【院長編】

第33話:院長室への道

 確かに、氏神常葉はこれまでずっと疑問に感じていた。

 全てに失望した挙句、家に引きこもって生きるだけの存在に成り果てた自分を、『ムゲン病院』にスカウトする形で救ってくれた存在である『院長』が、一向に自分の前に姿を見せない、という不可解な事態を。

 それを解消するべく、彼女は何度か院長がいるであろう部屋、『院長室』を探そうと懸命に努力した。

 しかし、どのような経路をたどっても、まるで院長室そのものがこの病院に存在しないかの如く、無限の空間は彼女の探求心を拒み続けた。

 そしてある時には、様々な子供の落書きが壁一面に描かれた、奇妙な無人の部屋を目撃してしまった事もあった。

 その際、『その部屋の事は忘れて』、と今までになく真剣な表情で語った別の自分の言葉は、常葉の心にしっかりと刻まれていた。


 だが、自ら諦めが悪いと自負する彼女の思いはそれでも抑えられず、近々3度目の捜索に出掛けよう、と思っていた矢先だった。


 別の常葉を伝って、院長自らが『氏神常葉に会いたい』、と述べたのは。


「こっちよ」

「……分かったわ」


 見失わないよう、しっかり後をついてきて、と述べた、白衣を身につけた別の医師の常葉の背中を、常葉は追い続けた。

 周りに広がるのは、白い床や壁、等間隔に設置されたLEDライト、左右に続く扉、そしてそれが果てしなく、どこまでも延々と続く、彼女にとって見慣れた光景。

 だが、常葉はその中を漂う空気のようなものが、普段と違う事を薄々感じていた。

 『張り詰めた』と言うほどではないが、まるで病院全体が少し緊張し、何かを待っているようなもの。

 例えるのなら、万全の準備を整えた上で何かの発表に挑む時に感じる、高揚感と不安感が入り混じるような、あの奇妙な心地だった。


 廊下をまっすぐ進んだかと思えば右に曲がり、階段を上に進み、更に左に曲がり――まるで決められた手順を辿るかのように、別の常葉は複雑な経路を歩き続けた。

 

「……本当に、大丈夫なの?」


 つい心に現れた不安を口にしてしまった常葉であったが、別の常葉は気にしない素振りを見せつつも、振り返る事なく返した。


「大丈夫。もう少し、歩いて」


 常葉に『別の自分を言葉を信じる』以外の選択肢は考えられなかった。

 院長の事を口にする度に、別の自分たちから繰り返し述べられた『もう少しだけ待って』という言葉。

 ほんの少し苛立ちを覚えた時もあったけれど、その『もう少し』が、ようやく、そしてもう間もなく、終わろうとしているのだから。


 やがて、幾度も階段を上り、角を曲がり続けたふたりは、とある階層の廊下に辿り着いた。


(……あれ……?)


 初めて訪れたその場所に、常葉はどこか妙な雰囲気を感じ始めた。

 今までと比べて、ほんの少しだけ、辺りの色が異なっていたのだ。

 確かにLEDライトによって照らされたその空間は、今までと同様に清潔感溢れる『白色』に包まれていた。

 しかし、その色合いは白衣のような純白ではなく、どこか柔らかさや温かみのある、暖色を含んだようなものに変わっていたのである。


 やがて、別の常葉の後を追ってその空間を歩き出した常葉は、更なる、しかし今度は決定的な違和感に気が付いた。

 扉に取り付けられたプレートの表記が、見慣れないものになっていたのだ。


 おえかきしつ。おひるねべや。ごはんのへや。おやつせんよう。

 

 明らかに病院と言う空間とはかけ離れた、まるで子供が思いついたような名前の数々だった。

 そして、その文字の筆記体に、常葉は既視感を覚えていた。


(……これって……)


 捜索中に偶然目撃した、様々な子供の落書きが壁一面に描かれた無人の部屋。

 そこに殴り書きのように記されていた、どこかたどたどしい平仮名の数々と、あのプレートに記された平仮名の筆跡が、非常に似ていたのである。


(……どういう事……?)


