視覚障害のある子どもはどんな戦争体験をしたのか―。長崎で被爆し今も後遺症に苦しむ全盲の野田守さん(92)=東京都杉並区=は、無数のうめき声や人が焼ける悲惨なにおいをはっきり覚えている。だが、野田さんが戦時中にこうむったのは爆風や放射線による被害だけではない。障害があるために国家の戦力になれないと差別された痛みが今も胸に刻まれている。(中村真暁)
◆人が焼ける「におい」とうめき声
1945年8月9日、17歳だった野田さんは空襲から逃れるために家族で避難する長崎市内の仮住まいの小屋で、1歳のおいと留守番をしていた。爆心地から0・7キロの距離だった。
おいにアコーディオンを弾いてあげていたとき、左側から生ぬるい爆風が猛烈ないきおいで通り抜け、土ぼこりをかぶった。太陽の光が照りつけ、屋根が飛ばされたことが分かった。「ただごとじゃない」。小屋の裏にあった大きなヒノキがジジジジジと音を立てて燃えているのが分かった。
おいと防空ずきん代わりの丹前(防寒用の上着)を抱えて逃げ出した。履物も履かず、無我夢中で坂を下った。感覚を頼りに幅2メートルの川にかかる幅40センチほどの橋を走り抜けると、「守さん、こっち」と近所の人から呼ばれて防空壕に飛び込んだ。「血がすごいぞ」と言われて足の傷に気づいた。飛び散ったガラスでけがをしたようだ。
しばらくすると、畑にいた母親が野田さんの名前を呼びながらやってきた。顔や体にひどいやけどを負ったようだった。おいを背負った母と広場へ行くと、人が焼ける「悲惨なにおい」がたちこめ、「水をちょうだい」といった無数のうめき声が響いた。
野田さんは、4歳ごろから栄養不良で見えなくなった。両親が通学の道中を心配して自宅にとどまらせ、12歳になって長崎県立盲学校初等部に入学。当時は盲学校とろう学校が現在のように別々ではなく併設され、ろうの...
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