部屋の中にあった二人の生きた痕跡を、一つずつ丁寧に消していく。不要になった家具を処分し、書類をシュレッダーにかけ、まるで最初からこの世に存在していなかったかのようにワンルームを完璧に片付けていく。
外の世界から見れば破滅へのカウントダウンに他ならないその作業を、ハルトはまるで楽しげなゲームでもするかのように、鼻歌交じりで手伝っていた。
そして、約束の、最後の夜が訪れた。
「先輩、コーヒーを淹れました」
ハルトが静かに差し出してきたマグカップからは、香ばしい豆の香りが立ち上っていた。出会ったばかりの頃、俺の好みを完璧にリサーチして淹れてくれた、あの100%マニュアル通りの完璧なコーヒー。
その琥珀色の液体の底に、この数日間で少しずつ集めた大量の睡眠薬が静かに溶け込んでいることを、俺たちは言葉にせずとも理解していた。
「……美味いな」
『良かったです。先輩に美味しいって言ってもらえるのが、俺、一番嬉しいです』
ハルトは満足そうに微笑むと、自分のカップも一気に飲み干した。
俺たちは、あらかじめ用意していた道具を車に積み込み、夜の帳が降りた冬の海岸へと向かった。
車を停めたのは、誰も来ないひっそりとした砂浜の駐車場だった。あの駅のホームの日と同じような、凍てつくほど冷たい風が猛烈な勢いで車体を揺らし、外では白波が轟音を立てている。
ハルトは後部座席に七輪を据え、手際よく練炭に火を熾した。
パチパチと小さな音を立てて、黒い塊がじわじわと赤く染まっていく。車内の温度が緩やかに上がり始めると同時に、不完全燃焼の、どこか甘ったるいような独特な匂いが狭い空間に満ちていった。
『……暖かい。先輩、すごく暖かいです』
ハルトは小刻みに震えながら、俺の身体に全力でしがみついてきた。あの完璧だった彼なら絶対に見せなかった、無防備な脆弱さ。だけど、その身体からは、確かに生々しい人間の熱が放たれていた。
ハルトの細い指先が、俺の首筋に触れる。冷え切った爪が、俺の頸動脈をそっとなぞり、引きちぎらんばかりの強さで俺の服を掴んだ。
不快感はなかった。ただ、強烈な睡魔が、ドロドロとした重さで全身に回り始めているのが分かった。視界が涙と霞で滲み、指先の感覚がゆっくりと失われていく。
ハルトはゆっくりと、自分の手首を掴む俺の手のひらに、自らの震える指を重ね合わせた。
骨が軋むほど、引きちぎらんばかりの強さで。
それはあの日、駅のホームで俺が彼の細い手首を強く掴み取った時と、全く同じ強さだった。容赦のない握力で固く結ばれた俺たちの手は、もうどちらがどちらの指なのかも分からないほどに融解し、境界を失っていく。
『あぁ……幸せだな。俺、やっと居場所を見つけられた気がします……』
ハルトは生まれて初めて、心からの安らかな声を漏らし、俺の胸元にその顔を埋めた。
そして、約束の、最後の夜が訪れた。
******
「先輩、コーヒーを淹れました」
ハルトが静かに差し出してきたマグカップからは、香ばしい豆の香りが立ち上っていた。出会ったばかりの頃、俺の好みを完璧にリサーチして淹れてくれた、あの100%マニュアル通りの完璧なコーヒー。
その琥珀色の液体の底に、この数日間で少しずつ集めた大量の睡眠薬が静かに溶け込んでいることを、俺たちは言葉にせずとも理解していた。
「……美味いな」
『良かったです。先輩に美味しいって言ってもらえるのが、俺、一番嬉しいです』
ハルトは満足そうに微笑むと、自分のカップも一気に飲み干した。
俺たちは、あらかじめ用意していた道具を車に積み込み、夜の帳が降りた冬の海岸へと向かった。
車を停めたのは、誰も来ないひっそりとした砂浜の駐車場だった。あの駅のホームの日と同じような、凍てつくほど冷たい風が猛烈な勢いで車体を揺らし、外では白波が轟音を立てている。
世界の果てにでも行き着いたかのようなその場所で、俺たちは車の窓を完全に閉め切り、内側から隙間をガムテープで念入りに塞いでいった。 外の世界を、一塊たりとも、俺たちの世界に入れないように。
******
ハルトは後部座席に七輪を据え、手際よく練炭に火を熾した。
パチパチと小さな音を立てて、黒い塊がじわじわと赤く染まっていく。車内の温度が緩やかに上がり始めると同時に、不完全燃焼の、どこか甘ったるいような独特な匂いが狭い空間に満ちていった。
『……暖かい。先輩、すごく暖かいです』
ハルトは小刻みに震えながら、俺の身体に全力でしがみついてきた。あの完璧だった彼なら絶対に見せなかった、無防備な脆弱さ。だけど、その身体からは、確かに生々しい人間の熱が放たれていた。
ハルトの細い指先が、俺の首筋に触れる。冷え切った爪が、俺の頸動脈をそっとなぞり、引きちぎらんばかりの強さで俺の服を掴んだ。
不快感はなかった。ただ、強烈な睡魔が、ドロドロとした重さで全身に回り始めているのが分かった。視界が涙と霞で滲み、指先の感覚がゆっくりと失われていく。
ハルトはゆっくりと、自分の手首を掴む俺の手のひらに、自らの震える指を重ね合わせた。
骨が軋むほど、引きちぎらんばかりの強さで。
それはあの日、駅のホームで俺が彼の細い手首を強く掴み取った時と、全く同じ強さだった。容赦のない握力で固く結ばれた俺たちの手は、もうどちらがどちらの指なのかも分からないほどに融解し、境界を失っていく。
『あぁ……幸せだな。俺、やっと居場所を見つけられた気がします……』
ハルトは生まれて初めて、心からの安らかな声を漏らし、俺の胸元にその顔を埋めた。
揺らめく練炭の赤い光に照らされながら、俺たちは互いの体温だけを唯一の道標にするように、強く、強く抱き合い、そのまま深い、深い眠りの底へと落ちていった。
――引き返せない一線を越えたその先は、誰にも邪魔されない、俺たちだけの完璧な世界の完結だった。
――引き返せない一線を越えたその先は、誰にも邪魔されない、俺たちだけの完璧な世界の完結だった。
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数日後、静かな海岸の駐車場で見つかった車内には、まるで一つの生き物のように固く、頑なに抱き合ったまま冷たくなった二人の姿があった。
数日後、静かな海岸の駐車場で見つかった車内には、まるで一つの生き物のように固く、頑なに抱き合ったまま冷たくなった二人の姿があった。
警察や世間はそれを「痛ましい心中事件」と呼び、遺された両親は世間体を気にして顔を顰めるのだろう。
だが、誰の役にも立たない「空虚な仮面」を抱え、ただ愛の渇きだけを求めた彼にとって、それは誰の手も届かない、永遠に侵されない、完璧な二人だけの世界だった。
だが、誰の役にも立たない「空虚な仮面」を抱え、ただ愛の渇きだけを求めた彼にとって、それは誰の手も届かない、永遠に侵されない、完璧な二人だけの世界だった。