リベラルの内側からのウォーク批判が日本ではまだまだ少なく、ジャンルとしても未開拓であり、JBpressの拙稿「“過激な反差別”が招いた東大五月祭・参政党講演の中止騒動、いま多数の国民をリベラルから遠ざける“正義”の暴走」(jbpress.ismedia.jp/articles/-/949)はそれを目指したものです。
米国はアイデンティティ政治やポリティカルコレクトの文化が日本より遥かに定着しているためか、リベラルの内部からその「行き過ぎ」を正面から諫める言論の蓄積も多く、M・リラ『リベラル再生宣言』はその代表作と思います。
日本でも今、リベラルがもう一度、大衆性や庶民性、有権者のなかにある常識や体温に寄りそうためのウォーク批判というものが必要で、その回路を拓いていきたいという思いがあります。
理想の「行き過ぎ」を抑制するのは何らかの「常識」ですが、「常識」は理想に比べてつまらないし、そして、生活上の通念として前提となっているがゆえに理想よりも言語化するのがはるかに難しい。
宣伝じみて恐縮ですが、来月6月刊行の『現代思想』の特集「『リベラル』とは何か(仮)」では、1990年代以降、「護憲+アイデンティティ政治(反差別・ジェンダー等)」に収斂してきた日本の「リベラル」の歴史を振り返り、それが有権者から乖離していった経緯と、再生に向けた問題提起をしたいと思います。
seidosha.co.jp/book/index.php
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大井赤亥
@AkaiOHI
JBpressの拙稿にて、東大五月祭における参政党講演会の中止をとりあげ、リベラルの再生は過激化したウォークとの絶縁なくしてありえないと論じました。
よければお読みください。
“過激な反差別”が招いた東大五月祭・参政党講演の中止騒動、いま多数の国民をリベラルから遠ざける“正義”の暴走