【再録】愛をすくって
ストーカーから千秋を守るために奮闘する武道家『心』(鉄虎、紅郎、斑、一彩)と千秋同室組(真、アドニス)の話。千秋愛され傾向のてとちあです。
こちらの後日談のような話がこちらです→novel/21518721
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平日の昼下がり。トレーニングルームに武道家「心」のメンバーたちが集まり、いつものように活動する。今日は久々に全員参加の活動で、誰もが少し浮足立っていた。
その張本人の顔を見るまでは。
最近やたらと忙しそうにしており、欠席がちだった千秋が久々にサークルに顔を出すと言った。それを受けて、あまり頻繁に顔を出さない斑や紅郎も日程を合わせてくれた。基本二人で活動することが多かった一彩と鉄虎は喜んだ。たまに紅郎や斑が顔を出すことはあっても、これでは空手部の活動と殆ど同じだと思っていたから。いつもは組手ばかりやっていたけど、今日は何をしようか。前みたいな座禅でもいいし、総当たり戦でもいいかもしれない。
そんな甘い考えは、千秋の顔を見て一瞬で吹き飛んだ。
目の下に濃い隈をつくり、弧を描く口元は引き攣っている。それでも「おはよう!」と目いっぱい声を張り上げるものだから、逆に痛々しい。何かあったことは火を見るよりも明らかだ。
そんなに疲れているのであれば、無理に活動に参加しなくてもよかったのに。顔を出したいというその気持ちは嬉しいが、千秋がしっかり休んでくれた方がこっちにとっても有難い。
そこまで考えが及んで、ハッと思い至った。鉄虎が顔をあげると、紅郎と斑は既に同じ考えのようだった。唯一、一彩だけが状況を掴めていないが、本能的に自分が口を挟むべきではないと判断したらしい。一歩下がって、紅郎に道を譲った。
「……守沢よぉ。このまま見て見ぬ振りをしたてやったっていいが……そうじゃねぇんだろ?」
続いて、斑が千秋に歩み寄る。
「生憎、面倒事には慣れっこでなあ。千秋さんの話一つくらい、俺にとったらどうってことない。輸写心腹、全部話してみないかあ?」
「鬼龍……三毛縞さん……」
千秋の重たい瞼がゆっくり持ち上がる。勿論、鉄虎たちだって同じ気持ちだった。
「俺たちじゃ頼りないかもしれないッスけど……いつでも俺は守沢先輩の味方ッスよ」
「何でも相談してほしいよ。千秋先輩にはお世話になっているからね」
「南雲……ヒーローくんまで……」
千秋の赤い双眸が揺れる。ひとつ瞬きをすると、次の瞬間にはその瞳は決意の色に染まっていた。どうやら、腹を括ったらしい。
「大した話じゃないんだが……聞いてくれるか?」
伺いを立てる千秋への返答なんて、最初から決まっていた。
千秋の話を要約すると、こうだった。
最近、どうにも見られている気がする。最初は気のせいだと思ったが、楽屋や帰り道など、日常的に視線を感じることが多く、自室にいても気が休まらなかった。その極めつけに、
「『遅い時間に独りでコンビニに行ったら危ないですよ』とメールが来て……流石に気のせいではないなと思ったんだ」
いつ何時見られているか分からず、夜もなかなか眠れない日々が続いた。一人でいると、どうにも考え事をしてしまうため、怖くなって今日の活動に参加することにしたらしい。
千秋の話に、鉄虎は納得した。明らかに疲労の色が滲んでいるのにも関わらず、サークルに参加した理由。千秋なら、逆に心配をかけるからと休みを取ったり疲労を隠したりする筈だ。それなのに、敢えて顔を出した。これは千秋なりのSOSだ。気づかれないならそれでいい。でも、もし気づいてくれるなら。
他人に迷惑をかけることを嫌がる千秋が、ここまでの行動に出た。勿論、鉄虎たちがそれを迷惑だと感じることなんてこれっぽっちもないのだけど。千秋はそれ程までに追い込まれているということだ。流星隊の活動や撮影等で何度か顔を合わせているのに、今日という日まで察せなかった自分を鉄虎は悔いた。
「メールということは、犯人が分かっているのかあ?」
千秋が一通り話し終えるまで静かに聞いていた斑が口を挟んだ。穏やかな口調だが、内心はそうではないのだろう。空気がピリッと冷える。
「あ、あぁ……送信者は分かっている。元々彼ではないかと薄々察していたからな」
「察していたってことは、何か心当たりでもあったのか?」
紅郎が身を乗り出した。こちらは明らかに穏やかでない様子を隠しもしない。
「それは……実はその……ひと月程前に、彼に告白をされたんだ」
「こ、告白⁉」
予想外のワードに思わず鉄虎は反応してしまう。だって、千秋は先程「彼」と言った筈だ。てっきり妬み嫉みの輩か、悪意を持った敵だと思っていたから、完全に虚を衝かれた。
「も、勿論丁重にお断りしたぞ! だが、その後くらいから視線を感じるようになって……もしかしたらと思っていたんだ」
「愛憎余ってというやつか。立派なストーカーだな」
これで敵の姿ははっきりした。見も知らずの人でないならば、探すのも簡単だ。
「よし! それじゃあ、その人を取っ捕まえに行こうか!」
一彩が笑顔で拳を構え立ち上がった。そのままずんずんと突き進もうとする一彩に、千秋も慌てて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待てヒーローくん!」
「そうだぞお」
続けて斑も声をかけたことで、一彩がぴたりと立ち止まった。千秋がほっと息を吐いたのも束の間。
「捕まえるのにも、証拠が挙がっていないからなあ。こういうのは、現行犯が大事だ。千秋さんの後を尾けているところを取り押さえよう」
「なるほど、合理的だな」
「犯人を誘き寄せるということだね!」
「いやいやいや! 違う、そうじゃないんだ!」
如何に犯人を捕まえて痛めつけてやろうか話し始めた三人を、千秋が必死に呼び止めた。三人は怪訝な顔で千秋の方を見る。
「もしや既に物的証拠が挙がっているのかあ?」
「安心しろよ。暴力はせず穏便に片づけるからよ」
「千秋先輩に危険が及ばないようにするよ!」
「と、とりあえず捕まえることから頭を離してくれ!」
流石の鉄虎でも分かる。千秋が本当に望んでいるのはそうではないことに。鉄虎が思っているよりも、三人は冷静に見えて頭に血が上っているらしい。
「じゃあ守沢先輩は、どうしてほしいんスか?」
このままではいつまで経っても平行線だ。鉄虎が間に入ると、千秋は少し安堵したように表情を緩めた。
「彼は、同じドラマに出演している後輩で……ドラマの撮影には支障をきたしたくないんだ。今のところ、物を取られるような実害はないし、できたら撮影が終わるまでは穏便に済ませたい」
千秋の言いたいことは分かる。ドラマの撮影は既に始まっているし、キャストに穴が開くと全て撮り直し、最悪放送日が延期になってしまう。周りのスタッフや事務所にまで迷惑をかけることはしたくないのだろう。
「実害はないったって……既に守沢のストレスにはなってんだろ? 自分でも気づいていると思うが、隈もひでぇぞ」
「それは……俺の気にしすぎなところもあるからな。これで漸く相手も分かったことだし、少しは眠れるようになるはずだ」
「だからって……」
尚も口を挟もうとした紅郎を、斑が制した。意志の固まった千秋に、何を言っても無駄だと察したのだろう。紅郎もそれが分かっているから、渋々引き下がった。
「だが、何もしないのも心配だなあ。今は実害がなくても、これからエスカレートしてくるかもしれない。ドラマに支障をきたしたくないという千秋さんの想いを逆手に取ってくるかもしれないぞお」
「っ……」
図星を突かれ、千秋が押し黙る。斑の中では、その反応も織り込み済みだった。だから、ここで一つ提案をする。
「どうだろう。暫くの間、俺たちが交代で護衛をするのは」
「えっ……?」
瞠目した千秋と裏腹に、他のメンバーは乗り気だった。
「そうだな。やれる限りのことはやらねぇとすっきりしねぇしな」
「千秋先輩を守れるなら何だってするよ!」
「そうッスね。それが一番安全策だと思うッス」
「いやっだが、それでは……!」
唯一状況に着いていけない千秋を他所に、斑たちは話を進める。
「まぁ、必然的に一番一緒にいることが多くなるのは鉄虎さんだと思うが」
「ユニットも同じだしな。そういや鉄も、守沢とドラマの撮影の現場が一緒じゃなかったか?」
「そうッスね。後半から出演させてもらう予定ッス。現場入りの時間は合わせられるッスよ」
「部長になら安心して任せられるよ。後は寮室だね」
「同室は乙狩と遊木だったか? 遊木なら監視カメラやボイスレコーダーが仕組まれてないか調べてくれそうだな」
「アドニスさんなら腕っぷしもあるしなあ。頼もしい二人だ」
張本人を置いて、とんとん拍子に事が決まっていく。ここまで来てしまえば、千秋ももう口を噤むしかなかった。
「じゃあ、鉄虎さんを主軸に、俺たちが交代で護衛をしていくということで……異論はないかあ? 千秋さん」
斑に押し切られ、千秋は言葉を詰まらせた。眉をハの字に傾けて、ちらりと鉄虎を見遣る。まるで親の顔色を窺う子どもみたいだなと思った。
──何を遠慮しているんスかね、この人は。俺たちが迷惑だと思うことなんてないのに。
鉄虎はその視線を真正面から受け止め、力強く頷いた。そして、安心させるように微笑む。
千秋は一瞬息を吞み──しかし直ぐに白旗を上げた。
「よ、よろしく頼む……」
その後、各々のスケジュールを確認し、簡単な予定を立てた。同室のアドニスや真の協力も得ることとなった。サークルでは、いつもの手合わせに加え、すぐに使える護身術を教えてくれた。一頻り汗をかいたあと、早速今日から千秋と鉄虎は一緒に次の現場へ向かうことになった。
正直千秋は面食らっていた。確かに、最近気が滅入っていた。常に視線を感じるから心も体も休まらないし、斑たちには言わなかったが、メールもかなり頻繁に来る。今後も撮影を続けていく仲間だし、気まずい関係にしたいわけではない。そのうえ、自分が振ってしまった負い目もあったため、千秋はそのメールの全てにとは言わないが、律儀に返事を返していた。
だから、弱音が出た。久々のサークル活動の連絡に、一人でいたくなかった千秋は悩んだ末参加の連絡を送ってしまった。自身の悩みを打ち明けるつもりはなかった。ただ、信頼できる間柄の人と、普通に楽しく話をしたり体を動かしたりして、気を紛らわせたかった。
それがまさか、こんな大事になるなんて。結果、こんなにも多くの人を巻き込む形になってしまった。何度目か分からない溜息をつこうとしたそのとき、一際大きな溜息がそれを掻き消した。
「まさか、後悔してるんじゃないッスよね?」
「うっ……」
鉄虎がちくりと図星を突く。千秋は隠しもせず胸を押さえた。鉄虎はそれを見届け、もう一度深い息を吐いた。
「……分かってなさそうだから言うんスけど。誰も迷惑だなんて思ってないッスよ? むしろ、相談してくれて嬉しかったッス。これは俺だけじゃなくて、みんな思ってることッスよ」
そうは言われても。やっぱり千秋の中では申し訳なさが勝っていた。
「……だが、結果的にお前たちを危険な目に巻き込んでしまった。みんなだって忙しいのに、わざわざ俺のためにスケジュールを開けてまで……」
「……まぁ、あんたはそういう人ッスよね」
鉄虎はそこで言葉を区切った。千秋の人柄はよく分かっている。こちらが何を言ったって、千秋の腑に落ちることはないんだろう。それでも、伝えなければ何も始まらない。
「じゃあ、まずはみんなの気持ちの代弁として。守沢先輩がもっと大変な目に合う前に知れてよかった。助けを求めてくれて嬉しかった。あんたがみんなに対してそう思うように、みんな、あんたの力になりたいって思ってるッスよ」
「南雲……」
自分の立場に置き換えてみる。確かに、千秋が相談された側だとしても、教えてくれたことを嬉しいと感じるだろうと思った。
