「あなたがまさにあなたであること」とは無関係に
今日、Xをみていたら、このようなポストを発見した。
自分が自覚していたセクシュアリティを変化させるほどの愛に出会った、という自己否定をロマンスの燃料にする昔の設定よりも、自己肯定というかセクシュアリティや属性への認識が前提にある関係性を描く作品の方が現代の読者には響いてる、ということなんだろう。
— さぼん (@sabon_b_l) May 27, 2026
このポスト主は、「BL ファンダムの住人」と自らを称しており、このポストも、近年のBL(ボーイズラブ。男性同士の恋愛を描いたフィクションのジャンル)における人気作品の傾向について述べたものである。
他者との関係性を構築し、あるいは理解する上で「属性への認識が前提にある」という近年のこの傾向は、私自身にもなんとなく覚えがあることだったので、今日はこのツイートを端緒に、考えたことを整理していこうとおもう。
そもそも私がこの人のアカウントを発見した経緯について触れておくと、以下のポストが流れてきたことによる。
商業BLの中で長年お決まりだったが近年は淘汰されてきた「俺は男が好きなんじゃなくてお前が好き」という、同性愛を関係成立条件から消すことでマジョリティに受け入れやすくするレトリックを、令和でドラマにする際になぜ復活(例:男性同士ではあるが人間ドラマ)させるんや…という思いは常にある
— さぼん (@sabon_b_l) May 25, 2026
フィクションにおける「俺は男が好きなんじゃなくてお前が好き」という台詞の問題点については、もう何度も批判されてきたとおもうので、ここであえて一から説明するつもりはない。要するに、この台詞は、同性愛をモチーフとして消費しながら、現実の同性愛者たちが背負わされてきたスティグマを、結果的に補強してしまう側面を持っている。
「異性愛」が正常なものとして扱われる世界では、「同性愛」はしばしば逸脱や異常として位置づけられてきたのであって、実際、同性愛は長いあいだ精神医学において「治療」の対象とされていたし、当事者たちは、自分の欲望やアイデンティティを否定されるだけでなく、矯正や転向を目的とした暴力的な治療に晒されることすらあった。
それゆえ、同性愛という性的指向を覆い隠し、「お前だけは特別だった」という形で、結局は異性愛規範を温存する一方で「同性同士だからこその困難」を二人の愛の純粋性を証明するための装置として利用するBL作品の搾取的構造は、打破されなければならない。
しかしながら、「男が好きなんじゃなくてお前が好き」が淘汰されてきた原因は、かつてのBLに存在した倫理的な問題を乗り越えようとする努力のみによるものではないと考える。すなわち、「属性」の多様化と、「個人」を「属性」の側から理解しようとする傾向の高まりによって、「個人」にしか存在しない特別な質感、また、その質感によって喚起される特別な感情、すなわち「あなたがまさにあなたであること」の尊さが、幻想となってしまったことにもあるのではないか。つまり、「お前が好き」という言葉は、現代においては欺瞞であって、もはや以前のような説得力を持たなくなってしまったのである。
この現代的な感覚を鮮やかに描いている作品が、戸桝有馬『螺鈿の楼閣』(2024)だ。『螺鈿の楼閣』は、ヤングジャンプ編集部が運営する無料web漫画サイト「となりのヤングジャンプ」において2024年12月に発表された漫画作品である。あらすじは、以下の通り。
小学5年生の主税(ちか)少年は、彼の友人の姉である大学生の華子(はなこ)と交流する中で、彼女に好意を抱き、「ずっと一緒にいたい」と告白する。しかし、華子は「わたしは”子供“が好きなの」と返答し、主税に対する彼女の好意は性的嗜好からくるものであり、彼個人に対するものではないということを打ち明ける。
告白のシーンの台詞を以下に引用する。
主税:ねえ…俺のこと「弟みたいじゃない」って言ったでしょ どういう関係になりたい?って聞いてくれたでしょ 俺 考えて… やっぱり俺にとって華子さんは とっ 特別な人だって思って…
華子:特別って?
