第86話 対症療法
新しい家が見つかるまで、結月は隣の部屋に、愛理は俺の部屋に泊まることになった。
和花は両親に俺のことを一応話してくれたらしいが、俺と会わせる時間を作るのは、なかなか難しいようだった。
先に風呂を上がった結月が、俺の部屋にひょっこり顔を出して言った。
「先輩、次どうぞ」
「わかったわ」
隣に座っていた愛理が立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
パジャマ姿の結月がぽつんと立ち尽くしていた。
愛理が部屋を出て、俺の隣に空いたスペースを、結月はじっと見つめていた。
「こっちに来てもいいぞ」
「は、はい……」
結月がおずおずと近づいてきて、俺の隣に座った。
以前なら、それが当たり前だった。
けれど今は、ひどく気まずい沈黙が二人の間に落ちていた。
ふと、結月のパジャマに目が留まった。
(どこかで見たことあるような……)
結月が普段から好んで着ている、見慣れた一着だった。
だから、それを着ていること自体は何もおかしくない。
なのに今は、日常の一部としてではなく、別の記憶として――
「うっ……!」
思い出した瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
思い出すんじゃなかった。
後悔が一気に押し寄せた。
「ど、どうしたんですか? ま、まさかトラウマ……?」
吐き気をどうにか喉の奥へ押し戻し、俺は静かに答えた。
「……ああ。お前がこの部屋でそのパジャマを着て、
「ご、ごめんなさい! すぐ脱ぎますから!!」
結月は慌ててボタンに手をかけた。
焦りで指先がもつれ、やがて布地を引き裂くような勢いで脱ぎ捨てた。
弾け飛んだボタンが、床にぱらぱらと散らばった。
「……お気に入りのパジャマじゃなかったか?」
「もう好きじゃなくなりました」
「そうか……」
パジャマを脱いで下着姿になると、吐き気はすっと引いていった。
どうやら俺のトラウマは、結月の格好ひとつで大きく揺さぶられるらしい。
「このパジャマ、二度と着ません。いえ、今すぐ捨てます」
「悪いな、俺のせいで気に入ってたパジャマを捨てさせることになって」
「こんなパジャマ、ちっとも惜しくありません。大切なのは、ご主人様の体調ですから……」
結月はためらいなくパジャマを丸めてゴミ箱に突っ込んだ。
以前の彼女なら、到底考えられないことだった。
どうやら今の彼女の中で、俺は他の何よりも遥かに優先されているらしい。
(……それにしても俺も本当にひねくれてるな)
どうしてだろう。
結月が大切にしていたパジャマを捨てさせた。
その事実に、仄暗い快感が背筋をぞくりとなぞっていった。
同時に、トラウマ特有のべたつく不快感も、胸のつかえが取れたようにすっと消えていった。
もしかすると、トラウマを乗り越える手がかりは、ここにあるのかもしれない。
(ああ、そうか。見慣れない結月だったからだ)
俺の中にいる、かつての結月は、もう長澤先輩のそばへ行ってしまっている。
少なくとも今の俺には、結月の記憶から長澤先輩の影を引き剥がすことができない。
けれど、俺の知らない結月なら話は別だ。
(幼馴染としての記憶が、かえって毒になっているのか……)
皮肉なものだ。
俺が結月を好きになったのも、結月が俺を好きになったのも、幼馴染という縁があってこそだったはずなのに。
結局、長澤先輩が現れた瞬間、その縁は根こそぎ断ち切られていた。
「あのさ、結月」
「はい……?」
「俺のトラウマ克服にすごく役立ちそうなことを思いついたんだ——」
言いかけて、口をつぐむ。
これでいいのか。
俺の良心が、そこで待ったをかけた。
今の俺は、結月の好意を利用して、思い通りに彼女を操ろうとしているだけじゃないのか?
彼女の危うい心を支えるという範疇を、大きく踏み越えているんじゃないか?