「それで、これは俺個人として。……本当は、あんたの異変にもっと早く気づいてあげるべきだった。あんたの小さなSOSに気づけなくて、申し訳なかったッス」
「そんなことはない! 南雲が気にすることなんて、」
否定しようとした千秋を、鉄虎は「最後まで聞いてよ」と優しく窘めた。
「でも、俺は狡いんで。ちょっとだけ役得だと思ってるんスよ。……こうやって、守沢先輩と毎日一緒にいられる口実ができたんで……ね?」
鉄虎の薄い唇が緩やかに弧を描く。秋の斜陽を照り返す銀朱の瞳がキラキラ輝いた。
「~~~っ!」
その眩しさに、千秋は思わず目を逸らした。そう、これは西日が眩しかったから。かの清少納言も言っていた。秋の夕暮れが綺麗で見ていられなかったから。
鉄虎はそれ以上何も言わなかった。千秋の不自然な態度にも触れず、ただいつも通り他愛のない雑談を話した。千秋はそれに応えながら、しかし内心は激しく脈打っていた。
そう、これは千秋の悩みの種のひとつでもあった。
いつからだっただろうか。新星流星隊がスタートしてからだったかもしれないし、もっと前からだったかもしれない。ただ、なんとなく、千秋は鉄虎に接しづらさを感じていた。
鉄虎と一緒にいると、どうにも落ち着かない。みんなといるときは大丈夫なのに、二人きりになると途端、今までどう話していたか分からなくなる。でもそれは嫌な感じじゃなくて、どうにもふわふわして、頭がぼうっとしてきて、まるで風邪のひき始めのような感覚に酔いしれるのだ。
千秋は、それをどうにかしたいとは思っていた。勝手に気まずさを抱いているなんて、鉄虎に申し訳ない。できたら、今まで通り、何も考えずに和気藹々と接し合える間柄に戻りたい。
そんな矢先での今回の一件。これでは必然的に鉄虎と二人でいる時間が長くなってしまう。正直戸惑っていたが、これはある意味チャンスだ。これを機に、鉄虎との関係を修復したい。いや、別に仲違いをしていたわけではないのだけれど。
でも、それに。先程も言ったように、決して嫌な感覚ではないのだ。自分が自分じゃなくなるみたいで怖くはあるけれど、同時に身体がぽかぽかして満たされていくようにも感じるのだ。いっそこの泥濘に溺れてしまいたいと思うくらいには──。
いかん。また思考が逸れていた。千秋は首を振って甘い考えを薙ぎ払った。そしてもう一度隣を歩く鉄虎を見る。
さり気なく車道側を歩く鉄虎は、千秋より筋骨逞しく男らしかった。今までは不良役や高校生役が多かったが、最近ではスパイや刑事など身体能力を生かした大人の男の役が増えてきたらしい。そうした魅力に惹かれる女性ファンも増えてきたとか。贔屓目に見ても、鉄虎がどんどん大人の色気を増しているのは千秋も肌で感じていた。
きっと、これから更に格好良くなっていくんだろう。そのうえ気遣いもできるなんて、女性も放っておかない筈だ。こんなところで、千秋が独り占めするわけにはいかないのだ。
眩しい日差しに目を細めて、千秋は再び前を向いた。胸に残る蟠りに気づかない振りをしながら。
*
千秋と鉄虎が去った頃。『心』のメンバーたちは、暫くその場に留まっていた。
「千秋さんたちにはああ言ったが。俺たちも、できることは先に済ませておこう」
「守沢たちには内緒で、裏で動いておくってことか?」
「そうだ。先手を打たれてからでは遅いからなあ」
「ははっそうこなくちゃお前らしくねぇよな」
したり顔を浮かべる斑と紅郎に、一彩は明るく声をかけた。
「僕もできることがあれば手伝うよ。でも、部長にも伝えなくてよかったのかな?」
「伝えてもよかったが……まあ、これもいい機会だと思ってなあ?」
「いい機会?」
一彩が首を傾げる。紅郎は斑の考えなんてお見通しのように口角を上げた。
「鉄と守沢のことだろ? 野暮なことするよな、お前も」
「いやいや、これでもファインプレーだと思ったんだがなあ?」
さながら裏で悪事を働く悪代官のように、二人は企み顔で意気投合している。しかし一彩にはその理由がさっぱりだった。
「どういうことだい?」
「そうだなあ……一彩さんから見て、あの二人はどう見える?」
「どう……」
千秋と鉄虎。どちらも一彩の大好きなひとたちだ。優しくて格好良くて、一本芯の通ったところを尊敬している。二人の間には信頼が見えていて、お互いを大切にしているのが伝わる。そんな二人を見るのが好きだった。でも、最近は。
「何だか、妙によそよそしい……?」
そう。お互いがお互いを見ているのに、目が合ったと思えばぱっと逸らされる。確実に気にかけているのに、声をかけようとしては口を噤む。その繰り返しだ。喧嘩をしたのかと思えば、それにしては目を細めて切なそうに眺める姿に、流石の一彩も触れるのが憚られた。
「そうだよなあ。絶対想いは同じはずなんだけどなあ」
「ま、これを機に一緒にいる時間が増えりゃ、ちったぁマシになるだろうよ」
確かに、時間が解決してくれるということもあるだろう。大好きな二人がお互いを誤解したままだとするならば、一彩だって悲しい。
「そのためにも、俺たちが裏でいつでも首根っこを捕まえられる状態にしておくというわけだ。何も二人を危険な目に晒したいわけではないからなあ」
「そういうことなら喜んで協力するよ! 二人にはいつでも笑っていてほしいからね」
「そうだな。餅は餅屋。こういう汚れ仕事は俺に任せな」
「俺たちに、だろう?」
二人がくつくつと笑う。その笑顔はやっぱり悪い顔だった。でも、一彩は知っている。本当は二人も正義のヒーローだってことを。だから一彩も同じように笑った。
「ウム。僕たちに、だね!」
***
「じゃあ守沢先輩、気をつけて」
「俺たちも夜はなるべく早く帰ってくるようにする。安心してほしい」
早朝にも関わらず、寝間着姿のまま真とアドニスが玄関まで見送ってくれる。朝はやはり少し肌寒い。無意識に腕を擦った真を見遣り、千秋は心を痛めた。
「あぁ。毎度迷惑をかけてしまってすまないな」
「迷惑だなんて。いつもお世話になってますし、これくらいさせてください」
「守沢先輩の力になれることが誇らしい。どうか気に病まないでくれ」
優しく微笑まれ、千秋は思わず眦を下げた。二人の優しさが荒んだ心に沁みていく。じんわり温かくなった胸を押さえて、千秋も微笑み返した。
「ありがとう。じゃあ、行ってくるぞ」
「はい。いってらっしゃい」
「後は頼んだ──南雲」
千秋の後方。静かに見守っていた鉄虎は、アドニスの言葉に力強く頷いた。
「押忍。任せてほしいッス」
二人に送り出されて、千秋と鉄虎は星奏館を後にした。こんなやり取りが、かれこれ数週間は続いている。朝は同じタイミングで仕事に向かう人が付き添い、帰りは『心』のグループメッセージに連絡を入れれば誰かしらが迎えに来てくれる。同室の二人も、夜は部屋にいてくれるようにしており、時間が合えばこうやってお見送りまでしてくれる。
最初はなるべく気にしないようにしていたが、流石の千秋も罪悪感を抱かずにはいられない。自分のせいで多くの人を巻き込んでしまっている。みんな口を揃えて「気にしないで」、「やりたくてやっているだけだから」と言うが、ここまで至れり尽くせりでは居た堪れない。
かと言って、事態が収束したかと思えばそうではない。実際、誰かと帰っていても、後を尾けられている気配を感じる時がある。察しのいい斑たちが睨みを利かせれば退散するが、翌日には元通り。それに比例して、増えるメール。同室の二人に察せられないように敢えて通知を切っているが、バレるのも時間の問題だろう。
「今日から一緒の現場ッスよね。改めてよろしくお願いするッス」
千秋の憂いを知ってか知らずか、鉄虎が明るく声をかけた。あれ以来、鉄虎は千秋に護衛の件を触れてくることはなかった。気にするなと言われても気に病んでしまう千秋の性格を知ってのことかは分からない。でも、千秋にはそれが妙に心地よかった。
「あぁ、よろしくな! こうやってドラマの撮影が被ることは初めてだから、嬉しいぞ!」
千秋が出ているドラマは、警察と探偵のバディものだ。千秋が警察官として主演を張っており、件の後輩がそのバディの探偵だった。千秋の役柄は、普段の千秋に近しい、暑苦しくて熱血な新米警察だ。探偵を半ば強引に巻き込んで、難事件を一緒に解決していく。役柄的にも、必然的に後輩への接触が増えてしまうからきっと誤解されてしまったんだろうと千秋は思っている。
「俺も心強いッス。後半から出てくるから完全な端役だと思ってたんスけど……台本読んだら、結構キーマンだったから、驚いたッス」
「俺も目を通したが、後半からはほぼ南雲が準主役くらいの活躍っぷりだったな!」
「そうッスよね……演技はまだまだ不慣れなんで、正直荷が重いくらいッスよ……」
鉄虎は、千秋演じる新米警察の行きつけのバーの店員として現れる。最初の数話は、ただ千秋の愚痴を聞くだけの登場なのだが、徐々にその姿が豹変していく。実は、バーの店員は表向きの顔で、裏で難事件の糸を引く犯人だったのだ。しかも、その動機、その正体は。
「事件の犯人だっただけじゃなく、実は守沢先輩演じる警察官の生き別れの弟で、両親の殺害を隠蔽工作した警察を恨んでいたから、なんて設定盛りすぎッスよね⁉」
「しーっ! こ、声が大きいぞ⁉」
「す、すんません! つい……」
思いの丈が溢れた鉄虎は口を押さえる。幸いにも周囲に人がいなくてよかった。放送前に役者本人からネタバレなんて、炎上しかねない。
「だが、気にすることはないと思うぞ? 監督はこの業界にいて長いし、審美眼だってある。お前になら出来ると太鼓判を押したんだろう」
「う~みゅ、それなら嬉しいんスけどね。俺は他のところに理由があると思ってるッス」
「他のところ?」
千秋が尋ねると、鉄虎は不意に真剣な顔で千秋の顔をじっと見つめた。思わず息が詰まる。
あ、まただ。この感覚は、だめだ。深い深い海の底に、溺れていくような感覚。息苦しくて、呼吸が整わない。早く逃げ出したいのに、目が逸らせない。蛇に睨まれた蛙のように、千秋はそこから一歩も動けなくなる。
鉄虎の手が伸びてくる。そして、千秋の頬に優しく触れた。心臓が跳ねる。温かくて、骨張っていて、男らしい手。厚い親指の腹が、千秋の目尻をなぞった。頭がぼうっとしていく。酸欠で、気を失いそうだ。そのまま瞳を閉じかけた、そのときだった。
「ほら、やっぱり。守沢先輩の瞳って、俺と似てるッスよね」
「え……?」
思いがけない言葉に、千秋は瞼を持ち上げた。思ったよりも近くにあった鉄虎の顔が、千秋の瞳を覗き込む。鉄虎の淡い虹彩に吸い込まれそうになる。その瞳に映る自分のなんと間抜けなことか。この綺麗な瞳と自分が似ているなんて、思っていいはずがない。
「そ、そうか?」
これ以上見ていられなくて顔を逸らす。そこで漸く千秋はまともに息を吸えたような気がした。
「そうッスよ。俺と守沢先輩って、結構似てるって言われること多くて。だから兄弟役として抜擢されたのかなって思ったんスよね」
そう言って、鉄虎は恥ずかしそうに頬を掻いた。朝焼けが鉄虎の輪郭を浮き彫りにさせていく。チカチカ眩しくて、目を覆いそうになる。むず痒い空気に飲まれそうになった、そのときだった。
ガサッ。背後から、茂みが揺れる音がした。
勢いよく振り返る。そこには誰もいない、いつもの街並みがあるだけだ。でも、確かに感じる。嫌な視線が肌を刺している。
思わず身を縮こまらせた千秋を、鉄虎が見逃すはずがなかった。先程まで千秋の頬にあった手が、千秋の左手を掬う。
「行くッスよ、守沢先輩」
「あ、あぁ」
千秋は鉄虎に手を引かれながら、その後ろを大人しく着いていく。目の前を歩く背中が大きく見えた。
まだ背後から迫る嫌な気配は消えない。でも、千秋の意識はもうそこにはなかった。豆ができた少し硬い手を確かめるように握る。鉄虎も同じくらいの強さで握り返した。緩んだ口元に、気づかない振りをした。
