元NHK武田真一アナ、災害報道の苦い思い出と貫く“現場主義の裏にある”“パンク少年”だった高校時代と父親としての顔
今、目の前で起きていることを伝えるために
担当2年目・'00年6月に受けた洗礼を今も覚えている。韓国と北朝鮮の南北首脳会談の中継である。 武田さんは、史上初の会談に備えてカッコいいコメントをたくさん準備していた。 「南北分断から52年の歴史の中で、初めて両首脳が顔を合わせます」などと。しかしそれらはなんの役にも立たなかった。隣に座っていた国際部デスクが見事に実況したからだ。 《いま金大中大統領がタラップに立ちましたね》 《いま2人は両手で握手しています、笑顔ですね》 「本来、それは僕がやるべきだったんです。でもできなかった。表情やしぐさなどすべてがメッセージなんだと。今、起きていることを切り取り、起きていることの意味を伝える。そこからニュースをひもといていく。頭で考えたコメントなんて要らないんだ。それを学びました」 その後も武田さんを試すように大きなニュースが続く。昭和天皇の妻である香淳皇后の崩御、「正午のニュース」の平日担当になった'01年はアメリカ同時多発テロ事件、'02年には北朝鮮に拉致された被害者が帰国、'03年、イラク戦争、'05年、JR福知山線列車脱線事故……。 中でも'04年10月に起きた新潟県中越地震での中継は、武田さんの心に深く刻まれている。 地震発生から4日目の中継を武田さんは担当した。母親の運転する車で姉と自宅に帰る途中、地震による土砂崩れで生き埋めになった皆川優太君(当時2)。生存の可能性が下がるとされる72時間を経過していたが、懸命の救助活動が続けられ、ついに事故から92時間後、奇跡的に助け出された。その瞬間、武田さんはひと言こう伝えた。 《生存しています》 「本当に声が震えて、不覚にも涙がにじみました。スタジオのスタッフも泣きながら仕事していました。僕にも同じくらいの年頃の子どもがいましたから、親の気持ちにもなって、本当によかった、生きていてくれてありがとうという気持ちでした」 母親と姉は残念ながら亡くなった。しかし……、 「ニュースというのは基本的に事件で人が死んだ、傷ついたという事実を伝えることがほとんどです。でも1人の命がつながったこと、希望を報じられたのはよかったですね。報道の使命を改めて考えさせられました」 実はこの後、武田さんは中越地震の災害現場を訪ね、ボランティアを行っている。 「アナウンサーはスタジオを守るのが仕事なんですが、現場を知らなきゃいけないと思ったんです」 向かった先は観測史上初めて震度7を記録した川口町(現長岡市)。壊れた家からテレビなど電化製品を回収する作業を手伝った。防塵マスクをしているので武田アナだと気づかれることはなかった。 「例えば冷蔵庫を運び出すと、畳一畳分がきれいに片づくんですね。冷蔵庫があったところを家の人が拭くと、“あー、すっきりした”とおっしゃる。そのときに思ったのが、“そうか、これが復興ということなんだ”と。壊れたものを一つひとつ人の手で片づけるという膨大な作業の次に、新たなものをつくっていく。これが復興なんだ、軽々しく復興なんて言葉を使ってはいけないと」 取材をするアナウンサーとしての時間が長かったためか、武田さんは、じかに目で見たり生身で感じたりして、自分の身体の中を通した言葉で語るプロセスを大事にする。 「すべてに自分のフィルターを通すのは無理です。調べたことの受け売りになってしまうことも少なくありません。でも、自分はどう考えるのかという意識は常に持っていなきゃいけないと思います」 今やAIがニュースを読む時代である。ただ、アナウンサーが原稿を読む場合でも、淡々と、何も考えなくてよいというわけではないという。 「ニュース原稿の向こうには人々のリアルな苦しみや悲しみ、日々の営みがある。そこに思いを致す、あるいは寄り添う気持ちが声や表情に反映される。そこは大事にしてきたつもりです」 '06年、希望して沖縄放送局に行ったのも、沖縄戦やアメリカ統治の歴史、そして基地問題を、実際に住むことで知りたいと思ったからだ。 沖縄で生活してみて、思いもしなかったことにも気づかされる。ある日、スーパーで買い物をしていたとき、ふいに知らない人に呼び止められ、 「テレビでこういうことをやってたね」 と直接感想を言われたのだ。 「全国ニュースをやっているとなかなか気づかないんですが、放送の原点というのは、右隣にいる人から聞いたことを、左隣の人に伝える─そういうシンプルな営みなのだと再認識したんです。そう考えると仕事が楽しくなり、元気が出ました」