まだ鎌倉に実家があるころ、ずっと二匹の猫を飼っていた。一家離散となったあと、猫は親が引き取った。猫は長生きをした。最後に残った一匹が死ぬ前の晩、その猫が夢に出てきた。確率論的にそういうこともあるのだろうな、と思った。母から猫が弱っていると聞いていたという理屈もあるんだろう。一方で、なにか不思議なこともこの世にあるのではないか、とも感じた。
LINEの着信音で目が覚めた。ずっとLINEの調子が悪くて、着信の通知がずっと切れていた。ところがここ最近、復活しつつあった。着信があったり、なかったりする。おれは枕元のiPhoneを手にとってLINEを開いた。
母からの父の訃報だった。実はそれ以前にべつのグループで「息をしていないので救急車を呼びました」というむねのLINEが送られていた。その通知はなかったか、おれは寝ていて気づかなかった。
おれは夢を見ていた。街なかのおれは全裸で、同じく全裸のきれいなお姉さんにボディブラシで身体を洗われていた。とても丁寧に洗わられていて、身体中泡だらけになっていた。「困ったな、こんなの人に見られたら恥ずかしいな。でも、気持ちいいからこのままでもいいかな」と思いながら、顔もブラシで洗われていた。そのまま歯も磨いてもらおうかと思った。お姉さんのうしろには、たくさんの裸のお姉さんが列をなしていた。おれはごきげんだった。とてもごきげんだ。
おれの父はおれの父だった。
晩年は人工透析になっていたが、行ったり行かなかったりしていたようだ。大腸がんにもなった。それでも上の記事から3年くらいは生きているのでしつこい性格のようだ。
父は大昔、雑誌の編集者をやっていた。『宝島』の編集長もやっていた。
おれが父から受けた影響というと、文化的なこと、思想的なこと、文章論的なことが多かった。人間として薫陶を受けた、という覚えはほとんどない。父はあまり家族というものに向いている人間ではなかった。
一つだけ父として尊敬できるような話を思い出すと、おれも弟もまだかなり幼いころの話になる。休日に、久里浜からフェリーで千葉に行くドライブが計画されていた。おれはフェリーというものに大いに興奮して楽しみにしていた。ところがその前日、父がベルトのピンを踏み抜いて、足を大怪我してしまった。母が「明日は無理ね」というので、おれは大泣きしてわめいた。結果、父は無理をして車を運転してドライブは決行された。フェリーのことは覚えていないが、「これが父親というものか」と思ったのは覚えている。ただ、それ以後、同じようなことはなかった。
最後に顔を合わせたのはいつだったろうか。よく思い出せない。25年以上前になる。もう鎌倉の自宅がなくなるというあたりで、なにか喧嘩になっておれが思い切り父の右目を拳で殴りつけたのを覚えている。あれだけ人をしっかり殴った経験はほかにあまり思い出せない。結局、一家離散後は父と一度も会うことはなかった。会うとすればどちらかの葬式だろう。そのつもりだったので、そのようになった。
事業に失敗した父は、その後ひきこもりのように、いや、ひきこもりになって、ずっと母の世話になっていた。一人旅に行く、などといってカメラやバッグなどを買い込んだりしながら、結局一人旅に行くこともなかったようだ。おれが子供のころ、「わしは45歳で仕事を引退する」と言っていたので、それに近い後半生を送ったのではないだろうか。
その父も、このごろはめっきり弱り、まだ働いている母も介護がたいへんになってきた。ほとんどお金のない家だが、いろいろの制度を使えば、どこか老人ホームのようなところに入れることができるらしいとわかった。たしか先週、母は三浦あたりのホームに下見に行ったのではなかったか。海の見えるきれいな部屋で、ベッドのすぐ横にトイレがあるという話だった。ベッドのすぐ横にトイレが必要なのは、LARSになってしまったおれのほうではないかと思った。その話もキャンセルだ。
父は母に頼り切っていた。いろいろな尻拭いをさせてきたともいえる。母はひどい文句を言いながらも、結局見捨てることのないまま父は死んだ。最期はそれを選んだのかもしれない。寝ていてあっさり死んだのだから、最後は迷惑をかけなかった。そこはほめてやりたいと思う。とはいえ、死亡に関する手続きなどすべて母任せにしてしまっているのだから、おれも母に頼り切っている。事務能力もなにもいまだに母はおれよりずっと賢明に動ける人間で、息子のおれときたら、これはもう、やはり父の血の影響だろうか……。
まあ、今日はこんなところだ。
以上。