結局、千秋たちはスタジオに着くまでその手を離さなかった。扉が開く前にするりと逃げていく右手を、千秋は無意識に目で追った。
件の後輩は、千秋たちの数分後に入って来た。千秋を見かけるや否や、「よろしくお願いします、千秋センパイ♪」と笑顔で声をかけてきてハグをしてきた。スタッフたちは「相変わらず仲良しだね」と和やかにそれを見守る。これが現場での千秋と後輩の距離感だ。最初の頃だったら、千秋も同じようにしていた。だから、千秋も何も言わずに笑顔でそれを受け止めた。
後輩はそのまま、後方に佇んでいた鉄虎を視界に入れた。値踏みするかの如く、上から下まで鉄虎を舐めるように見る。そして千秋から離れると、人好きな笑みを浮かべて鉄虎に歩み寄った。
「キミが今日から現場入りの子だっけ? 千秋センパイの後輩で、確かボクと同い年だよね?」
「押忍。南雲鉄虎ッス。そっちはうちの守沢先輩と、W主演張ってる方ッスよね?」
鉄虎も同じように人懐っこい笑みを浮かべた。だが、その瞳は笑っていない。それは相手も同じらしかった。
「ふぅん……。まぁいいや、これからよろしくね、鉄虎クン?」
後輩が鉄虎に右手を差し出す。握手を求めているのは見るも同然だ。スタッフも見ている中で、断ろうものなら鉄虎の心象が悪くなる。
それにも関わらず、鉄虎はその手を敢えて左手で握り返した。スタッフたちも、思わず目を丸くする。
「……握手しようとしたの、分かってる?」
後輩が隠しきれなくなってきた苛つきを滲ませながら鉄虎を見下ろす。鉄虎はそれを意にも介さず、にこやかに返した。
「はは……実は、今日の現場に緊張してて。来る前に、右手で大事なものに触ってパワー貰ったんスよね。だから今日は、あんまりこっちの手を上書きされたくないんス。……すんません」
子どもっぽく笑えば、もうスタッフは鉄虎の虜だった。「可愛い~!」「怖くないよ!」と代わる代わる声を掛けられ、すっかり輪の中心になっていた。後輩はそれを面白くなさそうに睨む。
一方千秋は、鉄虎の先程の言葉が頭の中で反芻して離れなかった。だって、先程まで右手で触っていたものなんて、一つしかない。千秋は自分の左手を見つめた。そこにはまだあの温もりが残っているような気がした。
思わず鉄虎を見遣ると、ばちっと視線が合った。そして、柔和に微笑まれる。それを見てしまったら、鉄虎が指す「大事なもの」なんて答えが出たも同然で。千秋はみるみる顔を真っ赤に染めた。
まさしく、今日の現場においては鉄虎の一人勝ちだった。
撮影が終わり、身支度を済ませると、千秋と鉄虎はスタジオを後にした。いつもだったら、後輩に「一緒に帰りましょ♪」と声をかけられ、無下にもできずそのまま帰ってしまっていたが、それがなくなるだけでも千秋は気楽だった。
そんな安心をしたのも束の間。スタジオを出てすぐの公園、薄く灯る街灯の下、後輩はそこに立っていた。待ち伏せをされていたのは初めてで、一瞬びくりと肩を震わせてしまう。鉄虎は千秋の異変に気づき、すかさず右手で千秋の手を握った。
「こんばんは、千秋センパイ。……それから、鉄虎クンも」
逢魔が時、後輩は千秋ににこやかに笑みを浮かべ──そして鉄虎を視界に入れるや否や、あからさまに声を低くした。繋がれた鉄虎の右手と、千秋の左手。それは今朝方後輩が拒絶された方の手。後輩はそれを卑しく見つめ、嘲笑った。
「本当に仲良しなんですねぇ。もしかして、二人は付き合っているんですか?」
不敵に問う後輩は、それが否定されるのを分かりきっているようだった。
実際、二人に付き合っているなんて事実はない。お互いのスキャンダルのためにも、否定するべきだと千秋が口を開いたときだった。
先に動いたのは鉄虎だった。繋がれた腕を強引に引かれ、千秋は体勢を崩す。よろけた千秋を、鉄虎はその厚い胸板で受け止めた。そのまま、千秋を覆い隠すように腕の中に抱き竦める。
「っ⁉」
咄嗟のことに千秋は身動きが取れなかった。鉄虎の鼓動が千秋の脳内を直接揺さぶり蝕んでいく。それに警鐘を鳴らすように千秋の鼓動が胸を叩く。鼻を擽る制汗剤と石鹸の香りに、千秋の頭はぐるぐると使い物にならなくなっていった。
だから、千秋は気付かない。鉄虎がどんな顔で、どんな想いで言葉を吐いたか。
「……さぁ?」
鉄虎の声音が千秋の耳元で踊った。その少し後で、後輩の舌打ちする音と遠ざかっていく足音が聞えた。
鴉が宵を告げ、今かと待ち侘びた秋の虫たちがセッションを始める。次第に互いの境界線が曖昧になっていく。そのまま夜の闇に溶け込んでしまいたい衝動に駆られ、しかし残ったなけなしの理性で千秋は鉄虎の胸を手で押した。
「な、ぐも。ちょっと……」
「あ……すんません。苦しかったッスよね」
「いや、それは別に……」
気まずい空気が二人の間に流れた。最近幾度となく感じる空気。この空気は苦手だ。今すぐ逃げ出したいのに離れたくない、ちぐはぐな心で雁字搦めになってしまうから。
千秋はなるべく平静を装って鉄虎に声をかけた。
「よかったのか? もしかしたら、誤解されてしまったかもしれないぞ」
「別に否定も肯定もしてないッスから。誤解してくれたならそっちの方が好都合ッス」
これで少しは諦めてくれるといいんスけどね、と鉄虎が苦笑する。それくらいで収まるようならここまで苦労はしないだろうと諦めの意味を込めて。
「そうじゃなくて……」
「?」
言い淀む千秋に、鉄虎は不思議そうに首を傾げた。鉄虎は何も気にしている素振りはない。
千秋が聞きたかったのは、自分と恋人同士と思われてよかったのか、という意味だったのだけれど。鉄虎が気にしていないのなら、敢えて触れる必要はないのだろうと千秋は首を振った。
「いや、なんでもない。暗くなってきたし、早く帰ろう」
「そうッスね。遊木先輩たちが心配しちゃうッス!」
妙な空気を払拭するように、二人は早足で帰った。視界の隅で鉄虎の右手が揺れる。それに少しの物足りなさを感じながら。
***
「やあ千秋さん。あれからどうだあ?」
ストーカー被害の発覚から二か月以上が経過した武道家『心』の活動日。示し合わせたわけではないか、あの一件以降、全員がなるべくサークルの活動に顔を出すようになっていた。
「大丈夫だ! 前と同じく実害はないぞ!」
「本当かあ? 鉄虎さん、証言を」
「押忍。正直、現場でのスキンシップやボディタッチは増しているッス」
「それは実害がないって言えんのか?」
「うっ……」
鉄虎がドラマの撮影に加わってからというもの、千秋が受けた後輩からの被害が筒抜けになってしまっていた。大事にしたくない千秋にとっては痛手とも言える。
「阻止はできないのかあ?」
「う~みゅ。彼自身が人懐っこいキャラで通っているせいか、スタッフたちも微笑ましい目で見ているだけで。俺も口出ししづらいんスよね……」
「流石は若手演技派俳優ってわけか」
「最近は送迎の時に気配を感じなくなったから落ち着いたのかと思ったのだけれど。代わりに直接的な手段に出ているのかな」
一彩の言うことは尤もで、実際、千秋が誰かといるときに視線を感じることは殆どなくなっていた。代わりに、メールや過剰なスキンシップなど、別のところに被害が出ているわけなのだが。
「護衛の効果はあったが、これじゃ逆効果でもあるわけか。厄介だな」
「こっちが間接的にしか手出しできないことを見透かされているわけだなあ」
ううんと頭を捻る斑たちに察せられないように、千秋はひとり俯いた。
後輩の行動が過激化している理由は、もう一つ心当たりがある。『鉄虎と千秋が付き合っている』という疑惑が払拭されていないからだろう。
あの日以降、千秋と鉄虎の距離は確実に縮まっていた。鉄虎の中でも吹っ切れてしまったのだろう、下手にこそこそ動くよりも、堂々としていた方がいいという結論に至ったらしい。行きも帰りも一緒に帰り、収録中も暇さえあれば隣にいて、昼食も共にする。スタッフは、それを「仲良しだね~」の一言で済ませてくれた。
こうなると不満が溜まっていくのが後輩である。そもそも千秋に護衛がついただけでも厄介だと言うのに、折角一緒に過ごせる現場の時すら、その殆どの時間を鉄虎に奪われてしまう。沸々と溜まるフラストレーションのまま千秋に過度に迫れば、鉄虎がナイトのように現れそれを阻む。それを甘んじて受け入れる千秋に、後輩も口出しができない。
スタッフはおもちゃを取り合う幼稚園児のようだと微笑ましく思っているかもしれないが、その内実はもっとドロドロしたものだ。結果的に、溜まった鬱憤のまま、更に過度な行動を招いている。悪循環のメカニズムははっきりしているのだ。
それでも、鉄虎も千秋も、そのことを口に出すことはなかった。斑たちに指摘されてしまえば、きっとこの泡沫の関係性は崩れてしまう。ただ漠然と、それを名残惜しいと思う自分がいた。彩霞のような、朧気で美しい幻想にまだ浸っていたかった。互いの暗黙だけで繋がれた耽美な秘密が、二人をいっそう魅了した。
「ドラマの撮影はいつまであるんだ?」
「クランクアップまではあとひと月弱だな」
「それまでは見ているだけだなんて、もどかしいよ」
「さ、撮影が終わったら手出しをしていいという訳でもないぞ⁉」
「大丈夫大丈夫! 行雲流水、そこは上手にやるから、ママに任せなさい!」
「おうよ。守沢はドラマのことだけに専念しな」
「不安しかないんだが……?」
訝しげに千秋が視線を送るが、二人は何処吹く風だ。今見て見ぬ振りをしている代わりに後は全て任せて欲しいということなんだろう。こうなってしまっては、千秋が何を言ったって無駄だ。否定も肯定もせず、千秋は話題を逸らす。
「とりあえず、これからはドラマの撮影が大詰めに入るから、もう護衛は大丈夫だ。みんな忙しかっただろうに、俺のために時間を割かせてしまってすまなかった。本当にありがとう」
「遠慮はいらねぇよ。礼だけ受け取っとくぜ」
「撮影中なら部長がずっと傍にいれるからね! 頼んだよ、部長!」
「任せてほしいッス」
「南雲。あと少しの間、よろしく頼む」
千秋が素直に頭を下げる。それを見た鉄虎たちは、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした。暫く経っても返事がない様子に顔を上げた千秋は、顔を見合わせて笑う四人に小首を傾げた。
「な、なんだ?」
「いやあ……まさか千秋さんの口から頼み事が出るなんてと驚いてなあ?」
斑は少々面食らったように、しかし口元を綻ばせながら感嘆を漏らす。
「え……」
そう言われ、千秋は口をぽかんと開き固まった。
罪悪感は、未だにある。これは千秋の性質上、消えてなくなることはないんだろう。そんな千秋が、自分のことに関して、他人に、しかも後輩に頼み事をするなんて。斑たちが驚くのも無理はないし、千秋自身それに気づき唖然とした。
「強引に言わせてきちまった自覚はあったんだが、ようやく守沢も人を頼ることを覚えてくれたようで嬉しいぜ」
「僕たちにもいつでも頼ってほしいよ! 何かあったらすぐ駆けつけるからね!」
それでも、三人はそれがとても嬉しいことのように千秋の肩を叩いた。妙なこそばゆさが肌を擽る。張本人の鉄虎を見遣ると、目を細めて頷いた。その表情が、ひどく大人びて見えた。
「こちらこそ。よろしくお願いするッス」
鉄虎が右手を差し出した。反射的に、千秋は左手を伸ばそうとし──そこでハッと気づき、右手で握り返した。千秋は羞恥で顔に熱が集まるのを感じた。しかし、鉄虎はそのことに何も触れなかった。
その後も和気藹々と話を続ける四人を横目に、千秋は一人物思いに耽っていた。
ストンと、胸に落ちてきた感覚。まるで、胸にぽっかり空いていた穴にパズルのピースがはまったような。
鉄虎に千秋自身のことを頼ってしまった理由。千秋はついに自覚してしまった。
