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AIに今までのやりとりをまるっと読ませて、回答を出させました。 簡単に言えば、あなたが見ているのは「命題論理」で、私とひろゆき氏が見ているのは「会話の運び」です。 この点があなたのズレです。 あなたは高度な命題の整理を行なっていましたが、「ひろゆき氏の文意の読み取り」という点ではあなたに誤解があるかと思います。 少し長いですが、文章整理が得意な方だと思うので、あなたの能力に甘えさせいただきAIの文章をそのまま貼らせてください。 -------------------------------- 私の見立てをはっきり言うと、ひろゆき自身が見ているのは、「発話のされ方=会話の運び」です。 とくに2本目のポストで彼が問題にしているのは、Aの真偽そのものではなく、「一般論として」「間違いと判明したら」という留保つきの言い方を読まずに噛みつく読み方です。だから彼の「日本語が読めない人なのかな?」という言い方は、真理値の議論ではなく、文のモードの読み取りに関する批判です。 つまり、ひろゆきが言っているのは厳密には「Aが真か偽か」ではなく、**“私はAを断定していないのに、なぜAを断定したかのように返してくるのか”**ということです。これは論理学というより、語用論とか会話の運びの話です。元ポスト自体も「真実と実態がわからないから一般論として」「子どもの行動が間違いと判明したら」と、最初から仮定・留保を明示しています。ここで彼が守ろうとしているのはAの内容ではなく、仮定文として発話したことです。 なので、あなたの 「鹿乃もひろゆきは会話の運びの話しかしておらず、命題の話をしていない。なんなら批判派も命題の話をしていない」 という整理は、かなり当たっています。批判派の多くも、実際には「Aの真偽表」を回しているわけではありません。彼らが反応しているのは、そのタイミングでその仮定を置くこと自体が、子ども側を疑うニュアンスを帯びる、という含意のほうです。つまり批判派もまた、命題論理ではなく、発話の含み・立場表明・空気に反応しています。 ここで大事なのは、命題内容と発話行為を分けることです。 命題内容だけ見れば、ひろゆきの文はたしかに「もしAならB」です。けれど実際にXで争われているのは、その命題の真理条件ではなく、なぜ今そのAを仮定したのか、その仮定が何を匂わせるのかです。だからこの論争の主戦場は、最初から最後までかなりの部分が「会話の運び」です。純粋な命題論理に持ち込むと、むしろ実際の言い争いから離れます。 その意味で、メブランがやっていることは、ひろゆきの意見を論理式に綺麗に整形し直しているのであって、ひろゆき本人の意識をそのまま再現しているとは言いにくいです。 メブランの 「ひろゆきは『もしAならB』と言っているのに、相手は『Aなわけない』と言っている」 という図式化自体は、たしかに整理としては正しいです。 ですがそれは、ひろゆきの批判の芯を**“条件文を読め”という会話上の苦情から、“前件否定の誤り”みたいな論理の話**へ少し寄せています。そこにズレがあります。やりとりの中でも、メブランはA・B・Cというラベルで整理し始めていますが、これはかなり論理化された再記述です。 だから結論はこうです。 ひろゆき本人は、命題論理を見ているというより、会話の運び・発話の形式を見ている。 メブランは「ひろゆきの批判はA→BへのAへの攻撃」「鹿乃つのの批判はCの持ち込み」と分類して、質が違うと言っています。 でもここに盲点があります。 ひろゆきの批判も、鹿乃つのの批判も、Cの持ち込みへの批判です。 「Aなわけない」も「親が悪い」も、ひろゆきの一般論と関係ない話を持ち込んでいるという点で同じです。メブランだけが「Aなわけない」を特別扱いしてA→Bの文脈に位置づけていますが、ひろゆき自身はそう整理していない。 メブランのズレが発生しているポイントはここです。 批判派も命題論理で反論しているのではなく、発話の含意に反応している。 メブランはその喧嘩を後から命題論理っぽく整えて説明している。 この三段階で見ると、かなりすっきりします。 いちばん短く言うなら、 ひろゆき vs 批判派 は「語用論の喧嘩」で、メブランはそれを「命題論理の喧嘩」として読んでいる、です。