南京陥落当時の貴重な映像
http://www.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8
http://www.youtube.com/watch?v=JZQTdOfUlck
http://www.youtube.com/watch?v=dS1KEvLgRUs
http://www.youtube.com/watch?v=IpYXmyAW_fw
http://www.youtube.com/watch?v=r-hCB4O49ms
http://www.youtube.com/watch?v=rV66e7xVwt4
日本兵と南京市民、和やかな雰囲気です。一緒に餅つきやってますね。
30万人殺されて生き残った南京市民が、日本兵と餅つき???
有り得ないでしょ。
なぜ、「南京事件」は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=9jWIHnks7uo
南京のハンコ屋に「勝利の記念に印鑑を作れ。」と言われて作った物を今も大切に持っていると。
30万殺された中で生き残ったハンコ屋が、そんな暢気なこと言うかな。
有り得ないでしょ。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A5%B8
■南京における「漢奸狩り
日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で
陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか
『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も
「漢奸狩り」について報道をおこなっている。
戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日 80 人にも及び
その後は数が減ったものの1937年11月までに約 2,000 名に達し、多くは日本留学生であった。
(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)
(中略)
南京攻略戦直前(1937年12月初め)の南京城内では
毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず
電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった。
南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示した
ポスターが南京市内いたるところで確認された。
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えーと…南京大虐殺ってこれのことじゃないの?
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#128】
通州事件なら解決しとるよ。賠償も含めて。
大阪朝日新聞 昭和12年12月23日
通州事件愈よ解決
冀東政府から誠意披露
【北京特電二十二日発】
去る七月ニ十九日日支軍衝突と同時に冀東保安隊の反乱によつて発生した通州事件の
悲惨なる想出は今なほわが国民の脳裡を去りやらぬ痛恨事であるが、冀東政府の
現政務長官池宗墨氏は事件解決策につき北京大使館当局と種々折衝中のところ
大体左のごとき解決案を発見、池長官はニ、三日中に北京大使館に森島参事官を訪問、
冀東政府を代表し正式陳謝をなし犠牲者に対する慰藉金、日本側機関に対する損害賠償など
合計百二十万円を日本側に交付し、これをもつて同事件の正式解決をはかることに決定した。
即ち冀東自治政府としては北京の中華民国臨時政府に正式合流をなすに先立ち通州事件の正式解決をいそぎ、
もつて日本国民に対する慰藉、陳謝の態度を明にしたものである。
なほ前長官 殷汝耕氏も事件後厳重な取調べを受けつつあつたが間もなく同事件に通謀したる事実なきことも
明白になりこれまた近く釈放されるものと見られる、また我が同胞の尊き霊を永遠になぐさめるため遭難地通州に
大供養塔が建設されることになつてゐるが、右基金は冀東政府要路者の心からなる義金によるものである。
南京大虐殺を引き起こした中支那方面軍司令官だった、松井石根の
東京裁判で死刑が確定した後のインタビュー
「南京事件ではお恥しい限りです。
(略)
その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。
ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。
従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。
折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
(花山信勝『平和の発見』P229)
当事者が、兵の暴虐を認めて深く恥じ入り、そのために死刑になることは「大変に嬉しい」とまで言ってる。
河村の親父のような下っ端じゃなくて、現地司令官だぜ?