罪悪感とともに心に募る想い。妙な気まずさと陶酔感の正体。左手を燻るあの温もり。
そこに行き着く答えなんて、鈍い千秋にだって分かる。
その誘惑から、千秋は無意識に、鉄虎の身に降りかかるリスクよりも、恋人のように過ごせる時間を選び取ってしまった。
このままじゃ、いけない。優しさに、心地よさに甘えてしまっていては、本当に守りたいものすら守れなくなってしまう。
千秋は根っからのヒーローだ。自己犠牲を厭わず、どんな悪党でも最後まで善性を信じ抜く。手を取り合って大団円、無謀だと知りつつもそんなハッピーエンドを本気で目指す人だ。
過激になりつつある後輩からのメール。今までは「今何しているんですか?」等、内容としては軽いものが数十分おきに送られてくる程度だった。しかし、最近はそれに加え、捨てアドから届くメールも増えている。彼が犯人だという確証はないが、長たらしく綴られた嫉妬と憎悪が孕んだ文章に、千秋は途中で読むのを止めた。それ以降は、捨てメールは見ないようにしている。まともに読んでしまえば、気が狂ってしまいそうだった。それ程までに、彼のエスカレートした行動は、もう引き返せないところまで来てしまっている。
千秋は心に誓う。何が何でも、巻き込んでしまった人たちは守らないといけない。今一番危険なのは、間違いなく鉄虎だ。一番近くで、傍にいれる自分が、鉄虎を守らなければ。
だから、おねがい。ちゃんと自分の使命は全うするから。あと少しだけは、夢を見させて。嘘でもいい。偽りの関係でもいいから。もう少し、甘美な誘惑に溺れさせて。
鉄虎たちは油断していた。千秋がこの日、自ら頼ってきたことの高揚に浮かれていた。きっと、もし今後も本当に困ったことがあったら、再び頼ってくれるだろうと錯覚してしまった。
千秋が心の内で見当違いの決意を固めているとも知らずに。
***
「──あなた、なんだろう? 店員さん。この一連の事件の黒幕は……」
フロアランプが怪しく灯る薄暗い照明の下。新米警察は、顔に影を落としたバーテンダーを見つめた。
「馬鹿だね、あんた。何にも知らずに、俺に全部話しちゃうんだからさ。本当に、馬鹿正直で、真っ直ぐで、眩しくて……そういうところが嫌いで、大好きだったよ──昔から」
その表情からは、感情が読み取れない。でも、耳に馴染むその声に、ひどく安心感を覚えてしまっていたのはいつからだっただろうか。
「何者なんだ、あなたは……?」
「はは、忘れちゃった? まぁ、しょうがないか。あんたは、あの事件以来、トラウマで全て忘れちゃったんだもんね」
「あの事件……?」
彼が何を言っているのか全く分からない。犯人の戯言に耳を傾けるなんてどうかしている。それなのに、この妙な胸騒ぎはなんだ。口がカラカラに渇いて、今にも耳を塞ぎたくなるこの衝動はなんなんだ。
いつも黒いマスクで覆われていた彼の口元が露わになる。顎にできた縫い傷を目にしたとき、突如頭をガツンと殴られたような感覚が襲った。
「でも、俺は一度たりとも忘れなかったよ。両親の殺害を隠蔽した警察への恨みも、あんたへの愛情も、全部。ねぇ──お兄ちゃん?」
色素の薄い橙の瞳に射貫かれる。刹那、走馬灯のようにこれまでの記憶が一気にフラッシュバックした。キャパシティを超える情報の波に、一人気を失う。バーテンダー、もとい実の弟は、それを優しく抱きとめ、愛おしそうに見つめていた。
「カーット! いやぁ、文句なしの演技だったよ!」
シリアスなムードから一転、監督の合図が入り、現場は一気に和やかになる。撮影も終盤に差し掛かり、残すはクライマックスだけとなっていた。
「明日にはクランクアップできそうだね。それもこれも、みんながよく動いてくれるからだよ」
「ありがとうございます! 監督の指揮が的確だからですよ」
「おっ千秋くんは持ち上げるのが上手いねぇ。鉄虎くんも、イメージぴったりの演技だったね。やっぱり僕の見る目は間違ってなかったよ」
「お眼鏡にかなってよかったッス! 最後まで気を抜かずに行くッスよ!」
「ちょっとちょっと、監督サン、ボクのこと忘れないでくださいよぉ?」
「わっ⁉」
意気揚々と語る監督に、割って入った後輩は、千秋の背後から抱き着いた。千秋は一瞬肩を揺らす。鉄虎は眉間に皺を寄せ、牽制するようにそちらに鋭い視線を向けた。
「ハッハッ。忘れてなんかいないさ。みんなのおかげで最高のドラマになりそうだよ。放送日が今から楽しみだ」
監督は「今日はもうあがっていいよ」と言い残し、他のスタッフにも声をかけに行った。
残された三人の間に、張り詰めた空気が流れる。睨みを利かせる鉄虎を煽るように、後輩は千秋の身体のラインを厭らしくなぞった。
「うわ、千秋センパイほっそ~い! ……こんなの、簡単に折れちゃいそう♪」
「ぅ、ひっ⁉」
するりと腰を撫でられ、上擦った声が出る。鉄虎は、プツンと糸が切れた音がした気がした。痺れを切らし一歩前に出た鉄虎より先に、口を開いたのは千秋だった。
「は、早めに撮影が終わってよかったな! 衣装のままではよくないし、先に着替えに行こう!」
スタッフが大勢いる前で揉め事が起きてしまってはいけない。千秋は後輩の腕を振り解いて、早足でスタジオを出た。そして一目散に楽屋へと向かう。
後輩はその背を残念そうに目で追い、鉄虎にだけ聞こえる声で、ねっとりと呟いた。
「ふふっ……千秋センパイ、カワイイ声♪ もっと聴きたいなぁ……♡」
「──っ‼」
カッと頭に血が上る。しかし、鉄虎の反応なんて気にも留めず、後輩は軽い足取りでスタジオを出て行く。千秋が危ない。焦燥に駆られた鉄虎は、急ぎ足で千秋のいる楽屋へと向かった。
コンコンコンッ。勢いのあるノックと共に、千秋の返事を待たずして扉が開く。千秋は一瞬件の後輩がやってきたのかと振り返ったが、入って来た鉄虎を視界に入れると、胸を撫で下ろした。
「南雲か……びっくりした。せめて返事を聞いてからあけるべき……だ、ぞ……?」
再び着替えを再開しようと背を向いた千秋に、ふっと影が差し掛かった。背後から伸びてきた腕が、千秋を包み込む。千秋の背に鉄虎の熱い吐息がかかった。
「な、ぐも……?」
途端、千秋の心臓が悲鳴を上げる。先程の後輩とまったく同じことをされているはずなのに、言い表せない幸福感が千秋の中に満ち満ちた。
なるべく気取られないように、千秋は身を捩って未だ表情が窺えない鉄虎の方に視線を投げた。
ぎゅう、と鉄虎の腕がいっそう強く締めつける。少し苦しくて、でも胸を刺す痛みに比べたらどうってことなかった。
「すんません。……でも、もうちょっとだけ。こうしてて、いいッスか?」
窄んでいく声。千秋の肩に鉄虎が頭を埋める。少し硬い髪が千秋の首筋を擽った。
鉄虎が何を考えているのかは分からない。そこにどんな想いが込められているのかも。それでもよかった。まだ知りたくない。偽りでもこの幸せに浸っていたかった。
「……あぁ」
千秋は、鉄虎の腕に手を重ねた。触れているところ全部があつい。熱くて、苦しくて、溶けてしまいそうだ。千秋の心臓が、言葉にならない想いの丈を懸命に訴える。触れているところから千秋の気持ちがバレてしまいそうだった。
帰り道。公園の砂利道に、二つのシルエットが並んだ。伸びた影が三本の腕を揺らす。そこに言葉はなかった。ただ互いの体温だけが存在証明だった。
***
その後も撮影は順調に進み、スタッフに見守られながらクランクアップを迎えた。第一話の放送日を控え、今日はスタッフ一同による打ち上げが華々しく行われた。
「お疲れ様でしたー!」
「寒くなって来たから、若者は早く帰るんだよ~! おじさんたちの二次会に巻き込まれないうちにね!」
「ははは。気をつけるッス!」
「ありがとうございます! お先に失礼します!」
打ち上げを終え、スタッフの大半が二次会へと夜の街に消えていく。晩秋の夜は少し冷える。季節の変わり目は体調を崩しやすいから気をつけなければ、と千秋は上着の前を閉めた。
「じゃあ、俺たちこっちなんで。お疲れ様ッス」
同じく早々に解散した後輩に、鉄虎が頭を下げる。後輩は引き止めてくるかと思いきや、意外にも軽い口調で受け流した。
「は~い。鉄虎クンも、お疲れサマ~♪」
お手本のような笑みを浮かべて、後輩はひらひらと手を振る。いろいろあったが、撮影が順調に進んだのも、彼の才覚が一躍買ったことは間違いない。そこから学ぶことも多かったし、彼の演技力に引っ張られる形でのびのびと演じられたこともまた事実だ。純粋に、役者としての素晴らしい才能があることを千秋は認めていた。
「今までありがとう。一緒に共演できてよかったぞ!」
千秋がお礼を言うと、後輩は目を丸くした。鉄虎に至っては、呆れて溜息をついてしまう程だった。
「……ほんっと、千秋センパイって……」
後輩は何か言いかけて、しかしそこで口を閉じた。先程までの綺麗な笑みが嘘のように崩れ、後輩は眉を下げて笑う。何となく、その顔の方が好ましいと千秋は思った。
「ねぇ、千秋センパイ。やっぱりボクと付き合う気ないですか?」
お茶らけたように、でも確かに熱が滲んだ声色で後輩は千秋を見つめた。二回目の告白。あのときは、驚きで戸惑いながら断ってしまったけれど。今の千秋には、断る明白な理由があった。
「……すまん。お前の想いには、答えられない」
頭を下げる。後輩の瞳が微かに動いた。その視界の端に、忠犬よろしく待っている少年を映す。陰に隠れて爪を研ぐ少年の、嫉妬と独占欲に燃えた眼光が肌を刺す。それを受けた後輩が怯んだかと言えばその逆で──鉄虎と目が合うや否や、歪に口角を捩じ上げた。
「……ですよねぇ。あ~ぁ、残念だなぁ」
──これが、最後のチャンスだったのに。
そう呟く後輩の表情のない顔に、鉄虎は急激に悪寒が駆け抜けた。反射的に千秋の前に飛び出し、後輩と千秋の間に割って入る。
「な、南雲⁉」
「…………」
千秋を背に守りながら、無言で後輩を見つめる。しかしその時にはいつもの仮面のような笑顔に戻っていて、わざとらしくすっとぼけるだけだった。
「やだなぁ、鉄虎クン。そんな怖い顔しないでよ。最後の告白くらい、ゆっくりさせてくれたっていいでしょ?」
カラカラと笑う後輩は、確かにいつも通りだ。だが、妙にざわつくこの胸騒ぎはなんだ。胃を競り上がって止まない悪心はなんだ。
後ろの千秋に視線を投げる。千秋はただ突然の鉄虎の様子を心配そうに見つめている。今一番の異分子は自分なのだと突き付けられたように感じた。
警鐘は鳴りやまない。それを誤魔化すように、鉄虎は深呼吸をした。大丈夫。何かあっても、自分がこの人を守ればいい。そのためにここにいるのだから。
「すんません。それはできそうにないッス」
千秋の手を掴み、引き寄せる。腰に回した腕が三角形の空白を残し、確かに細いなと思った。
「演技、勉強になったッス! お疲れ様ッス!」
体育会系らしい挨拶で短く頭を下げると、鉄虎はそのまま千秋の手を引いて足早に去っていく。
「お、お疲れ様!」
千秋は鉄虎に引きずられる形で、慌ててその後を追った。
その様子を見送りながら、後輩はひどく楽しそうに表情を歪ませた。
「鉄虎クンじゃあね。千秋センパイ、またね♪ ……って聞こえてないかぁ♡」
「な、南雲! もう、寮だから……」
振り返りもせず真っ直ぐ突き進む鉄虎に、千秋は声をかけた。気づけば星奏館はもう目の前で、とっぷり日が落ちた寮からはこうこうと明かりが灯っている。
「あ……早いッスね」
漸く我に返った鉄虎は、辺りを見渡した。すぅと冷えた空気が喉を通り抜け、木枯らしが葉を揺らす音が耳を撫でた。
「今日はいつもの現場より近かったからな。それに、まるでジョギングをしているくらいのペースだったしな」
「うっ……。すんません、何か気が急ってて……。これで最後だったのに……」
最後。最後って、なにが。
それは、もう寮の目の前だと言うのに、未だ繋がれたこの手のこと?
