野球における「二刀流」とは?
エースで4番
日本には野球は1872年にもたらされたが、草創期から日本野球は「エースが投げ勝つ野球」が主流だった。チームで最も能力が高い選手が投手=エースとなったが、多くのエースは打者としても能力が高く「エースで4番」が、日本野球のスタイルとなった。 1915年に今の高校野球の前身である中等学校野球大会の全国大会が始まると、野球が全国に普及したが、多くの学校が「エースで4番」のスタイルで甲子園に勝ち進んだ。 1936年に今のプロ野球につながる「職業野球」ができた。レベルが高くなると、投手と打者の掛け持ちは難しくなるが、戦前の職業野球では、エースとしてマウンドに立ちながら打者としても中軸を打つ選手が、まだたくさんいた。
掛け持ちが減っていく
その代表格が大阪タイガース(今の阪神)の景浦將と藤村富美男だ。景浦はまだ2シーズン制だった1937年春に47打点で打点王をとるとともに投手として0.93で防御率2位になっている。また藤村は1936年秋に2本塁打で本塁打王、投手として1.93で防御率6位になっている。 戦前の職業野球では「規定打席(規定打数の時代もあった)」「規定投球回数」を同時に満たす選手はそれほど珍しくなかった。試合数が少ないうえに、選手数も少なく投打を掛け持ちする選手が多かったのだ。 戦後になっても、阪急の野口二郎(投手と内外野手)、中部日本の服部受弘(投手と捕手)のように規定打席、規定投球回数を同時に満たす例が散見された。 しかし、選手数が増え、チームの体制も整うとともに、投手、打者(野手)の専門性が高まり、投打を掛け持ちする事例は次第に見られなくなった。
指名打者制の導入
MLBでは1930年代には、投手と野手は全く別のメニューでトレーニングをするようになった。また先発投手のローテーションが組まれるようになった。先発投手は次の登板日に向けて登板翌日から計画的な練習をするようになる。また救援投手も試合日はブルペンで準備をするようになる。こういう形で、投手と野手とは練習日程も中身も全く別物になっていった。 1つのチームに2種類の競技者がいるような状態になったのだ。 それでも投手は長い期間、打席に立っていたが、1973年、MLBのアメリカン・リーグが「DH=指名打者制」を導入。これは当時、観客動員減に悩んでいたア・リーグが打撃戦を増やそうと導入したもの。NPBのパシフィック・リーグも75年から導入した。 こういう形で投手が打席に立たない「投打の完全な分業」が、野球の世界に普及した。