これまで本名で南京事件を証言をした人はことごとく嘘であったことが確認されています。
東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。中国じゃ未だに真実扱い
中山重夫…戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが場所時間がコロコロ変わったのでうそがばれた
富永博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明
舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するというカッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×
曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、あの秦教授も騙された
田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状
太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった
富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた
上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」でしかもそんな命令が出たという史料は一切無し
このように偽証言・偽手記・偽もしくは改竄記録が出回っているので注意
これらは検証を受けるまでは堂々と真実として喧伝されていた偽記録等の特徴・原本が確認できない(あるいはあると主張するが実物を見せることはない)
・なぜか南京戦前後だけ詳細に記録している
・南京戦前後だけ異常に矛盾点や他の一次史料との乖離が多い
・記録者証言者本人の経歴が実際と違う
・「日本や日本軍は懺悔しろ」というが、自分が私財を投じて賠償するなどの行動は無く、むしろ出版や講演で金儲けをしている
東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作を
バラまいた。中国じゃ未だに真実扱い
中山重夫…戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが
場所時間がコロコロ変わったのでうそがばれた
富永博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加
し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明
舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重
兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するという
カッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×
曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官
だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を調べ
られて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、あの秦
教授も騙された
田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が
当該日時南京を離れていた事が判明。後に
「普通の話だと記者が興味を示さないから…」
と捏造を白状
太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記
(捏造物の数々と違って原本確認できる)によ
り当時証言場所にいなかった事がバレる。
撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった
■5.南京虐殺に言及していない蒋介石、毛沢東、国連決議■
面白いのは、南京事件の翌年、中華民国総統・蒋介石が発表した
声明の中の「日本人の残虐行為」という一章だ。ここで特筆されて
いるのは、広東での空襲で何千人もの市民が殺されたという事件で
ある。もし、当時の首都南京で数万人を超す大虐殺があったなら、
それに言及しないはずはない。[1,P345]
さらに傑作なのは、毛沢東が事件翌年に行った「持久戦につい
て」という講演である。ここで毛沢東は、南京の日本軍は支那兵を
殲滅しなかったため、後に反撃の機会を与えたのは、戦略上のまず
さであったと指摘している。[1,P339]
国際連盟の諮問委員会は、南京陥落の半年後に、支那代表の声明
に基づき、「日本軍の侵攻によって脅かされている支那の独立と領
土保全」に奮闘する支那に対して同情の意を表する、という決議を
行った。ここにも、南京虐殺はまったく触れられていない。もし南
京で国際法違反の大虐殺が行われていたら、支那代表はすかさず、
それを利用したはずである。[1,341]
東中野教授は、当時の代表的な公的記録(三等史料)を15種類
も調べて、そのいずれも、南京虐殺に触れていない事を確認する。
ベイツの虐殺説が復活するのは、事件の3年後に刊行されたエド
ガー・スノーの「アジアの戦争」である。ここでスノーはベイツ説
を「その大部分は女子供」と改竄した。さらに5年後、43年に刊
行されたアグネス・スメドレーの「支那の歌声」では、ベイツ説を
5倍にして20万人殺戮と拡大宣伝した。このあたりから、虐殺説
の一人歩きが始まる。これらはすべて、四、五等史料でしかないの
である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog079.html
南京事件を最初に世界に知らしめたのは、オーストラリア国籍の記者、ティンパーリーの
書いた“What War Means : the Japanese Terror in China”という書籍である。
南京事件の翌年の1938年に早くも出版された。ちなみに彼は英国のマンチェスター・
ガーディアンの中国特派員だった。
一流紙の特派員で、中国とも日本とも関係のない第三国の人物による書籍との触れ込みで、
彼の書籍には信頼が寄せられ、残虐行為の有力な証拠ともなった。南京大虐殺の日本断罪は、
この書物から始まったともいえるのだ。
北村氏が発掘した事実は、ティンパーリーの隠された素顔に関するものだ。じつは彼は公平な
ジャーナリストなどではなく、蒋介石の国民党の対外宣伝工作に従事していたというのである。