それとも、この恋人のような甘くこそばゆい空気のこと?
「……そうだな」
分からない。分からないけれど、全てが惜しいのは千秋も同じだったから、頷いた。
冷たい風が吹き抜ける。紅に染まった葉がひらひらと舞い落ちた。気づけばあんなに高らかに奏でていた秋の虫たちの演奏会は千秋楽を迎えていたらしい。洛陽のせいにした鉄虎の顔はやっぱりきらきら眩しくて、今度は月明かりのせいにしたかった。
季節は巡る。夢は醒める。この幻想も、そうして終わりを告げようとしていた。
たぶん。なんとなくだけど。
鉄虎も千秋と同じ気持ちなんじゃないかと思う。そうだったらいいなと願う。
でも、それを口に出すには、お互い勇気が足りなかった。
奇跡のような時間だったからこそ、言葉にしたら最後、全てが消えてなくなりそうな気がした。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。夜の冷え込みが増す。早く暖かい室内に入るべきなのに、まだこうしていたいと願った。触れ合う互いの手だけが、場違いなほど温かかった。
しかし、終わりは訪れる。
「守沢先輩か?」
突然声をかけられ、驚きその手を離してしまった。あっ、と思った頃にはもう遅く。何事もなかったかのように、鉄虎のその手は上着のポケットの中へと吸い込まれていった。
「お、乙狩か。今帰りか?」
「そうだ。守沢先輩たちも今帰りだったんだな」
「押忍。お疲れ様ッス」
アドニスがゆったりと二人に近寄る。もしかしたら見られていたかもしれないと思ったが、アドニスは何も言わず柔和に微笑むだけだった。
「二人とも鼻が赤いぞ。夜は冷える。早く中に入ろう」
アドニスに促され、三人は星奏館の中へと入った。いつもは賑やかな共有ルームも、この時間は流石に閑散としている。階段を上って千秋たちの寮室の前に着くと、既に帰寮していた真が出迎えてくれた。
「あれ、乙狩くんも一緒だったんだ。みんなおかえりなさい」
「あぁ。偶然そこで会ったんだ」
「ただいま。思ったより早く帰れてよかった」
上着を脱いでアドニスが部屋へと入っていく。鉄虎はそれを見届けると、「じゃあ失礼するッス」と残して自室へと向かっていった。
「あっ……」
何か、言わないと。だってまだ、何も伝えられていない。今までのお礼だって、ぜんぶ。
でも。言ってしまったらどうなる? 本当に全部、終わってしまう?
鉄虎の背中がどんどん遠くなっていく。鼓動が加速する。しかし千秋の足はそこから一歩も動かなかった。
千秋も入って来るかと戸を開けて待っていた真だったが、呆然とその場に立ち尽くす千秋を見て、静かに息を吞んだ。あまりにも見慣れない千秋の表情に、口を挟むのは野暮だと思った。しかしそこで戸を閉めるのも躊躇われ、真はアドニスに目配せをした。
やがて鉄虎の姿が見えなくなった頃。千秋は小さく息を吐いて部屋に入った。真もアドニスも何も言わなかった。ただ、いつも通り接した。それが千秋の心をひどく落ち着かせた。
これにて、千秋のストーカー騒動は一件落着。撮影が終わってしまえば、あんなに頻繁だったメールもぱたりとなくなった。やはり最後の日にきっぱりとお断りしたことが幸いしたのだろう。これで諦めてくれたならそれでいい。折角才覚のある役者なのだ。こんなところで人生を棒に振ってしまっては勿体ない。
そうして千秋の日常に平和が訪れた──はずだった。
そう、それは千秋がオフの日のことだった。その日は真もアドニスも帰宅が夕方を過ぎると言っていたため、自室で一人のんびり過ごしているときだった。
ブーッとスマホのバイブレーションが机を揺らす。何か仕事の連絡だろうか。千秋は読んでいた本に栞を挟み、スマホを手に取った。
見覚えのないアドレス。奇怪な字列の並びは、いつぞやかの捨てメールを彷彿とさせられた。件名はない。そこには、一枚の写真と、本文がひと言綴られているのみ。
それを目にした途端──さぁと、千秋の顔からみるみる血の気が引いた。
ハンガーに掛けてあった上着を引っ手繰ると、スマホをポケットに突っ込んで飛び出した。階段を駆け下りて、一直線に玄関へと向かう。偶然か必然か。尋常じゃない様子の千秋の姿を目にしたものは、一人もいなかった。
***
時は遡り、二か月前。千秋のいない寮室に、手狭そうに身を屈めた男たちが顔を付き合わせていた。
「で、調査の結果、どうだったかあ?」
中央に座った斑が、向かいの真に促す。真は頷くと、ポケットから小さな機械を取り出した。
「盗聴器はこの一つです。守沢先輩の上着のフードの中に入ってました」
斑はそれを受け取ると、その全貌を確認し、片手で握り潰した。
「他は何もなかったのか?」
胡坐に片肘を立てた紅郎が口を挟む。真の隣に座ったアドニスが、首を横に振った。
「部屋中探してみたが、カメラの類は見当たらなかった。恐らくはこの盗聴器だけだと思う」
流石にセキュリティ完備された寮内にカメラを設置するのは無理だったのだろう。斑はつまらなさそうに相槌を打った。
「まあ、想定の範囲内だなあ。ありがとう、真さん、アドニスさん」
斑がお礼を言うが、真とアドニスの顔は晴れない。神妙な面持ちのまま、二人で顔を見合わせると、真は「それともう一つ」と話を切り出した。
「守沢先輩、部屋に一緒にいるときも妙にそわそわしていて……。やたらスマホを気にしているようでした。通知は鳴っていなかったので、気のせいだといいんですけど……」
「スマホ? 連絡を待っているってことかな?」
一彩が身を乗り出す。斑はふむ、と顎に手を置くと、そう言えばと千秋の言葉を思い出した。
「いや、その逆だろうなあ。連絡が来るのに怯えているんじゃないかあ?」
「そういや、最初に守沢が、『遅い時間に独りでコンビニに行ったら危ない』みたいなメールが来たって言ってたな」
「でも通知は鳴っていないんだよね?」
「通知は敢えて切っている可能性もあると思います。最近守沢先輩の返信が遅い気がするので」
そこで五人はもう一度顔を見合わせた。ひとつの疑惑が浮上する。
「……とりあえず、アドニスさんは、普段の千秋さんの様子を見ていてくれるかあ? 真さんは、情報収集と相手の行動履歴を調べてくれると助かる」
「わかった」
「了解です。よくSNSを更新する方なので、調べやすいと思います」
「一彩さんと紅郎さんは引き続きツーマンでの尾行を頼む。一人が護衛に付いていると思わせ、その周辺を探ってくれ」
「おうよ」
「気配を消すのは任せてよ!」
頼もしいメンバーに、斑は満足げに頷いた。五人の想いは一つだ。ただ何者にも囚われず、普通に幸せな日々を送って欲しい。そうであるべき二人なのだから。
ヒーローの知らないところで、別のヒーローが暗躍する。ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために。根差した信念は伝播する。今日も大切な誰かを守るために。
***
雑誌の撮影終わり。茜色に染まるアスファルトを、鉄虎は足早に蹴った。別に急ぎの用事があるわけではない。でも、ずっと胸の奥で這い回る蟠りが、鉄虎の心を駆り立てた。
胸騒ぎがする。それも、ずっと前から。何かを致命的に見落としているような焦燥感。真っ赤な空と同じ信号を待ちながら、鉄虎は足踏みした。そわそわ落ち着かない心を、杞憂だったと早く一蹴して欲しかった。
しかし、嫌な予感ほど当たるものだ。
「ただいまッス!」
帰寮して声を張り上げる。いつもなら誰かしらが挨拶を返してくれるものなのに、今日は返事がなかった。決して人がいないわけではない。むしろ、見慣れたメンバーが共有ルームには集まっていた。
斑、紅郎、一彩に、真とアドニス。顔を付き合わせて話し込んでいる五人は、鉄虎が帰ってきたことにすら気づかない。何を話しているのだろうと近づくと、そこから聞こえてきた言葉に鉄虎は耳を疑った。
「そうなんです……! 守沢先輩が、ずっと帰ってこなくて……!」
真の切羽詰まった声が耳を劈く。アドニスも眉間に皺を寄せ言葉を繋いだ。
「最初は出掛けているのかと思ったが、財布も机に置いていっているようだった」
「それに、いつもなら出掛ける時は連絡をくれるんです。それなのに、連絡がないどころか、寮室の鍵さえかけてなくて……」
几帳面な千秋にしては珍しい。それが余計に、真たちを不安にさせた。
「それで、今も連絡が取れねぇんだよな?」
紅郎の問いかけに、アドニスがもう一度電話をかける。しかし、結果は同じだった。
「十分おきに試みているが、何度電話をしても圏外になってしまう」
五人の顔が曇った。現状はお手上げ状態。音信不通の千秋、目撃情報もなし。これではどうすることもできない──
「……しょうがない。奥の手を使うかあ!」
──常人ならば、であるが。
斑は徐にパソコンを取り出す。真も眼鏡を光らせ自身のパソコンを立ち上げた。
「これは星奏館の監視カメラの映像だ。英智さんに事前に話を通しておいて功を奏したなあ!」
斑が活き活きと笑う。パソコンに星奏館の正面玄関が映し出され、倍速でログを辿っていく。
「あっこれだと思うよ!」
動体視力のよい一彩が一瞬も見逃さず目で追い、十四時のところで記録を止めた。
「これが最後の記録か。かなり慌てて飛び出していったな」
「それが分かれば十分だ。真さんの方はどうだあ?」
「彼は今日お昼まで○×局のラジオの生放送に出ていたようなので、最寄りは○○駅ですね」
「だとすると、あいつがよく帰りに寄るネカフェが近いんじゃねぇか?」
「そこで捨てアドを作ってメールを送った可能性が高いなあ」
「そうですね……あっ、確かに目撃情報があります! キャップにグレーのパーカーだそうです」
「その服なら見覚えがあるよ。尾行していたときに着ていた服と同じだね!」
「そのネカフェの監視カメラは見れるか?」
「桃李さんのところの子会社だったから、アクセス権は得ているぞお」
とんとん拍子に事が進んでいく。しかもみんないつでも動ける準備をしていたと言わんばかりに。千秋がピンチであるという情報しか掴めていない鉄虎は、それを唖然と見守るしかない。
「カメラ入れました! 十三時過ぎにキャップを被った人が個室ブースに入ってます」
「個室の映像を拡大できるか? パソコンの文字が見えづらい」
「解像度上げるね。……これでどう?」
「ウム、これなら読めるよ! えっと……『○○駅向かいの、第一ホテル五〇三号室に一人で来い』と書いてあるよ」
「写真も添付されているな。これは……南雲か?」
「えっ?」
突然名前を呼ばれて、素っ頓狂な声が出る。そこで五人も鉄虎がいたことに気づいたらしい。真に促されて、パソコンを覗き込む。そこには。
「俺……ッスね。いやでも、これ……」
添付された写真。そこには、鉄虎らしき人物が、手足を縛られてた状態で転がされていた。確かにこの顔は鉄虎だ。それは間違いない。だが。
「十中八九、合成だろうなあ」
斑が口を挟んだ。虚を衝かれたように鉄虎は逸る心臓を押さえた。猛烈な吐き気と行き場のない怒りが、沸々と足の底から駆け上がっていくのを感じた。
もう一度パソコンを見る。ホテルに来いというメール。添付された自分と思しき写真。身支度もそこそこに飛び出していく千秋。
そこから導き出される結論なんて、一つしかない。
バッ、と。
疾風の如く鉄虎は飛び出した。呼び止める紅郎たちの声はもう耳に入らない。
