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息子が4歳で亡くなりました



私の長男、一馬。 一言で言うなら、彼は「社交性の塊」のような子でした。
公園に行けば誰にでも「ぼく、かじゅま。いっしょにあそぼ?」と声をかけ、一発ギャグを披露しては大人たちを笑わせる。
飛んだり跳ねたり、名前の通りじゃじゃ馬のように駆け回る。そんな明るい男の子でした。
その日常が音を立てて崩れたのは、彼が3歳9ヶ月の時。
診断名は「前駆B細胞急性リンパ性白血病」でした。
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入院治療スタート。そして付き添い入院スタート。


「8〜9割は治ります」
最初の告知で主治医はそう言いました。 白血病は治る病気になったのだと。

その言葉を信じ、入院生活が始まりました。
一馬はまだ3歳。当然のように病院から「付き添ってください」と言われました。

1歳の長女も居たので、長女が保育園に行っている間は妻が付き添い、私が夜を担当して病院で寝泊まりする生活がスタートしました。
それはつまり家族バラバラの生活です。
家族が一緒に居られることは当たり前じゃなかったと痛感しました。

抗がん剤を使うと免疫力が低下します。
免疫力が低い間はベッド上で過ごすことも多かったです。
動き回りたい盛りの一馬にとってそれは辛いことだったと思います。

一馬は、髪の毛が抜けても、吐き気やだるさが続いても、病室で大好きなウルトラマンのフィギュアを手に戦い続けました。
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極早期再発。


「とても順調です」
定期的に組まれる面談で医師からの言葉はとても心地の良いものでした。

「自分たちならがんばれる」
1年の付き添いも自分たちなら大丈夫と言い聞かせて付き添い入院をがんばっていました。

しかし、運命は残酷でした。
治療が順調に進んでいると思っていた矢先に極早期再発を起こしたのです。

極早期再発とは、予後が極めて不良である難治性の再発です。

「ここの病院ではもうできることがありません」

医師からそう告げられ、白血病と診断された時の何十倍も何百倍もショックだったことを覚えています。
「8〜9割治る」その中に一馬は入れなかったのかと、文字通り目の前が真っ暗になったことを覚えています。
到底信じられるものではなく、そんな私たちを見て主治医がセカンド・オピニオンを勧めてくれました。
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国立がん研究センターへ転院。ちぎれていく「頼みの綱」。


セカンド・オピニオンは東京築地にある国立がん研究センターで行いました。
群馬県立小児医療センターからの情報を見て、医師は
「極早期再発に間違いはありません」
と言いました。でも、こう続けました。

「ここでは群馬の病院では使用できない治験薬が使えます。私の見立てでは4つの治験薬が対象になり、そのうち一つは6割くらい効いてくれるのではないかと考えています。

その言葉は完全に悲壮の中に居た私達夫婦にとって希望の光でした。

治験薬は頼みの綱となりました。

頼みの綱を求めて東京の国立がん研究センターへ転院しました。
さっそく6割効くと見立ててくれた薬から使い始めます。

しかし、2週間後の面談で医師は

「残念ながら、薬が効いているようには見えません」

そう伝えられました。絶望でした。

「次に効くと思われる治験薬を使います。3割は効いてくれると思います。」
私たちは「お願いします」と伝え、面談室を後にしました。

涙が流れます。どうしても堪えられません。
このまま一馬がいる病室に戻ることはできません。
だから廊下の隅で、夫婦で声を殺して泣きました。

なんとか涙を止めて、涙を拭い、一馬の前で赤い目のまま笑顔を作って付き添いしました。

2週間後、また面談が組まれます。次の治験薬の効果を告げる面談です。
面談が組まれるだけでぎゅーっと心臓が何かにわしづかみにされる感覚になりました。

面談では
「残念ながら、効いていないようです。次の薬を使います。」
と、前回とほとんど同じ内容でした。でも次の薬はさらに効く可能性が低い。

頼みの綱は次々と太い順にちぎれていきました。
絶望の底へ向かって、ブチン、ブチンと落ちていきました。

そして、ついに、

「残念ですが、治療法はもうありません。」

辛い副作用、だるさ、苦しさ、痛みにも耐え、がんばってきた息子ですが、医師からそう告げられました。

群馬に帰るかどうかを問われると、私たち夫婦は
「新しい薬や治療方法が見つかるかもしれないから帰りたくありません。」
と、ここの病院に残りたいことを話しました。
でも、主治医は、
「ここの病院にいることはかまいません。でも、それは一馬くんのためになっていますか?
と言われました。