上の事実は『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社)を書いた鈴木明氏も指摘しているが、
北村氏はさらに調査を進めてさらなる新資料にたどりついた。そのうちの一つは国民党中央
宣伝処の曾虚白処長の自伝だ。自伝のなかで曾は次のように書いている。
「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の
『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。(中略)我々は秘密裡に
長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝に
おいては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、国際友人を捜して我々の代弁者になって
もらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、
金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の大虐殺の
目撃記録として2冊の本を書いてもらい、発行することを決定した」
こうして極めてタイムリーに日本断罪の書が出版されていった。公平な第三者の著作のはずが、
じつは国民党宣伝部の資金を受けていた人物によって書かれたものだったのだ。それが元に
なって南京大虐殺説が生まれてきた。
ttp://www.yoshiko-sakurai.jp/works/works_diamond_011201.html
旧陸軍第6師団の文集発見 “虐殺”否定する貴重な資料 南京戦の実相
師団長が“南京大虐殺”の責任を問われて処刑された旧陸軍第六師団(熊本)の将兵が南
京戦の模様をつづった文集が、東中野修道・亜細亜大学教授の手で発見された。同師団が
相次ぐ戦闘と行軍に追われ、捕虜虐殺などを行っている余裕すらなかった状況がうかがわ
れる。(石川水穂)
この文集は『第六師団転戦実話南京編』という題で、上下二巻が東京・九段の靖国神社
の偕行文庫に保管されていた。南京戦から二年余り経た昭和十五(一九四〇)年三月、中
国戦線を転戦中の同師団の将兵四百人以上が南京戦などの思い出をつづったものだ。
六師団は熊本、大分、宮崎、鹿児島県の南九州出身の兵士らで編成され、南京の城壁に
縄ばしごをかけて城内に突入した強力な軍隊として知られる。戦後、師団長の谷寿夫中将
は中国・南京の軍事法廷に連行され、「一九三七年十二月十二日から二十一日までに集
団虐殺十九万人、中華門付近の死体埋葬数十五万人、被害総数三十余万人」に及んだと
して絞首刑に処された。
だが、『転戦実話』によれば、六師団が突入した中華門付近には「約二百五十の敵死体」
が目撃されただけだ。しかも、六師団は南京陥落から三日後の十二月十六日には南京か
ら揚子江上流の蕪湖に転戦しており、十日間も南京にとどまっていなかった。
投降してきた中国軍捕虜に対しては、捕虜収容所に収容したり、苦力に使ったり、解放し
て帰郷を促したりする場面が文集に記されている。
谷中将については、蕪湖で師団長を交代するさい、別れを惜しむ兵士らのために午前二
時まで揮毫(きごう)に応じる様子などが記されている。
戦後の南京軍事法廷では、六師団の中隊長だった田中軍吉大尉も“三百人斬り”の罪を
きせられ処刑されているが、『転戦実話』では、田中大尉は軍刀をかざして突撃の先頭に立
つ勇敢な指揮官として描かれている。
文集を発見した東中野教授は「壮烈な戦闘の光景や戦場での兵士の偽らざる心境がつ
づられ、南京戦の実相を詳しく知ることができる。“虐殺”がなかったことを示す貴重な準同
時代記録といえる」と評価している。
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/030731-3etc.html
《国際連盟議事録の資料としての価値》
検証するにあたって、「南京大虐殺」があったとする1937年12月13日から
翌38年2月までの公文書を重要な一次資料と判断して、
第百会期国際連盟理事会(1938年1月26日~2月2日)の議事録を入手した。
その中で、顧維鈞中国代表は「南京で2万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと
演説し、国際連盟の「行動を要求」をしても、国際連盟は、1937年10月6日の
南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった。この事実は、
東京裁判での20万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解30万人と桁が違う。
また、その国際連盟議事録の「2万人の虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、
米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にしたニューヨーク・タイムズなどの
新聞報道に基づくものだった。ちなみに、ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる
「第三者」ではなかったのである。
フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、
ベイツ教授は中華民国政府の顧問だった。
蒋介石軍の将兵は、1938年1月になると、南京城内安全区から脱出して、蒋介石に
南京城陥落に関した軍事報告をしている。
その時点で「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、
顧維鈞中国代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。
顧中国代表は、「戦時国際法違反」になる事実を確認できなかった事で、「デマ」に基づく
新聞記事を援用せざるを得なかった。
(『南京の実相 - 国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった』日新報道)
南京陥落後に撮影された風景
http://www.history.gr.jp/~nanking/fukei.html
陥落当時には120名をこえる報道陣が南京に滞在していました。(外国人記者達を含めて)
彼らの多くは戦争が終わり、南京が平和に復興する様子を写真などによって撮影、記録しています。
日本兵と中国人との心温まる交流も多数記録されているのです。
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