「……いや。今の話は忘れてくれ。やっぱりこれは違う」
「ま、待ってください……! ご主人様のトラウマを克服できるなら……ううん、ご主人様のためなら、今度こそ本当に何でもできます。だから、何でも言ってください。お願いします」
結月は早口でまくし立てた。
そして、深く頭を下げた。
「私、ご主人様に使われたいです。どうか……」
正直、今も俺には分からない。
ここまでしてなお、結月がなぜ俺を好きでいられるのか。
俺自身、自分にそこまでの価値がある男だとは到底思えないのに。
「繰り返し言うけど、俺は結月に何も報いてやれないかもしれないんだぞ?」
「別に報われたいわけじゃありません。ううん。ただそばにいさせてもらえるだけで、十分すぎる見返りです。もう捨てられるような思いはしたくないんです……」
その言葉に、俺はビクッと肩を震わせた。
そうか。結月は俺に、自分の父親を重ねているのか。
かつて俺が結月の心の隙間を埋めてやったのに、今度はその俺が去ろうとしているから極度に不安なのだ。
だから、ますます俺に執着している。
「なら、結月。俺のために、今までの自分を全部捨てられるか?」
「え? ぐ、具体的にどういうことか……」
包み隠さず告げると、案の定、結月は大きく目を見開いた。
「そ、それじゃあ今まで積み上げてきた思い出とかも、全部捨てなきゃ……」
「まあ、そこまでは難しいよな。子どもの頃の思い出まで忘れろって話じゃない。ただ、あえて口にしないでいてくれればいい」
もちろん、それも簡単なことではないだろう。
幼馴染なのに、幼馴染ではないふりをしろだなんて。
俺が結月の立場なら、苦痛でしかないだろう。
「正直、これも根本的な解決じゃない。ただの対症療法だ。結月に余計な負担をかけるだけだしな」
「ち、違います……! やってみます。それでご主人様の役に立てるなら、私、できます。今度は口先だけの『何でも』じゃないってこと、本当に証明したいんです」
結月の目を見た。
そこには想像以上に強い意志が宿っていた。
愛理に頭を下げて頼み込んだあのときには、彼女はもう覚悟を決めていたのかもしれない。
なら、その覚悟に応えるのが今の俺の筋なのだろう。
「分かった。じゃあ、まずは比較的簡単なことから始めよう」
「はい」
誰かを別人だと思い込むには、何が必要か。
「やっぱり名前からかな……」
「名前ですか?」
「あだ名みたいに、結月の呼び方を変えてみるんだよ」
いっそ、俺が別人だと錯覚できるくらい、響きの違う呼び名のほうがいい気がした。
スマホを取り出し、『結月』に別の読みがないか調べてみた。
「『ゆい』はどう?」
「え? ゆい?」
「ああ。結月って『ゆいき』とも読めるからな。あだ名みたいなものだし、頭を取って『ゆい』にするのがいいと思って」
ゆいきよりはただのゆいの方が一般的だし。
「わ、分かりました。じゃあ、これからはゆい、ってことで」
「それから、うーん……。イメチェンしてみるのはどうだ?」
「イメチェン……ですか?」
「今までずっとそのスタイルだっただろ。いっそ真逆に振り切ってイメチェンすれば、俺の目には別人みたいに映るんじゃないかと思って」
髪型からメイク、コーデまで。
重要なのは、『悪夢』の中で見た姿から離れること。
俺が、あの光景を連想しないように。
「そのへんは和花と相談して決めてくれ。俺のほうからも話は通しておく」
「は、はい……。じゃあ、新しい服を買ったら、すぐに今まで着ていた服を全部捨てますね」
「え? いや、そこまでしなくてもいいよ」
「でも、その服がご主人様のトラウマを刺激するんですよね。だったら、もう要りません」
下着姿の結月が小さく微笑んだ。
「私、ご主人様より大切なものはないって気づきましたから。もう二度と迷いません」
その言葉に、ふと思った。
もしかして俺は、自分の手で結月の執着を育てているんじゃないか。
彼女の感情が、じわじわと重みを増していくのが分かった。
だが同時に、俺はもう一つのことにも気づいていた。
俺だけを最優先するその執着が、知らず知らず俺の口角を持ち上げていることに。
◇
翌朝。
いつものように、俺が寝ている間に、和花は
そして愛理と一緒に、朝のご奉仕でまどろみから起こされた。
「楽しむだけ楽しんでおいて俺が言うのもなんだけど、二人ともほぼ毎朝俺にしてくれて、大変じゃないか?」
「別に? それに
「……え?」
「蓮くんには分からないだろうけど、味がその時々で少し違うのよ。朝のものが一番濃いの」
「そう! だから逆に朝なのに、なんか薄いって思ったら、夜のうちに私たちに隠れて浮気したってことでしょ?」
「……」
俺、そこまで浮気性だとは思わないんだけど。
それに、確認方法がちょっとおかしくないか。
ツッコミどころは山ほどあったが、ひとまず流した。
代わりに、昨夜結月との間にあったことを話し、和花に相談した。
「へえ、イメチェンね。それなら私の専門よ!」
「高校デビューしただけにね。
「どんな風にするのがいいかな。結月、いや、私たちもゆいって呼んだ方がいいわよね?」
案の定、和花が積極的に取り組んでくれた。
和花は性格こそアレだが、着飾ることに関しては立派なギャルだ。
プロアイドルの
案外、和花にはこの方面の才能があるのかもしれない。
「ゆい、今日モールに行って服も買って髪も新しくしよう!」
「う、うん、分かった。でも、私に似合うスタイルがあるかな……」
「当然あるわよ! ゆいくらい素材のいい女の子、他にいないんだから」
「そう……? じゃあ任せるね」
結月のイメチェンは和花に任せればよさそうだった。
正直、俺にはそこまで詳しく分からないし。
変えろと言い出したのは俺だ。
なら、費用は全額俺が持つべきだろう。
財布からお金を出そうとした時だった。
「蓮くん、重大報告があるの」
「重大報告?」
不意に愛理が口を開き、俺に何かを差し出した。
「和花さんも」
「ん? あ、そうだった」
続いて和花もカバンから何かを取り出した。
よく見ると、二つとも同じ薬のパッケージだった。
パッケージには、線と矢印が描かれていた。
「ひ、避妊の効果が出始めたの。だ、だから……」
和花は耳まで真っ赤に染め、言葉を継いだ。
「約束、守ってよね……?」
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