現代版たけのこ生活は成立するか
太平洋戦争直後の1945年から49年頃にかけて、都市部の住民は配給制の崩壊と極度の食糧不足の中で、農村まで「買い出し列車」に乗り、米や芋や野菜を求めて田舎へ通った。その時、現金は信用を失っていた。インフレで紙幣の購買力が日々目減りし、農家は紙の札束を欲しがらなかった。代わりに彼らが受け取ったのは、価値の保存できる現物である。中でも圧倒的に多かったのが着物だった。着物・帯・反物を一枚ずつ手放して食いつなぐ生活は、皮を一枚ずつ剥ぐように家財が減っていくことから「たけのこ生活」と呼ばれた。
なぜ着物だったのか。当時の都市中産階級にとって着物は五つの条件を満たす存在だった。第一にほぼ全世帯が複数枚を保有していた。第二に結婚時の嫁入り道具として高価なものを揃えていた。第三に軽量で電車で持ち運びが可能だった。第四に農村側にも価値が分かりやすく、贈答品や娘の嫁入り道具、現金化の手段として転用できた。第五に心理的に「最後の砦」ではなく「手放せるもの」と認識されていた。家や土地は動かせない。食器や家具は重い。現金は信用がない。その狭い隙間にぴたりとはまるのが着物だった。
ホルムズ海峡封鎖から始まった2026年の供給危機が長期化し、円安と原油高と物資不足が複合的に進行する中で、ふと思う。現代に「たけのこ生活」が再来するとしたら、誰が都会人で、誰が農村の人で、そして「着物」に相当するものは何になるのだろうか。
現代の「都会人」とは誰か
戦後直後の都会人に相当するのは、現代の都市部・郊外に住む正社員、公務員、サービス業従事者である。具体的にはタワーマンションや郊外の建売住宅に住み、食料生産能力をほぼゼロの形で持たない層、共働きで家庭菜園もしない層、コンビニ・スーパー・宅配サービスに完全に依存している層が該当する。
1945年と決定的に異なるのは、現代の都市住民が当時よりはるかに食料自給能力を失っている点である。当時はまだ都市部にも畑や鶏小屋を持つ家が珍しくなかったし、味噌・梅干し・漬物を家で作る技術が一般家庭に残っていた。米を炊くのに薪を使う家庭もあった。現代の都市住民はその技術もインフラもほぼ完全に失っている。米を1から炊くことすらできない人、味噌が大豆と麹と塩から作られることを知らない人、停電したら冷蔵庫の中身が腐ることに気づくのに半日かかる人が、決して少数派ではない。
戦後の都会人より現代の都会人の方が、危機への耐性は明らかに低い。これは厳しい現実である。
現代の「農村の人」とは誰か
現代の農村の人に相当するのは、地方の専業農家・兼業農家・家庭菜園を持つ郊外住民、自家米を作る親戚を持つ層、漁村の住民である。彼らも当時より自給率は下がっており、肥料・農薬・燃料・配合飼料の輸入が止まれば生産は維持できない。それでも都市住民との非対称性は、当時より大きくなっている可能性すらある。なぜなら都市側が極端に脆弱化したからである。
加えて、現代の地方には新しいプレーヤーがいる。地方移住者、自然栽培派、家庭菜園YouTuber、養鶏を趣味でやっている人、ジビエ猟師、自家製味噌や梅干しを作るリタイア層。彼らは商業農家ではないが、危機時に「都市に売れる余剰」を生み出せる潜在能力を持つ層である。
「着物」に相当するものは何か
これが最も興味深い問いだ。着物の五条件、すなわち「世帯あたり複数保有・高価・可搬・相手に価値が分かる・心理的に手放せる」を満たすものを現代から探してみる。
第一の候補は金・銀・プラチナ等の貴金属である。これは最も着物に近い。価値保存性、可搬性、現金不信時代に農村側にも価値が分かること、心理的に「最後の砦」とは見なされにくいこと、すべてを満たす。金何グラムかが米10キロと交換される世界は、十分に想像できる。実際、戦時中・戦後直後にも金は秘蔵の交換手段として同様の役割を果たしてきた。
