[期間限定全体公開]描きながら働くという心の持ち方
May 28th, 2026 14:04・All users
その正体を老子に見た。
「働きながら描いてて疲れないですか?」
「どんな時間術ですか?」
よく言われるんですが、時間の作り方は皆様々あるとして。
自分はいま、儒教的な思想でできた社会の中で、絵を描きながら会社員として働いているんですが、毎朝決まった時間に起きて、組織のルールに従って、空気を読みながら、評価されようとしながら、「ちゃんとした人間」を演じて一日を終える。その一方で、絵を描いている。
誰かに認められるためでも、正しく生きるためでもないし、ただ自分の内側から湧き出るものを形にする時間を、社会に毒されない程度に挟み込みながら生きてる。矛盾しているし、自分でもわかってる。
なぜ組織の歯車に収まっているのか。
なぜ毎日鎧を着て出勤しているのか。
この矛盾を言語化してアウトプットすることで、同じ悩みやモヤモヤを抱えた人に対しての一助、自分の中での昇華となればと思い、文章にてまとめてみることにしました。
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そもそも儒教とは?
今から約2500年前、中国の孔子という人が作った教えです。
「親は親らしく、子は子らしく。上の人には従い、下の人には優しく。みんなが自分の役割を守れば、争いがなくなる」
これが基本の考え。
具体的には5つのルールがあります。
1:親を大切にしなさい(孝)
2:目上の人に従いなさい(忠)
3:人に優しくしなさい(仁)
4:礼儀を守りなさい(礼)
5:正しくありなさい(義)
学校「先生の言うことを聞きなさい」
家「親の言うことを聞きなさい」
会社「上司に従いなさい」
などなど。
全部、儒教の考え方が染み込んだものですね。昭和的考えというか。
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「頑張れ」は呪い。
我慢しなさい。
空気を読みなさい。
ちゃんとしなさい。
迷惑をかけてはいけない。
努力は必ず報われる。
これ全部、儒教の価値観じゃないですか?
秩序のために個人を抑圧し、「正しくあること」を美徳として刷り込む思想。2000年以上かけて日本社会の骨格に染み込んで、今では誰も疑わない「常識」になっている。自分もそれを疑わずに生きてきた。いい子でいた。頑張り続けた。認められようとした。かと言って「正しく生きている自分」は嫌いじゃない。
でも、消耗する。
疲れているのに「まだ足りない」という感覚だけが積み上がっていく。あれだけ頑張ったのに、なぜか空っぽのまま。その正体がわからなくて、ますます頑張った。そこで老子を知ったとき、初めてわかった。
問題は、頑張り方じゃなかった。
頑張る理由が、最初からズレていたんだと。
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なになにしなさい。
老子曰く、「大道廃れて仁義あり」本来の道(タオ)が失われたから、仁だの義だのという概念が生まれた、そうです。
「優しくしなさい」という言葉が必要になった時点で、もう優しさは失われているし、「正直でいなさい」と教えなければならない社会は、もう正直ではない。「頑張ることが大事」と言い聞かせなければならない場所は、すでに自然に動けなくなっているという解釈になる。機能不全のサインではないのかと。そりゃあ、根性論だって存在するし、それも否定はしませんが。でも「努力不足」にすり替えて個人に押し付けてきたのが、儒教的な日本社会の構造だと老子なら言うんだろうと思うんですよね。日本社会でいる以上、自分はこの中で揉まれるべきと。
その構造の中に、今もいる。
でも知っているのと知らないのとでは、重さが違うし、呪いだと気づいていれば、呪いに飲み込まれずに済む。たぶん、それだけでいい気がした。この呪い、腫れ物のようなものなので、これについてはあまり煮詰めすぎない方がいい、とも感じた。これは個人的直感ですが。食べるために働く、とはまた違う、自分がここで語るのは精神論でもあるのです。
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穴。
老子の思想の中心に「無」があるそうで。ドーナツで例えるなら、ドーナツをドーナツにしているのは、生地か、穴か。穴ですよね。車輪は空洞があるから回る。器は空っぽだから使える。部屋は空間があるから人が住める。「何もないこと」が、最も重要な機能を果たしている。
儒教的な生き方は、この穴を埋めにかかってますよね。
隙間なくスケジュールを入れる。休むことを「怠け」と呼ぶ。ぼーっとすることに罪悪感を持つ。常に何かを生産し続けなければという焦りの中で、自分の「穴」を塗りつぶしていく。
自分の絵を描く時間は、その穴を守るための時間だとも思う。
内側から出てくるものを出す。何も証明しない。何も埋めない。ただ在る。またそれと同時に、会社員として「埋める」毎日の中で、絵を描いて表現をすることが、「空っぽのままでいい」と言ってくれる時間だと感じてます。矛盾しているようで、この二つが今の自分に必要なのかもしれないと思いながら、ひとまず、今はこれで過ごすようにしてみたんですよね。
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力みを手放すと。