煌びやかな街並みが、残像を残して後ろへと流れていく。通りすがる人たちが何事かと振り向いた頃には、豆粒のように小さくなった後ろ姿が見えるだけ。気になるのはほんの一瞬で、また前を向いて歩き始めてしまえば、何事もなかったかのように元の日常に戻っていく。
鉄虎と千秋の関係も、きっとそうなんだろう。夢のようだった。一時でも千秋の一番近くを許されたような気がした。自分が千秋の特別であると錯覚した。
終わらせるのが怖かった。言葉にさえしなければ、ずっと夢の中に浸っていられると思っていた。でも、現実はきっとそうじゃない。時が経てば、記憶は薄れていく。そうしてまた、元通りになっていく。
守ると誓ったんだ。大切なひとを守れるくらい強くなると決めたんだ。それなのに、自分が守られてどうする。ひとり危険な目に合わせてどうする。このままじゃ、また同じことの繰り返しだ。
息が苦しい。脇腹が痛む。上着が邪魔だ。熱くて鬱陶しい。額に滲む汗が目に沁みて、ツンと鼻の奥が詰まった。それでも我武者羅に走った。一分一秒が惜しかった。時間よ止まれと願いながら、一直線に駆けていく。
その目に映るのは、ただ一点のみ。
***
「ほんっと、馬鹿ですよねぇ……♪」
椅子の背に頭を乗せた後輩は、楽しそうに笑う。夜景が映えるホテルの高層階は、しかし厚いカーテンに閉ざされそれを拝めることはない。手足を縛られた状態でベッドに転がされた千秋は、歯を食いしばった。
「……もう、やめるんだ。こんなこと、お互いのためにならない」
諭すように語りかけても、後輩はまるで聞く耳を持たない。それどころか、邪心の滲んだ目で愉快に体を揺らすだけだ。
「お互いの? ふふっ、ボクはこれでも結構楽しんでるんですよ。千秋センパイのこ~んな姿が見れるなんて、ね!」
「なっ……⁉」
声と同時に、千秋の着ていたトップスを刃物で器用に引き裂いた。ベッドの柵に手を縛られた千秋は、身動きが取れない。
「あんな合成バレバレの写真で釣れてくれるなんて、ほんと爪が甘いですよねぇ。まぁ、ニセモノと分かっていても来るしかないですもんね? ヒーローさんは♪」
彼のスマホに、メールに添付されたものと同じ写真が映し出される。千秋は言葉を詰まらせた。
最初から、怪しい、これは罠だと思っていた。でも、万が一のことを思ったら、行かないわけには行かなかった。最悪、自分が傷つく分にはそれでいい。それで大切なひとが守れるのなら、痛くも痒くもない。
外気に晒された肌に、ねっとりと視線が這う。卑しく弧を描く瞳から逃れるように身を捩った。
「……なんで、俺だったんだ? 言っては悪いが、俺たちは共演するまでまったく関わりがなかっただろう?」
少しでも時間を稼ぐように言葉を紡ぐ。何とかこの事態を収束せねば。千秋だって、みすみす捕まりに来たわけではない。できることなら、この場を丸く収めたいと思っていた。
「え~? 好きになることに理由なんていります?」
クスクスと笑う後輩はあっけからんと答える。風で飛んでいきそうな程軽い言葉。そこに本心なんて露も混じってない。
「冗談はさておき。千秋センパイは知らなかったかもしれないけど、ボクはずっとセンパイのこと見ていたんですよ。特撮番組とかでね」
「! 特撮が好きなのか?」
馴染みの話題が飛び出し、千秋はそこに食いついた。会話の糸口が見えた。これなら下手に相手を刺激せず会話が繋げられるはずだ。
そう安堵したのも束の間だった。
「大好きですよぉ♪ とくに、ヒーローが負けそうになるシーンとか……♡」
恍惚とした表情を浮かべる後輩に、千秋はゾッとした。みるみる表情を失う千秋に、後輩は興奮を隠さず舌なめずりをした。
「そう、その表情! たまんないですよねぇ。ゾクゾクしちゃう……♡」
じりじりと後輩が距離を詰める。ベッドのスプリングがぎしりと軋んだ。真っ黒な瞳孔が大きく開かれ、闇底へ千秋を蝕んでいく。
駄目だ。これは、話が通じない。考え方が、根本的に違う。
完全に逃げ場を失った千秋は、迫りくる魔の手に耐えるしかない。大丈夫、痛みには慣れている。撮影だってもう終わった。多少傷が残っても、自分が黙っていればバレないはず。
その考えが、既に甘かった。
「ねぇ千秋センパイ。ボク、ず~っと考えてたんです。人を憎めないヒーローの具現化みたいなあなたが、どうやったら屈服するのかなって」
「っ、」
後輩がつぅと千秋の脇腹をなぞった。少しくすぐったい。いや、それよりも触り方が、なんか。思わず声が出そうになり、下唇を噛んでやり過ごす。
「痛みじゃ面白くないですよねぇ。ヒーローは逆境に強いし、そういうあからさまなピンチじゃ耐えられちゃいますから。ボクはね……それよりもっと絶望した顔が見たいんです」
カチャカチャと腰の辺りから金属音がした。視線を下に動かすと、後輩は慣れた手つきで千秋のベルトを外し、徐にズボンを押し下げた。途端、暗闇に似合わない真っ赤な下着が露わになる。
「なっ……⁉」
驚いているのも束の間。後輩の手に握られているピンク色の動くモノ。それが何かなんて、如何に性に疎い千秋でも分かる。
「あっはは、イイ反応♪ やっぱり、ヒーローを絶望させるには、苦痛を与えるよりも、快楽に溺れさせるのが一番ですよねぇ♡」
「ま、まて……」
千秋の頬に一筋の汗が伝った。震える声。にじり寄る後輩に少しでも距離を取ろうと仰け反る。それが逆に苛虐心を煽っていることに千秋は気付かない。
「大丈夫ですよぉ。どうせすぐにキモチよくなりますから♡ ふふふ、楽しみだなぁ……心では嫌がってるのに、キモチよくて声が出ちゃって、罪悪感と快楽から泣きじゃくる千秋センパイ♡」
「──っ!」
ぞわり。背筋に悪寒が駆け抜けた。うっとりと頬を染めながら不敵に笑う後輩に、千秋は言葉を失った。ごつんと千秋の頭がベッド柵に突き当たる。もう逃げ場はない。だらりと、千秋の身体から力が抜けていく。
「あれ。抵抗しないんですかぁ? もうちょっと嫌がってくれないと面白くないのに♪」
後輩のひやりと冷たい手が千秋の腹筋に触れる。弧を描きながら撫でまわし、臍、腰と愛撫していく。肌が粟立つ。それすらお構いなしに、後輩は千秋の下腹部へと顔を埋めた。そして。
「ひぁっ……⁉」
べろりと。生温かい舌が千秋の腹部の溝をなぞった。間抜けな声が出た千秋を見て、後輩は張り裂けそうなくらい口角を上げて不気味に笑った。そのまま、千秋の弱いトコロ、下半身へと手が伸びていく。
こわい。いやだ。それと同時に、もう取り返しがつかないことを悟った。
可愛い後輩だと思っていた。素直で、演技力もある期待の星。それなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。人を巻き込むだけ巻き込んで、結局何も解決できなかった。最初から根本的な趣味嗜好が世間の倫理から外れていたと言えばそれまでだが、だからと言ってその手を犯罪に染めるような真似はしてほしくなかった。それを止められなかったのは、自分の落ち度だ。
左手が震える。空を掴んで、項垂れた。
眩しく笑う鉄虎の顔が浮かんだ。夕焼けでも、朝焼けでも、月明かりでもない。只々いつも、千秋には眩しくて、綺麗で、愛おしくて。真っ直ぐ向けられる優しさが、温かくて、心地よくて。
好きだったのだ。離れがたいと思ってしまった。叶うことなら、この時間が永遠に続けばいいと願うほどだった。
斑も、紅郎も、一彩も、真も、アドニスも、支えてくれたみんなも。忙しさも顧みず、いつも笑顔で寄り添ってくれた。嬉しかった。幸せだった。ここにいていいんだと思えた。みんなの優しさに甘えてしまった。そんな自分の弱い心が、最悪の惨事を引き起こしてしまった。
これはきっと罰だ。後輩は千秋が逃げ場のない状況に絶望したと思っているのかもしれないが、千秋の絶望はもっと他にある。守りたいものを守れなかったとき。目の前の人を救えなかったとき。ヒーロー失格だと思ってしまったとき──正しく千秋は今、絶望の淵にいた。
静かに目を閉じる。現実から目を背けるように、シャットアウトする。
(……なぐも、てとら)
愛しい名前を反芻する。今から行われるであろうことを予期して、脳裏にその姿を描いた。目の前の彼がそうであればと嘯いて。
瞬間。
鈍い音が部屋に響いた。
千秋の上から重みが消える。
次いで聞こえる足音。誰かの呻き声。そして。
「──この人に、触んじゃねぇッスよ」
低く、唸るような声。でも、その声を、知っている。
恐る恐る目を開けた。そこには、先程まで浮かべていた面影が毅然と構えていた。
「な、ぐも……?」
震える声でその名を呼ぶ。鉄虎は鋭い視線だけこちらに向け、しかしその惨状を目の当たりにすると、血相を変えて千秋に駆け寄った。
「守沢先輩、無事ッスか⁉」
もたつく手で縛られた手足を解いていく。先程までの獰猛な獣のような様子から一変、今は小動物のように鼻を鳴らす。
「あぁ……平気だ。それより、どうやってここに……」
「フロントで部屋番号とそいつの名前を言ったら予備のカードキーをくれたッス」
「だから音もなく……いやそうじゃなくて、そもそもどうしてここが、──っ⁉」
視線の先。ゆっくり立ち上がった後輩が、狂気に満ちた表情でペティナイフを構える。千秋の手足の紐を解くのに夢中な鉄虎は気付かない。
「っ南雲、危ない!」
「っ──⁉」
千秋が声を張り上げるのと同時に、後輩が駆け出す。振り下ろされるナイフ。振り向く鉄虎。
──駄目だ。間に合わない。手足が縛られたままでは何もできない。心臓が破裂しそうな程悲鳴を上げた。さぁと血の気が引いていく。
後輩は歪に笑みを浮かべる。そして、鉄虎目掛けて一直線にナイフの切っ先が伸び──
「間一髪──いや、少し遅かったみてぇだな」
──その腕が、紅郎によって阻まれた。殺しきれなかった衝撃で、鉄虎の前腕にピッと赤い線が入る。少量の血がシーツに飛び散った。
「南雲‼」
嫌な汗が止まらない。激しい動悸が不安を掻き立てる。千秋は身動きままならない手足のまま、鉄虎の腕に顔を近づけた。血が滲んでいるが、傷口は深くない。紅郎が間に入ったおかげで、掠り傷程度で済んだようだ。
「だ、大丈夫ッスよ、これくらい。大将も、助かったッス」
「おうよ。遅くなって悪いな」
「何も考えずに突っ込んでいってしまうからなあ、鉄虎さんは」
「部長の足が速くて追いつくのが大変だったよ!」
紅郎に続いて、斑と一彩が顔を覗かせる。斑は鉄虎に代わって、慣れた手つきで千秋の手足を解放した。
紅郎は床に転がるアダルトグッズの数々を蹴飛ばした。どれも使用された形跡はない。衣服は乱れているが、どうやら未遂で終わったようだ。
「一先ず、守沢が一応は無事そうで何よりだな」
「そうッスね。間に合ってよかっ、た……ッス……?」
不意に。伸びてきた両腕に鉄虎は目を瞬かせた。手足が自由になった千秋は、その衝動のままに鉄虎を力いっぱい抱き締めた。
「も、守沢先輩……?」
当惑した鉄虎が、千秋の背に声をかける。常より速い自分と鉄虎の鼓動が共鳴する。温かい。生きている。ほうっと息が抜け、視界が霞んだ。
「無事で、よかった……。俺のせいでお前に何かあったら、俺は、俺は……!」
ぽろぽろと。涙とともに、不安がこぼれていく。鉄虎は一瞬瞠目して、でもすぐに眉を下げて笑った。
「……それは俺の台詞ッスよ。あんたに何かあったら、俺は自分を許せてないッス」
ゆりかごを揺らすように、鉄虎は千秋の丸い背をゆっくり擦った。安堵と後悔の色を滲ませながら、鉄虎は訥々と話す。
「あんたのこと、じゅうぶん分かっていたつもりだったんスけどね。頼られたのが嬉しくて、油断してたッス。……守沢先輩は、俺たちに被害が出ないように、一人で敵陣に突っ込んでいったんスよね。俺が捕まった写真を見て、自分のせいで巻き込んでしまったって思ってるんスよね?」