第二の候補は腕時計・宝飾品・ブランドバッグである。ロレックス、パテック・フィリップ、エルメス、シャネル、ルイ・ヴィトン、カルティエなどがこれに該当する。これらは現代版の「嫁入り道具」「結婚記念品」に相当し、都市中産階級が複数所有しているケースが多い。ただし農村側で価値が分かるかという問題があり、買い手が限られる難点がある。
第三の候補は家電・カメラ・楽器である。iPhoneの最新モデル、MacBook Pro、一眼レフカメラ、Nintendo Switch、ピアノ、ギターなどがこれに該当する。可搬性と価値保存性はあるが、電気が止まれば使えない物も多く、また中古品の評価が落ちやすい難点がある。
第四の候補は酒・タバコ・コーヒー豆である。歴史的にはこれが最も「着物」に近い動きをした。戦後直後の闇市でも、タバコは事実上の通貨として機能した。現代では希少なウイスキー(山崎、響、白州の長期熟成品)、希少ワイン、葉巻、上質なコーヒー豆などが該当する。価値保存性は劣化リスクがあるが、嗜好品としての需要は危機時にも消えない。むしろ精神的に追い詰められた状況ほど嗜好品の価値は上がる。精神を落ち着けるというつながりで、精神安定剤なども結構交換力を持つかもしれない。実際ユーゴスラビア内戦だったかは忘れたが、そういう極限状態で精神安定剤はかなり需要が高かったそうである。
そして第五の候補、これが現代特有のものだが、労働力・スキルである。これは「動産」ではないが、戦時下の人々が最終的に頼ったのは自分の体だった。現代版ではIT技術、医療・看護スキル、修理・工務技能、調理スキル、語学、教育スキルなどが「都会から地方に持ち込める価値」になりうる。「うちの納屋を直してくれ」「孫にプログラミングを教えてくれ」「英語の手紙を訳してくれ」「老親の血圧を見てほしい」といった対価で食料を得る形である。
現代特有の致命的な弱点
ここで現代の都市住民が抱える致命的な弱点を指摘しなければならない。戦前・戦中の中産階級は実物資産を多く保有していたが、現代の都市住民の資産は預金・株式・投資信託・不動産・年金受給権など「電子記録」に圧倒的に偏っている。物理的に持ち出せる動産は、意外なほど少ない。
タワーマンションを売り払って米を買おうとしても、買い手がいなければ価値はゼロである。新NISAで積み立てた米国株のインデックスファンドは、決済システムが止まれば紙クズと変わらない。スマホ決済もネット銀行も、停電と通信障害の前では無力である。
この点で、太平洋戦争直後の都会人より現代の都会人の方が、危機時の「交換手段の在庫」は薄いかもしれないという、皮肉な結論が導かれる。我々の祖父母の世代は、たんすの引き出しに着物が10枚、桐箱に帯が5本、嫁入りの宝石箱を持っていた。我々はスマホとクレジットカードを持っているだけだ。
現代版「着物」の優先順位
それでも、現代の都市住民が今から「現代版の着物」を準備するなら、おおむね以下の優先順位になる。
最も交換価値が高そうなのは、金貨・金地金である。次に高品質な腕時計、ブランド宝飾品。その次に現金(特に小額紙幣・硬貨。ただしこれは日本がハイパーインフレなどの経済的厄災にあっていない場合である。小銭なら金属としての価値は保たれるかもしれないが、紙幣はただのゴミになるだろう)、米ドル・スイスフランなどの外貨現金。その次に保存性の高い嗜好品(ウイスキー・タバコ・コーヒー)。さらに専門スキル・労働力。そして発電機・工具・燃料といった「相手が直接使える実用品」。最後に、最新型でない中古家電やブランドバッグといった「贅沢品」が並ぶ。
