欲望と願望は、立ち上がり方が違う
同じ「求める」でも、身体の中での立ち上がり方が違うものがある。
最近、自分の中で、ひとつの問いがはっきりしてきた。
欲望と願望は、何が違うのだろう、という問いだ。
約2年間、「願望を決める」という言葉と出会ってから、ずっと見つめてきた問いでもある。
ただ、これは言葉の意味をきれいに整理したいという話ではない。
僕が見ているのは、もっと手前にある、自分の身体の中での立ち上がり方の違いだ。
ここで使う「欲望」と「願望」も、あくまで、いまの自分の内側を観察するための言葉として置いている。
これまで僕は、欲望をどちらかといえば煩悩に近いものとして捉えてきた。
不足を埋めようとする力。
足りないものを満たそうとする動き。
自分のために何かを得ようとする、利己的な欲。
今でも、欲望はそうした方向から立ち上がることが多いと感じている。
一方で願望は、もちろん利己的なものも含みうるけれど、
欲望よりはもう少し開かれたもの、
利他的なニュアンスも入りうるものとして捉えてきた。
でも、いま自分が本当に見たいのは、その意味の違いだけではない。
もっと実感に近いところにある差だ。
僕の場合、欲望が立ち上がる時には、まず強い情動が起きる。
感情と思考の焦点が、その欲に一気に集まっていく。
意識がそこに吸い寄せられ、すぐにでも動き出したくなる。
どうすれば手に入るか。
どうすればつながれるか。
どうすれば満たされるか。
そんなふうに、思考がすぐに方法を探し始める。
その時の感覚はかなり強い。
反射的でもある。
そして何より、その欲と自分が一体化していくような感じがある。
欲望を見ているというより、欲望そのものになっていくような感じだ。
たとえば「つながり」を求める気持ちが強く立ち上がった時、
感情が先に動き、それに呼応するように思考が走り出す。
どうすればつながれるかを考え、
どんな振る舞いをすればいいかを選び、
そのまま行動に現れていく。
ここでひとつ大事なのは、
つながりを求めること自体が悪いわけではない、ということだ。
人がつながりを求めるのは、とても自然なことだと思う。
ただ僕が見ているのは、その求め方の質だ。
つながりたい、という自然な願いの中に、
不安を埋めたい気持ちや、
認められたい切実さや、
置いていかれたくない焦りが強く混ざる時、
そこには欲望としての立ち上がり方が出てくるように感じる。
そこには勢いがある。
切実さもある。
現実を動かす強さもある。
でも同時に、
いまここには何かが足りない。
このままでは満たされない。
そんな前提が、その奥に潜んでいる感じもある。
一方で、願望はもっと静かだ。
欲望と比べると、感情や思考とは少し距離がある。
むしろ、感情や思考よりも先に、身体感覚があるように思う。
それは最初からはっきりしているわけではない。
初めは微かで、ふとした時にしか輪郭を持たない。
でも、その微かな響きに気づくと、
それは時間とともに、内側の深いところから繰り返し響きながら広がっていく。
すぐに何かをさせるわけではない。
すぐに答えを出させるわけでもない。
ただ、静かにそこにあり続ける。
そしてある時、
ああ、自分はこれを願っていたのかもしれない、
と気づく。
願望に気づいた時の体感は、僕の中ではとてもやわらかい。
温かな振動に身体が包まれていくような感じがある。
強く前に出るというより、内側から静かに満ちていく感じに近い。
ただ、ここにひとつ厄介さがある。
自分の内側を見ていく時、本当に難しいのは、
欲望と願望がきれいに分かれていないことだ。
欲望の中に願望が混ざることもあるし、
願望の中に欲望が混ざることもある。
しかも僕たちは、その混ざり合いをそのまま見るより先に、
かなり自然に解釈を加えてしまう。
自己正当化の力を使って、
欲望を願望風の言葉で包み直してしまうことがある。
本当は不足を埋めたいだけかもしれない。
本当は認められたいだけかもしれない。
本当は不安を落ち着かせたいだけかもしれない。
でも、それをそのまま認めるのは少し痛い。
少し格好が悪い。
少し認めたくない。
だから僕たちは、それをより聞こえのいい言葉に置き換えてしまう。
願いだから。
大切な望みだから。
誰かのためでもあるから。
そんなふうに包み直してしまう。
でも、難しさはそれだけではないのだと思う。
逆に、本当は大事な願いなのに、
それを「ただの欲だ」と切り下げてしまうこともある。
自分にはそんなことを望む資格がない。
それは身勝手だ。
欲深い。
未熟だ。
そんなふうに、自分の願いのほうを小さくしてしまうこともある。
だから、欲望と願望を見分けることは、
単に「欲望を見抜く」作業ではない。
自分を美化する方向にも、
自分を切り下げる方向にも、
どちらにも歪みうるものを見ていく作業なのだと思う。