「……」
千秋は何も答えない。それを肯定だと受け取って、鉄虎は言葉をつなぐ。
「俺も同じッスよ。俺のせいで、守沢先輩を危険な目に合わせてしまったって焦ったッス。守ろうと思って、逆に俺が守沢先輩の弱みになってしまったんスね」
「っそれは違う! 違うぞ、南雲」
肩を掴み食い気味に答える。それを見て鉄虎は苦笑した。
「はは。あんたならそうやって言うと思ったッス。……でも、俺にもあるんスよ。こんな事態を招いてしまった、自覚が」
鉄虎は優しく千秋の手を解いた。徐に着ていた上着を脱ぐと、ふわりと千秋の肩に掛ける。そうして、後輩から千秋を隠すように立ちはだかった。
「それ、着てください。目に毒ッスから。……それに。これ以上、あんたの姿をこいつに見せたくないんで」
「え……」
鉄虎は千秋に柔和に微笑み──しかし目の前にいる男を視界に入れると、一変して鋭く睨んだ。一彩と紅郎に挟まれた彼は、二人に組み敷かれ、もはや身動き一つ取れない。
「言っとくッスけど。俺は同じヒーローでも、あの人みたいに誰彼構わず助けたりはしないッス。俺には俺の正義があるッスから」
表情を殺したまま、鉄虎は踵を鳴らして詰め寄る。地に顔をつけながら、後輩はわざとらしい笑みを浮かべた。
「許してほしいなんて思ってないよ? 鉄虎クンが現れなければ、とは思うけどねぇ」
「それは今の話ッスか? それともこれまでも含めての話ッスか?」
「もちろん、どっちも。分かってるくせに……♪」
「……まぁ、俺もあんたの神経を逆撫でした自覚はあるッス。こっちも虫の居所が悪かったんで」
後輩の前まで来ると、鉄虎は座って視線を合わせた。屈強な男二人に羽交い締めされているのに、今なお飄々とした様子を崩さない。
形は違えど、元を辿れば鉄虎と彼は同じだったのかもしれない。眩しい太陽に手を伸ばして、身を焼かれて。直視するには眩しすぎて、遠くから眺めていることしかできない。だから彼は、手に入らないならいっそこの手で壊したいと思った。
理屈は分かる。でも理解はしたくないと思った。だって鉄虎は、それでも寄り添いたいと、守りたいと誓ったのだから。
「きっと、守沢先輩は俺が思うよりも汚い世界を見てきて、その中で必死に藻掻いて生きてきたんだと思う。現実は上手くいかないし、夢が叶う人なんてほんの一握り。ピンチのときにヒーローが助けに来てくれることなんてない。それを知って尚、自分がヒーローになるって心に決めた人だって知ってるッス」
斑と紅郎が静かに目を伏せた。鉄虎のこれから言わんとすることが、手に取るように分かった。
「それくらい、綺麗で真っ直ぐな人だから。苦しい現実を知った上でも、清く美しくあれる人だから。……だから、これは只の俺のエゴなんスけど、」
言葉を区切るのと同時に、鉄虎は片手で後輩の両頬を鷲掴みにした。
「っ⁉」
途端、崩れる表情。その不細工な顔に、真正面から牙を剥いた。
「これからは、綺麗な世界だけ見ていてほしいんスよ。──あんたに、あの人の清廉な心は染められない。染まらせない」
気づけば、鉄虎の横には、上着で前を隠した千秋が座っていた。真っ直ぐ後輩を見つめる瞳は、いつもと同じ、慈愛に満ちた温かな眼差しだった。
「気持ちに応えられなくてすまない。でも、お前に大事がなくてよかった。話だけならいつでも聞くから……これ以上、犯罪に手を染めることはするな。折角立派な才能があるんだ。ちゃんと真っ直ぐ生きていれば、多くの人がお前を認め、評価してくれる。俺はそう信じているぞ」
「……千秋、センパイ……」
薄暗い室内の中。後輩は首を擡げる。闇に差し込む月明かりがチカチカ眩しくて、目を覆った。
綺麗事を並べた上っ面だけの言葉。純真で無垢で、反吐が出る。それなのに、どうしてこの人の言葉は胸を打つのだろう。
「あはは……ほんっとうに、馬鹿ですよねぇ……こんなの敵わないじゃん……」
後輩の瞳に薄い膜が張った。ぐしゃぐしゃに濡らした顔で呆れたように笑う。それが、最後に別れたときに見た表情と重なって、あぁやっぱりその笑顔の方がいいなと千秋は思った。
「……さて。一応は解決したということで、一旦俺に仕切らせてもらってもいいかあ? あんまり大人数が一つの部屋に集まっていると、騒ぎになりかねないからなあ」
おほんと咳払いをひとつ。静観に努めていた斑が口を挟む。空気を読むのが苦手な一彩も、待ち侘びたように口を開いた。
「ウム。一応はドラマの撮影の練習という提で話はしてあるけれど、噂が広がりすぎてはいけないからね。一旦場所を変えた方がよさそうだ」
「いつまでも被害者と加害者が同じ部屋にいるってのもな。それに、守沢のその恰好を何とかしてやるべきだろ」
「その点については抜かりないぞお。寮で待機してもらっていた真さんたちには既に連絡を入れておいた。千秋さんの着替えを持ってもうじきやって来ると思うぞお」
「相変わらず仕事が早ぇな」
千秋の知らぬところで矢継ぎ早に話が進んでいく。そして何やら話が纏まると、斑はくるりと振り返って千秋と鉄虎にこう告げた。
「ということで。ここから先は、俺たちに任せてもらえないかあ? 悪いようにはしないさ」
「何が『ということで』なのかさっぱりなんだが……?」
「俺はいいッスよ。早く守沢先輩を寮に帰してあげたいッスから」
「……だそうだが。千秋さんはどうだあ?」
「俺は……」
横目に後輩を見遣る。一方の彼は、もう千秋に視線を向けることはなかった。頭を垂れ、静かに判決を待つ罪人のようだった。
「……本当に、悪いようにはしないか?」
「勿論。相応の罰は負ってもらうが、千秋さんが危惧するような判決は下さないつもりだぞお」
斑は真っ直ぐ千秋の目を見てそう答えた。その顔を見てしまったら、千秋の答えは一つだった。
「わかった。よろしく頼む」
小さく頭を下げると、斑は満足そうに頷いた。紅郎も一彩も、その傍らで頼もしく聞き届けた。
丁度その頃に真たちが到着し、千秋は早速着替えて身支度をした。部屋を出て扉が閉まるまで、後輩は一度もこちらを見ることはなかった。なんとなく、もう分かっていた。きっと彼とは今後会うことはないのだろう。罪を犯した以上は、報いるべきだ。それが正しいことは千秋も分かっている。だから千秋も何も言わなかった。
バタンと重い扉が閉まる。それを見届けて、千秋は再び前を向いて歩き始めた。彼もそうやって歩いてゆけると信じて。
「……さて」
残された部屋で、斑は後輩に視線を落とした。手足を紅郎と一彩に縛られ、もう抵抗の余地はない。元より、既にそんな気力は彼から失われていた。
「千秋さんが甘いのは知っていたが、俺からしたら鉄虎さんも大概だからなあ。……どう落とし前をつけてもらおうかあ?」
項垂れた後輩の髪を掴んで強引に上を向かせる。表情こそは笑っているが、その眼は全く笑っていない。後輩の背に嫌な汗が流れた。
「……どうぞ、煮るなり焼くなり? どうせボクのしていたことなんて、全部筒抜けなんでしょ?」
「こう言っているし、とりあえず一発殴ってもいいかい?」
「気持ちは分かるが落ち着け。意外に野蛮なやつだよな……」
今にも殴りかかりそうな勢いの一彩を紅郎が止めに入る。もう少し止めに入るのが遅ければ既に拳が振り下ろされていたかもしれない。存外血の気が多いのだろう。
「既に重い一発は鉄虎さんが入れているからなあ。これ以上は千秋さんの望むところではないだろうし。俺も、示談で済むならそれが一番だ」
そう言って、背広のポケットから徐に一枚の紙を取り出した。長々と連ねられた文字の羅列を、斑は後輩の眼前に突き付ける。
「契約書だ。君には、これに同意してサインをしてもらう。簡単な話だろう?」
「は……」
ひくりと後輩の顔が引き攣った。確かに簡単な話ではある。だが、いったいその内容は。必死に目を滑らせ始めた後輩に、斑は簡潔に告げた。
「要約するとこうだなあ。その一、千秋さんや鉄虎さん、俺たちESの面々とは二度と関わらないこと。その二、事務所には俺たちとは共演NGだと伝えること。その三、君が行ってきたことは誰にも口外しないこと。その四、今後法に触れるようなことを起こさないこと。その五……」
まるで呪文を唱えるかのように、斑は契約書を見ずにすらすらと言葉を並べる。唖然としている後輩をお構いなしに話し終えると、「最後に、」と斑は言葉を付け加えた。
「契約に違反することがあれば──君の人生はもちろん、君の大切なご家族や友人たちがどうなるかなんて……言うまでもないなあ?」
悪人面をして楽しそうに笑う斑は、後輩よりよっぽど不気味に見えた。これではどっちが悪党なのか分からないくらいだ。引き気味の後輩を他所に、三人は淡々と話を続ける。
「あなたの過去の遍歴も勝手に見させてもらったんだ。今回が異常だっただけで、それ以外の事案が見つからなくて少し拍子抜けしたよ」
「それほど本気だったんだろ。恋は人を狂わせるって言うしな」
「おっ知った口ぶりだなあ? もしや紅郎さんも恋をしたことがあるのかあ?」
「茶化すな。お前もあるだろ。穢れなく真っ直ぐなやつに心を焼かれたことくらい」
「……そうだなあ。素直ないい子は、正直苦手だ」
目を細める。唯一分からない一彩だけが、純粋な疑問をぶつけた。
「? どうしていい子なのに苦手なんだい?」
「ははは、言わば一彩さんもその分類だなあ! 鉄虎さんも、千秋さんも。……俺には少し眩しすぎる」
「太陽みたいに眩しくて、温かいからよ。そりゃあ欲しくもなるし、近づきたくもなるよな。……結果、目を焼かれて狂っちまうやつがいてもおかしくねぇよ」
「……だから、ボクの気持ちも分かるって? それで示談で済ませてくれるの? 契約を飲んで真っ当に生きろ、だなんて。あなたたちに何のメリットもないじゃないですか」
後輩が口を挟んだ。幾ら何でも罪が軽すぎる。みすみす見逃してもらったようなものだ。訝しげに尋ねるが、三人はからりと笑い飛ばした。
「同情なんてしねぇよ。鉄が言ってたのと同じだ。俺もあいつらに、綺麗な世界で生きてほしいんだよ。それくらい報われるべきだろ、泥に塗れながらも努力を重ねてきたやつらだから」
「ウム。そのためにも、できれば異物を排除したい。僕たちにもメリットはあるよ」
「そういうわけだから、君は何も気にすることはない。どうぞ俺たちの知らないところで勝手にやってくれればそれでいい。そのための契約だ」
後輩の身を自由にする。そして目の前に契約書とペンを差し出した。有無を言わさない様子に、後輩は大人しくペンを取った。震える手で、太陽から離れ暗い地中で暮らす印を刻む。斑はそれを受け取るや否や、静かに踵を返した。契約は既に始まっている。知り合い以下、通行人と通り過ぎるかのように、三人は黙って何も言わずに部屋を去った。
静まり返った部屋に、嗚咽が響く。その声は壁を揺らして廊下にまで届いた。それが直接聞いた最後の彼の声だった。
***
迎えに来た真とアドニスとともに、鉄虎と千秋は帰路についていた。道中、心ここにあらずの二人に気を利かせ、本来喋り下手なはずの真とアドニスが会話を繋いでくれた。その心遣いに気づきつつも、千秋はやっぱり口を噤んだ。口を開いたが最後、余計な事まで言ってしまいそうだった。それは鉄虎も同じだったのだろう。相槌もそこそこに気まずい空気が流れた。
「……じゃあ、おやすみなさいッス」
