、使い場所を考えて利用しないからこそ、はたから見れば謎を残すような使い方をする。
この場面ではこう、この場面では少し変えるというのを適切に行えないため、余計な誤解や勘違いを起こしやすい。
そういったことをいちいち訂正するために労力を割くのも、気が付いて言葉を紡ぎだすのも非常にめんどくさいのだ。
せめて、最初の段階で「~~では」という形で、留保をつけろと言いたい。



遵法するかそうでないかの話かと。 利益になる事だけ遵法するのは単なるフリーライダー。 そして、法とは(建前上かも知れないが)コンセンサスとしてある。 (代議士制民主主義において)