その時、僕にとってひとつの手がかりになるのは、情動の強さだ。
もちろん、情動が強いからといって、
それがただちに執着だと決められるわけではない。
そこには不安もあるかもしれないし、
未消化の悲しみや怒りがあるかもしれないし、
本当に大切な価値に触れている切実さかもしれない。
ただ少なくとも僕にとっては、
情動が強く立ち上がる時、
そこに執着が混ざっている可能性を疑ってみることには意味がある気がしている。
情動が強ければ強いほど、
僕はその対象に呑み込まれやすい。
視野が狭くなりやすい。
自分とその欲の距離が取りづらくなる。
だから、その強さを「これが大事だ」という証拠としてすぐ採用するのではなく、
むしろ立ち止まるためのサインとして見てみたい。
この強さの奥には、何があるのか。
不足感なのか。
不安なのか。
恥なのか。
孤独なのか。
それとも、本当に大切な願いに触れているのか。
そこを見ていきたい。
いまの僕の感覚では、
欲望から目を背けたり、欲望そのものを押さえつけたりしても、
その奥にある執着が緩んでいない限り、
その欲望は形を変えながら繰り返し立ち現れてくる。
だから必要なのは、欲望を否定することではなく、
その奥にあるものに触れていくことなのかもしれない。
執着に気づく。
そこにある緊張や怖さに気づく。
身体に起きている収縮や熱やざわつきを感じる。
それをすぐに正当化したり押さえ込んだりせず、
少しずつ通していく。
いまの僕は、それを「滞ったエネルギーを身体を通して外に流していく」イメージを持っている。
まだこれは完成した理解ではない。
ひとつの仮説であり、今の時点での手応えにすぎない。
でも少なくとも、押さえつけることと、緩んでいくことは違う。
その違いは、身体の中ではかなりはっきりしている。
ふりかえってみると、
欲望には焦点を狭める強さがある。
願望には、静かに広がっていく響きがある。
欲望には、すぐに動きたくなる衝動がある。
願望には、すぐには言葉にならない深さがある。
欲望には、感情と思考が一気に結びついて走り出す感じがある。
願望には、それらより先に身体が知っているような感覚がある。
ただ、それも絶対的な区別ではない。
静かなものがいつも本質的だとは限らないし、
強いものがいつも浅いとも限らない。
それでも、いまの僕にとっては、
この違いを見ていくことに大きな意味がある。
なぜなら、同じ「求める」でも、
そこから生まれる行動の質が変わるからだ。
欲望から動く時、僕はその対象に強く引っ張られやすい。
すぐに行動へ移りやすいし、反射的にもなりやすい。
良くも悪くも、勢いがある。
でも願望から動く時は、
すぐには動かなくても、その静かな響きが消えずに残る。
時間が経ってもなお響いてくる。
そして、あるところで、無理なく行動につながっていく。
この差は、単なるニュアンスの違いではない。
自分が何に動かされているのか、
どこから選んでいるのかに関わる差だと思う。
だから今の僕は、
欲望が悪い、願望が良い、と単純に分けたいわけではない。
欲望には欲望のエネルギーがある。
願望には願望の静かな持続がある。
どちらにも生命力はある。
ただ、欲望には不足や執着が強く混ざることが多いように思う。
願望には、比較的静かで広がりのある質感がある。
少なくとも、いまの僕の身体はそう感じ取っている。
だからこそ、いま自分の中で起きているものが何なのか、
その立ち上がり方の違いを見失わずにいたい。
意識が一点に吸い寄せられ、
すぐに動きたくなるのか。
それとも、微かだけれど確かな響きとして、
深いところから何度も立ち上がってくるのか。
その違いを、頭で定義する前に、
身体の中でちゃんと感じていたい。
欲望と願望の違いは、辞書の中よりも、自分の身体の中にある。
どちらが正しいかを決める前に、
まずはその立ち上がり方の違いを見ていたい。
強い情動とともに、
思考と意識が一気にそこへ集まり、
すぐに行動へ向かっていくもの。
静かに、微かに、
身体の深いところから響き始め、
気づくと温かく広がっていくもの。
そして厄介なのは、
前者を後者の言葉で包み直してしまうこともあれば、
後者を前者として切り下げてしまうこともある、ということだ。
ふりかえれば、僕の中にはたしかにその違いがあった。
だから今は、その違いをうまく説明することよりも、
ごまかさずに見ていくことのほうが大事な気がしている。
去年、願望のオブラートに包まれた強い欲望の渦の中にいた。
それに気づいた時からずっと問い続けてきたことをようやく言葉として置けた気がする。
あの日々の体験からの卒業が近づいてきているのかもしれない。



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