老子の中に「無為」という言葉がある。でもこの無為は、誤解され続けてきた言葉です。
「何もしない」という意味じゃない。
「不自然な力みをやめること」
川の水は「流れよう」と力んでいない。ただ低いところへ向かっている。それだけで海まで行く。
かの経営の神様、松下幸之助が老子を座右の銘にしたのはよく知られた話で。経営の神様が「無為自然」を選んだ。それは怠惰じゃなく、「不自然な力みを手放した経営」だった。力んだものは折れる。しなやかなものは残る。自分は、いち会社員、組織の一部として、毎日かなりの量の「不自然な力み」をかけられているような気がしてる。でも絵を描くときは違う。描こうとして描くんじゃなく、描かずにはいられないから描く。これが老子の言う「無為」に一番近い感覚だと思ってる。
組織の中で「無為」を完全に実践するのは難しいし、でも、どこかに無為の時間を持っている人間と、一切持っていない人間とでは、長期的に全然違う場所に辿り着くと信じています。
というか、信じることにした。周りはどう考えてるとかはわからないので。
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老子が最も愛した「水」という隠喩。
「天下に水より柔らかいものはない。しかし固いものを攻めるのに、水に勝るものもない。」
岩をくり抜くのは、ただ流れ続ける水。
水は争わない。
形を変える。
低いところへ行く。
でも水に勝てるものはない。
儒教的な価値観は「岩になれ」と言う。
強くなれ。
揺らぐな。
しっかりしろ。
でも岩は、ひびが入ったら割れる。
これを踏まえた上でも、自分は水になれていない日がほとんど。仕事は嫌いではないが、日々のタスクで消耗して、家に帰って疲れ果てて、「水のように」なんてとても言えない日もある。でもそういう日こそ、描く。描くためにパソコンに向かうとき、少しだけ水になれる気がするんですよね。形を決めない。答えを出そうとしない。「水になれ」は目標じゃなくて、方向だと思っていて、完全に水になれなくていい。ただ、少しずつ岩から遠ざかっていればいいんだと思っています。日々の抗いですね。
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「学を断て」
自分にとっては、これが一番難しかった。なぜなら、知らないことを得ることは学びであり、富につながるとも個人的に考えているから。
「学を断ちて憂いなし」
だからこそ、老子のこの言葉が、今一番刺さっている。確かに、情報を仕入れるほど「こうすべき」が増える。SNSを開くたびに他人の正解が流れてきて、自分の選択への確信が薄れる。自分の場合、インプットが増えるほど、動けなくなる。だから、描くことでアウトプットになり、いいガス抜きにもなるんだけど。
会社員として生きるには、学び続けることが求められるし、スキルを上げろ。知識を増やせ。時代に乗り遅れるな。そのプレッシャーは本物だし、かと言って無視もできない。
でも絵を描いていると、削ぎ落とすことの方が怖くて大切だとわかる。上手に描こうとするほど、絵も自分も死ぬ。技術を「忘れて」描いたとき、初めて何かが生まれる。
積み上げることと、削ぎ落とすこと。
この二つを行き来しながら生きるしかないんだろうと、最近思い始めた。例えていうなら、反復横跳び的な?わかりづらいか。
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矛盾の中に、本物がある
老子にはこういう思想がある。
「禍福は糾える縄の如し」
災いと幸いは、より合わさった縄のようなもので、どちらがどちらかは、最終的にはわからない。鬼滅にもこの言葉、出たのわかりますか?有名な言葉ですけど。ワニ先生は老子の知識もあったのか!と思うと個人的に興奮ポイントです。
会社員として消耗する日々が、いつしか考えを老子へ向かわせ、絵を描く自由が、組織の中でも折れずにいられる理由になる。矛盾が、互いを支えてる。儒教的な呪いの中で鎧を着て生きているから、脱いだときの軽さを知ってる。
「禍福を区別するな」という老子の言葉は、自分の矛盾した生き方への許可状のように聞こえたんですよね。
会社員であることも、絵描きであることもどちらが正しいかを決めなくていい。どちらかを捨てなくていい。ただ、その両方を生きながら、少しずつ「自分の道」に近づいていけばいいと。老子が言う。
「聖人は争わない。だから、誰も彼と争えない。」
完璧に争わなくていい。完全に無為でなくてもいい。水に完全になれなくてもいい。ただ、少しずつ。鎧を着たまま、水の方向へ歩く。儒教的な社会の中で、その感覚を忘れないでいる。日々に消耗しながらも、絵を描く時間だけは守る。それが今の私にできる、精一杯の「無為自然」だ。
働きながら描く、ということを老子に伝えたら、
「それで十分だ」
と言って欲しいなぁと思ったのでした。
描きながら、働くって。大変と思うか思わないか、個人の価値観ですけど、そういうのもあるんだなぁとストンと落としてみるのも悪くないと思いませんか?
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※全て個人の自己解釈です。
※哲学的思考なので宗教観を肯定否定するものではありません。
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