順位の付け方には根拠がある。金は世界中どこでも価値が認められ、サイズが小さく、劣化しない。1キロの金地金は現在の相場で約2000万円相当だが、手のひらに乗る。これは着物10枚分の価値を、ポケットに収まる体積で運べることを意味する。一方、ブランドバッグや高級時計は、買い手のリテラシーに依存する。農村の老夫婦にエルメスのバーキンを差し出しても、その価値を理解する人は限られる。
心理的対称性──たけのこ生活の本質
もう一つ重要なのは、心理的な対称性である。戦後の都会人は「これさえあれば」と思って着物を持って農村に向かい、農家の言い値で買い叩かれた。「たけのこ生活」という言葉に滲むのは、屈辱と諦観である。「鎌倉夫人のダイヤと農家の米一升が交換される」と戦後よく語られたエピソードは、平時の価値秩序が完全に転倒する瞬間を示している。
現代でも同じことが起きる可能性は十分ある。1000万円のロレックスが米30キロと交換される世界は、論理的には十分あり得る。価値の交換比率は、市場の需給ではなく「相手が何を持っていて、何を欲しているか」で決まる。農村にとって不要な物はゼロ円であり、必要な物は言い値である。この非対称性こそが「たけのこ生活」の本質だった。
そして戦後の田舎の農家は、都会から流れてきた着物・宝石・時計を孫の代まで蔵にしまい込み、後世「あの時代に集めた」と語った。現代でも、危機が深まれば地方の自給力を持つ層に都市の富が静かに移転する可能性がある。その移転媒体が、戦後の着物に相当する「何か」なのである。それが何になるかは、危機の長さと深さで決まる。
まとめ
結論として、現代版のたけのこ生活は「成立しうるが、戦後よりも遥かに過酷な形で」成立する可能性が高い。理由は三つある。
第一に、現代の都市住民は戦前世代より食料自給能力が極端に低く、危機の初動段階で持ちこたえる力が弱い。第二に、現代の都市住民の資産は電子記録に偏っており、物理的に持ち出せる「着物」の在庫が薄い。第三に、現代の地方も化石燃料・輸入肥料・配合飼料に依存しており、純粋な自給力は戦後より低下している。
つまり、需給両側がともに脆弱化している。これは交換が成立しないかもしれないという最悪の可能性を含む。戦後は少なくとも、都市が物を出し、農村が食料を出すという交換が成立した。現代では、都市が出すべき「着物」を持っておらず、農村も「米」を十分には作っていない、という二重の枯渇が起きうる。これはどこかで目にしたことだが、第二次世界大戦、ドイツ軍に包囲されたサンクトペテルブルクの市民の間では金貨一枚で1日分の食料を交換した例があるという。普通考えて金貨一枚あれば、家族全員の数カ月分の食費担っただろうが、金のような食べられもせず病も癒せないものは極限環境ではその程度の価値でしかなくなってしまうこともあるということである。
それでもなお、何らかの形で交換は試みられるだろう。人間は飢えれば何かを差し出す。差し出すべきものを今のうちに準備しておくか、あるいは「差し出さなくても済む側」、つまり自給力を持つ側に少しでも近づいておくか。この二択を考えることが、現代版たけのこ生活への備えである。
筆者からの実務的な提言は二つに集約される。一つは、資産の数パーセントでよいから、金・銀・現金・嗜好品・スキルといった「物理的に交換可能な形」へ転換しておくこと。もう一つは、今からでも遅くないので、米を炊く、味噌を仕込む、野菜を育てる、保存食を作るといった「都会人を脱する技能」を一つでも身につけておくことである。
たんすの中に着物が10枚ある祖母を笑ってきた我々が、いざ危機に直面したとき、たんすの中に何があるか。それを今、点検しておくべき時期に来ている。たけのこは、皮が尽きれば、もうそれ以上は剥がせない。


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