 思案しながら歩く常葉は、更にある事に気が付き始めた。この『文字』を自分が見たのは、このプレートや、以前の部屋だけではなかった事に。

 間違いない、自分はこのどこかたどたどしくも、一所懸命書いたような文字を、知っている。それは――。


(……手紙……私を、『ムゲン病院』へ誘ってくれた、あの手紙……!)


 ――もしかして、これらの文字を書いた人物は――いや、それならどうして、本当に失礼だけれど、ここまで拙い文字なのだろうか。

 あの手紙が心を込めた直筆なら仕方ないかもしれないけれど、それならあの落書きだらけの部屋はいったい何なのだろうか。

 この『ムゲン病院』を司るであろう存在は、何者なのだろうか。


 様々な疑問が頭の中に入り混じる中、再び辺りの雰囲気が変わり始めた。

 廊下の両側に、白衣やナース服、作業着など、様々な衣装を着こんだ『氏神常葉』が、廊下の左右に並び始めたのだ。

 その数は、進めば進むほど増え続け、気付いた時には隙間なく壁側を覆い尽くすほどにまで膨れ上がっていた。

 彼女たちは全員とも、普段よく見せるような温和な表情を見せていた。だが、次々に注がれる視線に宿る思いに、普段と違う何かがある事を、常葉は薄々気付き始めた。

 尊敬とも敬愛とも、ましてや軽蔑などのネガティブな感情とは違う。

 頑張れ、応援している、といったような、エールを送るような心地を、常葉は感じていたのである。


 それは、まるで氏神常葉を『院長』のもとへ送り出す花道のようだった。


(……)


 どこかこそばゆい心地を感じながらも、常葉は前を向きながら歩き続けた。

 そして、ほんの少しだけ体に疲れを感じ始めた時だった。

 彼女をずっと導き続ける案内役を買って出た医師の常葉が、足を止めたのは。


「……着いたわ、ここが『院長室』よ」


 廊下の突き当りに、1つの扉があった。

 形こそ、他の扉と全く同じであったが、表札代わりのプレートは今までのものとまた雰囲気が違っていた。

 『いんちょう室』――ひらがなと漢字が入り混じったその表記の周りには、何度も何度も書き直し続けたであろう跡が、あちこちに残されていた。

 この部屋のプレートだけは、安易な気持ちではなく本気で書きたい、という、執筆者の思いが伝わってくるようなものだった。


「……行ってらっしゃい、常葉先生」


 そう言いながら、自分を見送る別の自分、そしてその背後にずらりと並び同じ表情を見せる更に多くの自分たち。

 彼女たちの視線を背に、常葉はゆっくりと手を扉に伸ばし、ノックをしようとした。

 だがその寸前、彼女は動きを止めた。自分の指先が震えている事に、常葉は気づいたのだ。

 初めて会う存在への緊張や期待、不安、切望、そしてほんのわずかな『恐怖』――院長と出会う事で、何かが変わるかもしれない、と言う恐れが全て混ざり合い、指先から溢れ始めていたのである。


 ただ、ここで立ち止まってはいけないのも、彼女は十分承知していた。

 様々な患者と触れ合う時、いつも氏神常葉と言う存在は心の中に緊張や不安を抱えていた。自分の言葉が、患者の運命を変えてしまう事に。

 それでも、彼女は患者と真剣に向かい合い、出来る限りの処置を行い続けた。そこにある命の灯を、決して消さないために。


(……そうよ……私の心の灯だって……ここで消しちゃいけない……!)


 そして、深呼吸を一、二度行った後、彼女はゆっくりと拳を作り、扉をゆっくりと叩いた。軽い音が、果てしない廊下に響き割った。


 そして、しばしの沈黙の後だった――。


「どうぞ」


 ――少し小さい、でもはっきりとした声が聞こえてきたのは。

 

 それを聴いた瞬間、常葉の心の中で、何かが弾けた。

 間違いなく、自分はこの声を知っている。非常に聞き覚えがある。いや、覚えておかないといけない『声』そのものだ。

 だが、それは二度と聞く事が出来ないはずの響き。この場に存在するはずのないもの。

 それがどうして。本当に、どうして。


 様々な感情が溢れるのを懸命に抑えながら、常葉は金属製のドアノブを握りしめ、ゆっくりと扉を引いた。

 その掌は、手汗に包まれていた……。

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