願望から欲望へ-生き方自慢の降り方-
「意志」と「責任」が現代の生きづらさを生んでいる
・はじめに-現代病の病原仮説-
「自己肯定感が低い」「夢を叶えられない」「自分らしくなれない」
コーチとして、あるいはそんな名前を知って名乗る前から、こうした悩みを聞くことが非常に多かった。
こうした悩みに対して、
「君は十分やってるよ」と現状を代わりに肯定したり、
「どうしたら夢は達成できるかな」と一緒に考えたり、
「君にとってのらしさってなんだろう」とそもそもを考えたり。
というまあ、”普通”に考えると妥当なアプローチ”だと思っていた”コミュニケーションでこうした生きづらさに寄り添おうとしていた。
大抵は、「そうのかな」という半信半疑を持ちながらも「ありがとうごいます!頑張ってみます!」と元気に悩み相談を終えるのだが、まあ数日後にはおんなじ状態に戻っていたりする。
「これは意味があるのだろうか。」「でも、寄り添い続けるのが大事だしな。」
と思って何度もやるのだが、まあうまくはいかない。
ただ、ある時思い至ったことがあった。
「そもそも、僕は悩みの原因ではなく”どうすれば”という対処療法からしか話を聞けてないのではないだろうか。」
ということだ。
どういうことか、
「自己肯定感が低い」に関しても「夢を叶えられない」に関しても「自分らしくなれない」に関しても、そこで掲げられているお題目は「達成すべきもの」であり、その達成するべき対象は「その人自身に帰結する」という考え方。
つまり「自分の人生は自分の意志で改善しより善い状態を目指さなければならない」という前提の価値観そのものが、原因なのではないかということなのだ。
(ちなみに、上記の価値観を前提に置いたとするのならば私も「そんなものは無理」という夢を叶えられなず、自分らしくなく、自己肯定感が低い存在となる。)
・中動態的世界観-主体性に対する懐疑-
さて、突然「中動態」なる小難しい概念がやってきたのだが。
一回、この話を踏まえさせてほしい。
「中動態」とは、能動と受動という文法を習ったのなら絶対に知る概念であるこの2つにもう一つ古来存在していた文法のあり方だ。
僕たちは基本的に、<する/される>という文法の中に生きている。
人を殴ったのなら、殴った人は「あの人は人を殴った」という能動で表されるし、逆に殴られた側は「あの人は殴られた」という受動で表される。
あらゆる行為はこのように誰かが「する」側で誰かが「される」側に回る構造になっている。
だが、例えば「恋に落ちる」という概念であればどうだろうか。
仮にAさんが恋”した”側で、Bさんが恋”させた”側だとしよう。
Aさんが「恋に落ちた」として、でもそれは誰かに自分からわざと主体的に「恋に落ちる」ことはできない。もし、「いや、私は意志を持って主体的に恋に落ちたのだ」という人がいたのならばそれはきっと恋ではないので出直してきた方がいいだろう。
そして逆に恋に”落とした”側であるBさんを「BさんはAさんを恋に”落とさせた”」とするのも難しいだろう。そうなると存在しているだけで誰かに影響を主体的に「与えている」ということになるからだ。これを成立させるとよくストーカーが「あいつが誘惑したんだ」と主張する原理を認めなくては行けなくなってしまう。(Bさんがあの手この手でAさんを籠絡しようとしていた場合は、”落とさせている”が成立しうるかもしれないが)
このように、「恋に落ちる」という現象において<する(能動)/される(受動)>の関係性は成立し得ない。
では、どう説明しうるのか。
ここで出てくるのが、「中動態」である。
中動態では<する/される>の代わりに行為の影響範囲が<外側/内側>のどちらにあるかを問う文法となっている。
先ほどの例で言うと、
あの手この手で恋に落とさせようとする場合は「能動」であり、一目惚れなど自然発生的に”そうなってしまった”ものが「中動」となる。
実際に自ら相手に対して何かを及ぼそうとしているか、自分の中で勝手に湧き起こっているか。この2つで区切っているのだ。
そうしてくると、中動態においては誰に「その行為の責任」があるかは不明瞭になるし、そして今まで「能動」と思っていた行為も実は中動態で捉えた方がいいものがかなり出てくることになる。
例えば、「カツ丼を食べたい」と思いカツ丼を主体的に「食べた」として。でも、その主体的に行為に至るまでに、街中で広告を見たかもしれないし、最近の食べたものの種類によって体が勝手に欲したのかもしれない、ストレスの負荷のかかり具合によっている可能性もありうる。そう考えると、「カツ丼を食べる」と言う行為に関しても決して「意志」を持って主体的に決定はしてないのである。
