もはや「恋は罪悪」ではないのだ
「恋は罪悪」とは、夏目漱石の『こころ』に登場する「先生」の言である。
高校生の頃に『こころ』を読まされて印象に残っている人も、恐らく多いのではないだろうか。
知らなかったり忘れたりしている人向けに、大雑把に当該の箇所を引用すると、以下の通りである。
「(前略)しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
「(前略)とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
上で挙げたように、作中の「先生」は、恋というものの罪深さと神聖さを語る。
しかしながら、この「罪深さ」や「神聖さ」は、一体何に由来するものなのだろうか。
小説本文を見る限りでは、
友人であるKへの裏切り行為をも働かせるところに恋の「罪深さ」が、
そんなことをしてでもお嬢さんを手に入れたい(誰かと愛し合いたい)と思わせるところに恋の「神聖さ」がある……という風にも読み取れるだろう。
もちろん、『こころ』の本文だけに着目するのであれば、この読み方でそう間違ってはいないはずだ。
ただ、折角なので、本文以外の部分にも目を向けながら、「恋は罪悪」という言葉の意味を考えていこうと思う。
さて、『こころ』はいつ、どのような情勢下で書かれたものなのか。
漱石がこの作品を書いたのは大正3年(1914年)である。つまり、近代日本のまあまあ初期であるといえそうだ。
それでは、日本の近代初期とはどういう時代であり、「恋」はその中でどのような役割を演じたのだろうか?
(私は日本史に明るくないのでざっくりとしたことしか言えないのだが)大まかに言えば、近代は旧来のしがらみからの解放の時代であった。
旧来のしがらみというのは、身分や地縁、血縁といった前近代の制度・価値観のことだ。
そして「恋」とは、前近代の制度・価値観から個を析出させるための一種の「装置」であったといえるだろう。
そもそも、現在我々が「恋(恋愛)」と呼ぶところのものが成立したのは、明治時代、欧米文化の影響を受けてであるという。
そして、西洋における恋愛の起源は、中世において、騎士が既婚の貴婦人に向けて抱いた、崇拝的で熱狂的な愛(宮廷風恋愛)にある。
対象が「既婚の」しかも「貴婦人(身分の高い婦人)」とあるように、恋愛の祖たる「宮廷風恋愛」は、根本からして身分制度に飾り立てられた道ならぬ恋、障害の多い恋であった。
その上、主体はキリスト教の守護者たる騎士である。
騎士はいかなる状況下においても、自分の意志で同意したあらゆる誓約に、男子の名誉にかけて忠実でなければならない。
騎士が捧げる狂気的なまでの熱情の背景には、まさにこうした宗教的感情があった。
※『アーサー王伝説』なんかを読んだことがある人は、ランスロットとグィネヴィア妃の不倫の下りで「おいおい、とんでもないことになってきたな」と思ったことがあるかもしれない。あんな感じだ。
「恋愛」はその起源からいって、宗教的色彩すら帯びた熱狂であり、身分制度(=旧来の制度)の中で成立しながら、それに反逆せずにはいられない、ある種反社会的なものでもあるのだ。
だからこそ、「恋は罪悪」なのであろう。
恋する二人は、身分も地縁も血縁も無視してしまう。そんなことどうでもいいくらい、相手が好きだから。
これはまさしく、反社会的な行動だ。彼らが「どうでもいい」と思ったことは、彼らの属していた共同体にとっては、どうでもよくないことなのだから。
そして「罪悪ではあるが」ではなく、むしろ「罪悪であるがゆえに」、「恋は神聖」なのだろう。
旧来の価値観をぶち壊してしまうほど反社会的であるがゆえに、恋は人を解放してくれるといえるのだ。
その破壊力とスカッと具合たるや、北村透谷をして「恋愛は人生の秘鑰なり」などと言わしめたくらいである。とんでもねぇな。
けれども、こんな文章をここまで読んでくれた人は、そろそろお気づきだろう。
もはや「恋は罪悪」ではないのだと。
現代においては、少なくとも明治時代と比べると、地縁や血縁といったしがらみは薄くなっているといえるだろう。
経済格差なんかはともかくとして、身分制度に至っては、ほぼないといって良い。
個人主義も隅々まで浸透している。結婚だって恋愛結婚が主流だ。
もう、恋愛がぶち壊すべき価値観も、解放すべき個人も残っていない。
また、恋愛結婚が主流になっていることからも分かるように、すでに恋愛は反社会的でも何でもない。
むしろ「恋愛に興味ないとか変わってる!」と言われることも多いくらいには、人生のメインイベント扱いされている。
その中で、恋愛をしたくないという人に理由を聞けば、「恋愛が面倒」「自分の趣味に力を入れたい」「仕事や勉強に力を入れたい」などと返ってくる(平成26年度「結婚・家族形成に関する意識調査」より)。
思うに、上に挙げた理由が「恋愛ができない負け惜しみ」という可能性を除けば、そこそこの数の人が既存の恋愛に疲れて、嫌気が差しているのだろう。
何といっても、恋愛なるものは「反社会的」で「非日常的」、往々にして障害も多く、その上、狂気的なまでの熱情を伴うものなのだから。
そんなもんが人生のメインイベントになっては、疲れる人が出るのも当然の話である。疲れずに恋愛ができる人はマジですごいと思う。
あと、ソースがないので憶測になるが、「反社会的」「熱狂的」みたいな要素は現代ではウケにくい気がする。
こうした風潮を鑑みると、現代における「恋」は、もはや人を解放する罪悪であるどころか、それ自体が新たなしがらみになりつつあるといえるかもしれない。
「だから恋愛はダメだ」などと結論づけるつもりはないが、個人的には
「恋愛も時代に即してアップデートしていくのだろうか」とか
「既存の恋愛から人を解放するような何かが現れるのだろうか」とか、気になることも多い。
世情が移ろうのを楽しみに待とうと思う。
さて、『こころ』の話をするつもりが、途中から脱線してしまったので、この辺りにしておこう。
結局、「恋は罪悪」の意味は本当にあれで良いのか、
そもそも『こころ』の本文よりも、それを取り巻く背景に着目することが小説の読み方として適当なのか、疑問も課題も尽きない。
何かあったら、是非ともコメントで教えていただきたい。
それでは、今回はここまでということで。
参考文献
牟田和恵「愛と性の文化」井上俊編『現代文化を学ぶ人のために』(世界思想社、2014年)209-223頁
「平成26年度「結婚・家族形成に関する意識調査」報告書(全体版)」内閣府、2022年3月4日参照。〈https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/research/h26/zentai-pdf/index.html〉
「宮廷風恋愛」『世界大百科事典』Japan Knowledge Lib
「騎士道」『日本大百科全書』Japan Knowledge Lib


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