主税:俺 華子さんのことが好きです だからこれからもずっと一緒にいてっ それでっ 大人になったら俺と…
華子:ずっとは 無理だよ だってわたし… … 言ったでしょ? わたしは“子供”が好きなの 「大人になったら」 だなんて わたしね あなたが今よりもっと背が伸びて 声変わりして髭が生えて つまらないことばかり考えるようになったら… どうしても好きになれないの
もちろん、華子が主税に惹かれている理由は、主税が単に「子供」であるというだけではありえない。しかし、いくら主税であろうとも、「子供」という属性を失ってしまえば、華子の好意の対象とはならないのである。ここに、「(属性)が好きなんじゃなくてお前が好き」の完全な転倒を見ることができる。戸桝有馬は、アフタヌーン四季賞2024春 四季賞受賞作『弟の俤(おもかげ)』でも、同様に「人間同士の関係性に特別な質感をもたらすものは『あなたがまさにあなたであること』とは独立に存在する」というテーゼを描いている。*
それでは、我々が「愛し」「好意を抱き」「性愛を向ける」その人とは、一体誰なのであろうか。我々が愛するものがその人の「属性」にしかすぎないのだとすれば、全ての恋愛関係は代替可能なものにすぎないのだろうか。
私の考えでは、我々が「愛し」「好意を抱き」「性愛を向ける」その人とは、複数の属性の重ね合わせ部分のことである。それゆえ、たとえその人自身は、その人の持つ歴史や神秘的な遺伝情報ゆえに、誰と等号で結ばれることもありえないとしても、恋愛の対象としては(少なくとも属性のレベルでは)常に交換可能であると言わざるを得ない。恋愛対象としてだけではない。あらゆる人間関係において、我々は理論上、代替可能なのではないだろうか。とはいえ、必要以上に悲観的に考えなくてもよい。実際には、個体数の制限や、時間的な制約、距離的な問題のゆえに、常に自分と同じ意味を持つ存在がひかえているというわけではないだろう。このことは私たちに安心を与えてくれる。
また、「あなたがまさにあなたであること」の尊さが疑わしいものとなる過程には、「私とは何者なのか」という根源的問いへの飽くなき関心があったようにも思われる。近年急速に人口に膾炙した「MBTI診断」といわれる16タイプの性格診断は、はじめは人を適職に配置したいという経済的な動機から–––つまり、他者を理解するためのツールとして–––用いられることもあったようだが、これほどまでに広がった要因には、この診断が自己理解の欲求をちょうどよく満たしてくれた、ということがあるのではないだろうか。しかしながら、そのようにして自らをアイデンティファイする「属性」を増やせば増やすほど、我々は群衆の中に自分自身の影を見ることになる。属性は、結局のところ、私自身が何者なのかについて教えてくれたりはしない。
「私自身が何者なのか」の答えを求め続けている現代人たちは、今ではAI(artificial intelligence)にその問いを投げかけるようにさえなった。
5月の半ばごろからだろうか、chatGPTに、「このスマホの持ち主が亡くなったと仮定してください。私はそのスマホを拾った人です。かってこのスマホを使っていた人が、どんな人だったのか、何を話しますか?」と尋ねることが大流行した。要するに、普段から使用しているAIに、自分の人生について、あるいは自分が何者なのかについて、語らせようという遊びである。かつては人間関係が、そして自らの属性が教えてくれた「私とは何者なのか?」という問いの答えを知っているのは、今ではAIであるというわけか。自己理解の欲求を満たすためにAIツールを用いるというやりかたは、これからも現代の娯楽として非常に人気を集めていくだろう。
*『弟の俤』のあらすじは以下の通り。軍医志望の少年「顕彦(あきひこ)」が、鉄の義手をもつ同い年の少年「久夫(ひさお)」と恋仲になるが、久夫は、重篤な病に冒されている彼の兄のドナーであり、人工授精により作られた「代替品」としての運命を持っていた。顕彦は「俺にとって久夫の代わりは誰もいないから」と述べ、久夫の運命を悲しむが、しかし、久夫の心臓を移植することにより健康を取り戻した兄は、身体だけでなく、「顕ちゃん」と顕彦を呼ぶその存在の質感すべてにおいて、久夫と見分けがつかない。物語は数年後に飛び、顕彦が「久夫の兄」を「久夫」の代替としたことが示されて終わる。


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