・願望は「能動的」であり、欲望は「中動的」である。
さて話を冒頭に戻そう。
ここまで見てきてわかるように、「自己肯定感(自己を肯定する力)」も「夢」も「自分らしさ」も能動的なのである。
なので、自己肯定、夢、自分らしさなどの能動的で主体性を求められる概念に対して中動態的な対抗概念がこの生きづらさに対する処方箋たりうるのである。
決して、自己肯定や夢を達成することや、自分らしくなることを加速させることではないのだ。この状況そのものを疑うところから、全ては始まる。
そこで、私は「願望」と「欲望」の違いを持ってこの問題の解決を図りたい。
願望は「願って望む」と書く。この「願う」においては「ここではない、何かを自ら想起する」事象が働く。例えば「大きなマイホームで、家族とペットで暮らすことが夢です」みたいなことを夢プレゼンコンテストで語っているのをテンプレート的にたくさん見てきたが。この場合も、現状を「一人で孤独」であると捉えた時に(これが偏見かもしれないことは捨て置く)、そうではない理想系(ここではない、どこか)を語っているのである。
そして、「ここではない、どこか」を願い望む際には、必然的に「現状の否定」が入る。つまり、今より善いと言うことは、今はその未来より悪いと言うことになる。そして、この「悪さ」の改善責任を主体的に請け負うことになる。これが、生きづらさを生んでいるわけだ。
では、「欲望」の場合はどうだろう。欲望は「欲して望む」と書く。
「ご飯が食べたい」「寝たい」「かまってほしい」「優しくしてほしい」
などなど。その場、その場で自然と湧き上がってくる情動。
ここにおいては、自らの意志で「願っている」のではなく、今この瞬間において自然と「欲する」と言う中動的な状態になっている。(弊社の言う、「快」や「コンセプト」はこの欲望の自然的傾向の総体とも言い換えられるだろう。)
「欲に負ける」「色欲・強欲etc.」などと言う形で、現代においては否定の対象になりやすいこの中動態的「欲望」。
ここまで紐解くと、「能動的世界観において邪魔」だからと言うことがわかってくるだろう。実際、この中動態的世界観を紐解いた哲学者 國分功一郎は対談記事の中でこのように述べている。
「意志というのは『信仰』なんです。ぼくらの現代文明は意志に対する信仰で成立している。実際、意志という概念を発明したのはキリスト教哲学でした。それをはっきり指摘したのはハンナ・アレントという哲学者なんですが、キリスト教以前の古代ギリシャには意志の概念がない。意志って当たり前だと思っていますが当たり前の存在ではないんです。アレントによれば意志はパウロ(編注:1世紀のキリスト教の使徒・聖人。ユダヤ教徒としてキリスト教を迫害したが、のち、半生をキリスト教の伝道にささげた)がつくったもの。パウロは人間の弱いところをよく知っていた。『やらなきゃいけないが、できない』ということがパウロにとっては問題でした。これを引き受けたのがキリスト教哲学最大の哲学者・アウグスティヌスです。アウグスティヌスは意志にとって『欲し、かつ、欲しない』ことが同時に起こると語っている。まさしくこれも人間の弱さに対する視線ですが、やはりこうしたある種の矛盾を抱えた概念にぼくらの文明は頼らざるをえなかった。でもそれで本当にいいのかということです」
僕たちは「意志」と「責任」を中心とする願望的世界観の中で生きている。
パラダイムシフトが次に起こるとするならば、この願望的世界観から欲望的世界観へのシフトによって起こるのかもしれない。
今週の質問:言われて、耳にして、嫌だった言葉
特定のワードが嫌だと言う感覚は思い至らないが、ある条件が整うとそれが「心底嫌だ」となるものはある。
それは、
①こちらからお誘いする(プライベートに限らず、取材の打診や業務の依頼などを含む)
②断れる
と言う構造をとるものだ。
「断られる」と言う実際の問題もそうだし、「断られるかもしれない」と言う状況が一番怖い。なので、依頼を送った後のメールなどは非常に恐怖の対象だ。見るまでに1時間くらい気合いを入れなければいけないこともある。(最近は、セキュリティ上問題ないやつは嫁に先に見てもらってるくらいだ。)
なぜこれが怖いのかというと、弊クソガキ日記で何度か出てくるメンタルモデルの話に直結してくる。
子どもの頃から、周囲と「ズレ」を経験していた自分。その時に一番嫌だったのは「ズレた誘いをした結果、断れる。なんならキモいetc.と言われる」ことだったのだ。
「遊ぼう」と言うのが怖い。
これが結構、「嫌に感じる」事象の根源に全て存在しているように気がする。



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