『菊と刀』について
(1)著者ルース・ベネディクト
ベネディクト(Ruth Benedict:1887年6月5日-1948年9月17日)は、米国の文化人類学者である。
1936年、コロンビア大学助教授に昇任後、米国が第2次世界大戦に参入するに当たって、連邦政府機関である戦時情報局(OWI)に招聘される。
1942年より、対日戦争および占領政策にかかる意思決定の中心的役割を担った。
このときにまとめられた報告書「Japanese Behavior Patterns(『日本人の行動パターン』)」を基に戦後、『菊と刀』が執筆された。
『菊と刀』は、物理的な現地調査ができない中で、文献や日系人への聞き取りに基づき、日本人の行動原理、国民性、文化構造を分析した文化人類学研究である。
(2)戦後の米国による対日占領政策への貢献
ベネディクトの報告書「Japanese Behavior Patterns」は、戦後の米国による対日占領政策に大きな影響を与えた。この本が日本の占領政策に与えた主な貢献・影響は以下の通りである。
・天皇制の維持(占領方針の転換):
ベネディクトは、日本人が天皇を「神聖な義務」として重んじる心理を分析し、天皇を利用して統治する方が直接統治よりも円滑に進むと示唆した。これが米国政府の「天皇制存続」の方針決定に貢献したと言われている。
ベネディクトは報告書で次のように書いている。
「1945年8月14日に日本が降伏した時に(編集部注:8月14日は米国東部時間、日本では8月15日)、世界はこの『忠』がほとんど信じがたいほど大きな力を発揮した事実を目撃した」
「日本に関する経験と知識をもつ多くの西洋人は、日本が降伏するなどということはありうべからざることである、という見解を抱いていた」
「(中略)こういうふうに日本を分析したアメリカ人は、『忠』を勘定に入れていなかったのである」
「天皇が口を開いた、そして戦争は終わった。天皇の声がラジオで放送される前に、頑強な反対者たちが皇居の周りに非常線をめぐらし、停戦宣言を阻止しようとした。ところが、いったんそれが読まれると何人もそれに承服した」
「(中略)日本人は今や平和の道をたどることによって、『陛下の御心を安んじ奉る』ことになったのである」
「つい1週間前まで、たとえ竹槍を持ってでも、夷狄を撃退することに身をささげることが『陛下の御心を安んじ奉る』ゆえんであった」
(出典:社会思想社刊『菊と刀』第6章152~153ページ)
・日本文化を欧米の「罪の文化」とは対極的な「恥の文化」として定義:
この分析により、GHQ/SCAP(General Headquarters/the Supreme Commander for the Allied Powers:連合国軍最高司令官総司令部)(通称:GHQ)のスタッフは、敗戦後の日本占領政策における対日心理作戦や社会変革の指針を得たと言われている。
ベネディクトは次のようにも書いている。
「日本人は恥辱感を原動力としている。(中略)日本人の生活において恥が最高の地位を占めているということは、(中略)各人が自己の行動に対する世評に気を配るということを意味する」
「彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準として自己の行動の方針を定める」
「みんなが同じ規則に従ってゲームを行い、お互いに支持しあっている時に、日本人は快活にやすやすと行動することができる」
(出典:同上第10章258~259ページ)
・日本文化の構造理解:
『菊と刀』は、日本人の「義理と人情」や「誠実」といった行動の「型」を解釈し、GHQのスタッフが日本人の行動心理を理解するためのマニュアルとして機能した。
そして、日本人論の古典となり、戦後日本の思想や対日政策を論じる際の源流となった。ベネディクトはこうも書いている。
「近代日本人は、すべての『世界』を支配する何かある一つの徳目を上げようとするときには『誠実』を選ぶのが常であった」
(出典:同上第10章245ページ)
(3)筆者コメント
当時の米国は日本への上陸作戦を計画しており、未知の敵である日本人を効率的に扱うための「研究リポート」が必要だった。
戦時情報局(OWI)が、敵国である日本人の心理や行動パターンを分析するための研究の目的は次の2点であった。
・戦争を終わらせるため:日本人がどのような条件なら降伏するのか、天皇の存在がどう影響するのかを把握すること。
・占領統治のため:戦後、日本をスムーズに統治・民主化するために、彼らの価値観を理解すること。
そして、戦時下の敵国調査から生まれた本書は、米国の対日占領政策に直接的かつ大きな貢献をしたことは間違いない。
他方、冷戦終結直後に勃発した湾岸戦争(1990-91)では、米軍は圧倒的な軍事力で勝利したが、その後のイラクの占領政策・戦後処理で失敗し、長期的な地域不安定化を招いた。
筆者は、イラクの占領政策等が失敗した一因は、米国が、『菊と刀』のようなイラク人の行動原理、国民性、文化構造を分析した文化人類学研究を政策に十分反映していなかったためだと考えている。
翻って、現行のイラン戦争を見れば、米国は、イラン人の研究をどこまで実施しているのか疑問に思える。強大な軍事力への奢りがあるのだろうか。