鉄虎の声にハッと我に返る。いつの間にか寮室の目の前まで来てしまったようだ。真とアドニスが「おやすみ」と声をかける。しかし千秋が気づいた頃には、既に鉄虎はこちらに背を向けて歩き始めていた。
じわじわと胸から広がった鈍痛が体全体を蝕んでいく。この感覚を知っている。どんどん小さくなっていく背中に、いつかの光景が重なった。
「……守沢先輩、」
真はそこで押し黙った。隣を見ると真剣な面持ちでこちらを見つめるアドニスがいた。二人の揺れる瞳が雄弁に語る。──「いいんですか?」と。
分かっている。このままだと前の繰り返しだ。言葉にしなければ、きっと何事もなかったかのように、いつも通りの日常に戻るだけだ。あの甘美なひとときは、次第に思い出へと変わって、記憶から薄れていく。
それでいいと思っていた。だって、言葉にしたら最後、この幸せな夢から覚めてしまいそうだったから。朧げな二人の関係に、線を引いて浮き彫りにしてしまったら、もう何も誤魔化しが利かなくなってしまいそうだったから。
じくじくと絞めつける胸を擦る。そこからじんわり温かくなって、腕の中に閉じ込めた鉄虎の体温が蘇った。
駆けつけてくれて、嬉しかった。格好良かった。でも同時に、怖かった。銀に光る鋭い切先が鉄虎に向いたその瞬間、心臓が止まるかと思った。もし鉄虎に万が一のことがあったらと思うと、胸が張り裂けそうだった。
──そうだ。それに比べたら、今なんて。少しも痛くない。
「……行ってくる!」
声と同時に走り出した。真とアドニスは穏やかにそれを見送る。ただ一直線に、曲がり角に差し掛かった背を目掛けて追いかける。
ずっと怖かった。この関係に終止符を打つことが。だから逃げた。曖昧なままにしていれば、ずっと幸せな夢が続くのだと思い込んで。
でも。本当に怖いのは。
何もせずに終わることだろ。
「南雲―!」
共用廊下なんて気にせず、声の限り叫んだ。自室のドアノブに手をかけた鉄虎は、遠くから見ても分かるくらい大きく目を見開いた。
「守沢先輩……?」
鉄虎は何事かと立ち止まる。ようやく追いついた千秋は、息を切らしながら鉄虎の右手を掴んだ。もう離しはしないと心に誓って、強く、強く握った。
「少し、話さないか? ──聞いて欲しいことがあるんだ」
*
「どうぞ、お茶ッス」
「あ、あぁ。ありがとう」
目の前のローテーブルに麦茶が入ったグラスが並べられる。仕事で誰もいないと言う鉄虎の寮室にお邪魔した千秋は、借りてきた猫のように大人しくベンチソファに座っていた。鉄虎は、少し隙間を開けてその横に座る。ぎしりとソファが音を立てて揺れ、それだけで千秋は妙に緊張してしまっていた。
ずっと雲の上を歩いているような、体がふわふわして変な心地だ。シャボン玉のように考えが浮かんではまた消えて、頭の中をぐるぐるかき混ぜる。心臓は高らかにビートを刻んで、激しいロックを鳴らした。苦しいような、幸せなような。寂しいような、嬉しいような。ちぐはぐな感情に振り回されて、まるで壊れたロボットみたいだ。
本音を言うと、やっぱり気まずい。それはきっと、鉄虎も同じ気持ちだろう。でも、嫌じゃない。自分が自分じゃなくなるみたいで少し怖いけれど、でも決してこれは悪い感情じゃない。
「……ありがとう、いろいろと」
沈黙を破って、胸の内を明かす。鉄虎は小さく頭を振った。
「気にしないで欲しいッス。前にも言ったけれど、俺がやりたくてやっていることなんスから」
「それでも。ずっと、守ってくれてありがとう。傍にいてくれてありがとう。助けに来てくれて、ありがとう。……はは、本当に助けられてばっかりだったな」
「それを言うなら俺もッスよ。昔から守沢先輩には助けられてばっかりだったし、少しは力になれたならよかったッス。……流石に今日はひやひやしたッスけど」
「う……すまない。だが、それこそ俺の台詞だ。お前に、大事がなくてよかった……」
鉄虎の前腕に触れる。紅郎が現れるのがもっと遅かったらと思うとゾッとした。
「……俺の気持ち、少しは分かってくれたッスか?」
「え……?」
心配そうに腕を見つめる千秋の顔を鉄虎は下から覗き込んだ。熱を帯びる双眸が、千秋の顔を照らした。
「俺も怖かったッスよ。守沢先輩を失うことが。あんたを傷つけ哀しませる何かから、守るって決めたのに。優しいあんたじゃ倒せない敵でも、俺が倒して救ってやるって誓ったのに。大切なひとすら守れないなら、俺は一生自分が許せない」
隙間から西日が射しこむように、千秋を目掛けて真っ直ぐ射貫かれる。その熱はチリチリと千秋の心までも燃やした。全身が熱い。息が次第に荒くなっていく。苦しい。それなのに、目が逸らせない。
「俺、結構独占欲が強いんスよ。だから、守沢先輩が悩みを打ち明けてくれて、この手で守沢先輩を守れるって知ったときは、正直嬉しかったッス。例え大将でも、この立場は譲りたくなかった。あの男が守沢先輩に触れただけで、腸が煮えくり返りそうだった。……あんたを、誰にも奪われたくなかった」
このままでは、身を焼かれる──そう息を吞んだ刹那。
蝋燭の火が風で消されるように。ふぅっと、燃ゆる炎が瞼の奥に消えた。
突如陽の光を失った世界で、千秋は何も動けない。
はく、と鉄虎の薄い唇から空気だけが抜けていき、やがて固く結ばれた。伏せられた瞳が、遠慮がちに逸らされる。その一挙手一投足が、スローモーションのように目に焼き付いた。
あまりの呆気なさに。千秋は気付いてしまった。
あぁ。きっと、鉄虎も同じだ。
怖いのだ。この関係性に終止符を打つことが。どうせいつか目覚めてしまうのなら、例え幻だとしても、幸せな夢の中に浸っていたいのだ。
「……なんてね。すんません、俺ばっか喋っちゃったッスね。守沢先輩は何の話だったんスか?」
鉄虎は何事もなかったかのようにへらりと笑った。そうやって、隠そうとした。確かにその身に燻る熱を、必死に飲み込んで、なんてことない振りして笑おうとした。
「……なぁ、南雲」
自分が思っているよりも低い声が出た。ぴく、と鉄虎の肩が震える。目が合わない。何かに怯えるように、耐えるように。笑みを貼り付けたまま、耳だけをこちらに向ける。
想いを伝えるのは、いつだって怖い。これまでの関係が崩れてしまったら。全てが終わってしまったら。そう思ったら、足が竦んで動けなくなる。
でも。自分が後輩に襲われそうになったあのとき。殺意の刃が鉄虎に向けられたあのとき。後悔してしまったから。何もせずに終わるのは嫌だと思ったから。
千秋は、真っ直ぐ鉄虎を見つめた。受け継いだ炎を轟々と燃やして、熱を込める。暗闇でも見失わないように。優しく包み込むように。鉄虎が再びその瞳に炎を宿すまで、じっと待つ。
どうか、逃げないで。大丈夫だから。終わらせに来たんじゃない。新しく、始めに来たんだ。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。不自然に押し黙った千秋に、鉄虎はおそるおそる伏せた睫毛を持ち上げた。
「────っ!」
視線が交わる。バチッと確かに音を立て、火の粉が宙に舞った。熱が、炎が燃え移っていく。
その一瞬を、逃さない。
「────好きだ」
「南雲が、好きだ」
「俺も、同じだ。南雲と恋人のような時間を過ごせて、幸せだった。どんどん格好良くなっていくおまえを、手放したくなかったんだ」
「え……」
鉄虎は、信じられないものを見るように、ゆっくりと瞬きをする。それがまさしく求愛のようだと思った。
「南雲は、真っ直ぐ愛をぶつけてくれるから。恥ずかしくて、むず痒くて……でも、嫌じゃなかった。心地よかった。願わくばこのときがずっと続けばいいと思った」
二つの炎がゆらゆらと揺れる。映し鏡のように、その瞳に問う。
──おまえは、ちがうのか?
「っ……」
真っ赤に燃える瞳が、くしゃりと歪んだ。笑っているのか、泣いているのか分からない顔で、鉄虎は唖然と呟いた。
「……すごいッスね、守沢先輩。なんで言えちゃうんスか。俺が、ずっと言えなかったこと。俺が、ずっと欲しかった言葉。はは……なんでぜんぶ、俺にくれちゃうんスか……」
消え入りそうな声。でも、確かに千秋の耳を擽って、すとんと心に落ちてきた。
鉄虎のくれるものすべてが、温かくて愛おしい。それを胸いっぱいに満たして、千秋はお返しにと唇を綻ばせた。
「おまえが最初に俺にくれたからだろう。真正面から、愛してくれたからだろう?」
「それは──」
千秋が、鉄虎の右手の上にそっと触れた。その手をあんまりにも幸せそうに見つめるものだから、鉄虎は言いかけた言葉を胸の内にそっと仕舞い込んだ。その代わりに、千秋の左手に指を絡める。
──ちがうッスよ。最初に火を灯したのは、あんただった。
ひとり行き場のなかった俺を、掬い上げて、ずっと見守っていてくれた。愛を注いでくれた。
太陽みたいに眩しいあんたに、最初に焼かれたのは俺の方だった。
でもね、守沢先輩。俺はただの塵にはなりたくなかったんだよ。
ずっとあんたの陰に隠れて、その反射でしか輝けない月にもなりたくなかった。
俺は、太陽の黒点だから。まだあんたには届かないけれど。いつか、あんた以上に熱く燃える一点となるから。
だからいつまでも、傍にいさせて。いちばん近くで、守らせて。
「俺も、好きです。守沢先輩の、本当の恋人になっていいッスか?」
「──あぁ。こちらこそ。よろしく頼む」
*
同時刻。ホテルから戻って来た斑たちは、定例のように真たちの寮室に集まっていた。
「南雲たちは、大丈夫だろうか」
ローテーブルを中心に円になって座っていた五人の中で、アドニスがぽつりと呟いた。その心配そうな様子に、真は優しく肩を叩く。
「きっと大丈夫だよ。だって、誰がどう見たって両想いなんだから」
毎日献身的に部屋まで送迎する鉄虎。それをそわそわと落ち着かない様子で心待ちにする千秋。「いってきます」と並んで歩く二人は、誰が何と言おうとお似合いのカップルだと思った。向かいに座っていた斑も、同意を示すように頷く。
「人に愛を振り撒くのは得意なのに、愛を受け取るのは下手な二人だからなあ」
一歩踏み出せば今にも結ばれそうなのに、そうはならない二人に、斑はずっとヤキモキさせられていた。愛されることに無頓着なせいなのだろう。確かにそこに愛があるのに、それに気づけず取り零してしまう。じれったいと思う反面、それが彼等らしいと思った。
「今まで取り零してしまった愛を掬い上げて、最初から愛されていたことに気づいてほしいよ」
ここにいる五人も、きっと他の人達も。みんなが千秋や鉄虎の幸せを願っている。互いだけじゃない、いろんな人に愛されていることを知ってほしいと願って、一彩は微笑んだ。
「俺にとっちゃ、どっちも眩しくて仕方ねぇ太陽だからな。あいつらが幸せになってくれねぇと困るぜ」
くつくつと紅郎も笑う。真っ直ぐ折れない信念を持った二人に、紅郎は何度も助けられてきた。その二人のためなら、何だってする。そんなことを言うと二人は怒るかもしれないけれど、それが紅郎なりの誓いで、恩返しだ。
四人の言葉を聞いて、アドニスは安心したように目を細めた。そして、「そういえば、」と思い出したように言葉を足す。
「日本にはこんな言葉があるのだろう? 『愛は地球を救う』と。愛で満たされた二人なら、世界を救うヒーローになれるな」
さも当前のように。アドニスは、曇りなき眼でそう言い切った。思わず、他の四人は大きく瞬きをし──やがて顔を見合わせ破顔した。
「ははは! そうだなあ。うん、それはいいなあ」
きっと、その言葉の意味は本当は別のところにあるのだろうけど。
そんな世界であってほしいと、誰もが願った。
終