「CAR-Tは使えないんですか?」
その当時、先進医療だったCAR-T細胞療法を私たちは望んでいました。でも医師は、
「適応ではあるが、たくさんの人数が並んでいる。今は月に1〜2人選ばれてアメリカにいかないと実施できない。」
と言いました。それでも諦められない私たちを見て、
「一馬くんの場合、もしやったら、身体中に炎症が起き、今よりも数十倍の痛みと苦しみの中亡くなっていくことが99%です。それでもやりたいですか?」
と続けました。

「一馬くんを治してあげられなくてごめんなさい」

泣きながら悔しそうにそう言う医師を前に、 後ろではずっと担当してくれていた看護師さんが嗚咽を出しながら泣いていて、 横を見れば前髪がびしょびしょになるまで泣いている妻がいました。

その時、初めて思いました。

「ああ、一馬は死んじゃうんだ」

今まで絶対に見ないようにしていたその現実を胸の奥に刻み込まれ、ただただ悔しくて辛くて苦しくて、涙が溢れ出しました。
「群馬に帰ります。」
そう伝え、夫婦で抱き合いながら涙が枯れるまで泣きました。

目を腫らしたまま、一馬のところへ戻り、
「一馬、群馬に帰れるって」
と伝えると、
「やったー」
と喜ぶ一馬がいました。
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萬田先生との出会いと「親のエゴ」


群馬の元いた病院に戻り、数日が経ちました。
一馬はほとんど何も食べることはできず、辛そうにしていたり、イライラしていることが多い状態でした。

「家に帰りたい」
一馬にその気持ちがあることは知っていましたが、今この病院で入れてくれている抗がん剤を止めたら、一気に白血病細胞が増えて死んでしまうと思うと、退院させてあげることができずにいました。
そんな私たち夫婦の葛藤をみて主治医が在宅医との面談を組んでくれました。

その在宅医は萬田緑平医師でした。 (最近出された本で10万部を超えるベストセラー作家になられた在宅緩和ケア医です。)
この萬田緑平先生と出会ったことが、私たちの運命を大きく変えました。

絶望のどん底にいた私に、萬田先生はこう問いかけたのです。
「一分一秒でも長く生きてほしいと思うのは、親の当然の気持ちです。でも、本人はどうでしょうか?本人の希望に全力で応えてあげる時期じゃないですか?
一馬が喜ぶと思って東京から群馬に帰ってきました。
でも本当は病院から家に帰りたいことを知っています。

「少しでも長く生きてほしい」というのは、私のエゴで、一馬の希望はそれよりも家に帰ることじゃないのか。

「一分一秒長く生きることを目標にすると家族は『がんばれ』と声掛けする。そして、最期は『残念ですが』という失敗に終わる。でも本人の希望を叶えることを目標にすると声掛けは『ありがとう、大好きだよ』に変わる。その方が本人にとっても家族にとっても幸せな最期になります。
そう、萬田先生から言われて、私たちは
「一馬の希望をできるだけ叶えられるようにします。病院に帰って希望を聞きます。」
そう伝え病院へ戻りました。

「お家に帰る!」


私は病室に戻り、一馬に聞きました。
「一馬、もう病院に来なくてもいいって。どうしたい?」
一馬は即答しました。

「お家に帰る!もう病院には来ない!」

それが、4歳の息子が出した、力強い「答え」でした。
私たちは一馬との別れを、幸せな最期にするために、自宅での看取りを決断しました。
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ここから、一馬と家族が過ごした「奇跡のような10日間」が始まります。
そこには、幸せな時間と共に、親としての深い後悔もありました。

次回「奇跡の10日間と3つの後悔」へ続きます。

※青木からのおねがいです。
入院中、妻は息子に付き添うため
病院を離れられない日々が続きました。
コンビニ飯、孤独、先の見えない不安——
そんな「付き添い家族」が、全国に何万人もいます。
その人たちに、温かいご飯と
「あなたのことを思っている人がいる」という気持ちを
届けたくて、キッチンカーを始めました。
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