『12歳の神話』の頃
1960年代は日本人の「性」に対するイメージがガラッと変わる転換期だった。60年代の中頃に創刊された『平凡パンチ』(平凡出版)や『週刊プレイボーイ』(集英社)といった男性向け週刊誌は、ヌードのイメージをアーバンでポップなものに変え、若年女性の間では、67年に来日したイギリス人モデル・ツイッギーに憧れを抱く形で、ミニスカートブームが巻き起こった。性に対して明るく開放的な空気は、テレビにも反映され、65年には日本初のお色気深夜番組『11PM』(日本テレビ系)の放送がスタート。さらに69年、CMでは小川ローザが「Oh!モーレツ~!!」と白いパンツを見せつけた。こうして裸やお色気はお茶の間にまで浸透し、そこに北欧やアメリカでのポルノ解禁の報も手伝ってか、日本にも「性革命」の波が訪れ始めたのが、60年代中期から後期にかけてのことだった。
69年11月、当時中学一年生の梅原多絵をモデルにした写真集『ニンフェット 12歳の神話』(ノーベル書房)が出版されたのも、そんな折だった。といっても、このヌード写真集は決してポルノを意識したものではなかった。この中で強調されたのは、大自然をバックに撮影された少女の美しく清純なイメージ。ロリコンなんて言葉がまだ一般的ではない時代、少女をエロティシズムの対象として扱うなんてありえない話だった。
とはいえ、『12歳の神話』は、日本では初めての少女ヌード写真集。同年12月24日の『11PM』で特集が組まれるなど、衝撃を持って迎えられた。そうした影響もあってか、同書は瞬く間にベストセラーとなり、3ヶ月後の70年2月、ノーベル書房は、オリジナルの修正を取り払いワレメを解禁した『デラックス版 12歳の神話』を刊行する。ワレメを白日のもとに晒したのもまた『12歳の神話』だった。
ちなみに、この写真集のカメラマンは剣持加津夫。麻薬を撮影の主題にするなど、報道写真的なものを本職とした写真家だ。ヌードを撮るのがほとんど初めてであったことは想像にかたくない。『12歳の神話』に芸術性が宿っているのだとしたら、それはカメラマンの腕ではなく、梅原多絵という素材の良さあってのことだろう。それに加えて、画家の梅原龍三郎と女優の高峰秀子が演出に関わったことも大きい。あと余談だが、梅原多絵というのは本名ではない。梅原龍三郎の孫というのも間違い。ただ彼の別荘で撮影が行われたというだけで、撮影上の関わりはあったが血縁的な繋がりはない。
70年8月には『ハレンチ学園』の作中にも取り上げられるなど、すっかり名の知れた『12歳の神話』だが、この翌年にも、三星社書房よりタイトルを変え『エウロペ 12歳の神話』が出版される。
『週刊少年ジャンプ』(集英社)1970年8月号初出
『エウロペ 12歳の神話』と生まれ変った三星社版は、無邪気さや清純さというイメージよりも、少女の持つ独得の官能美や、エロチシズムを引き出すといった、後の「リトル・プリテンダーズ』を思わせるような編集内容に変っている。
こちらは芸術としての少女ヌードから、少女のエロティシズムを引き出す編集に変化した。折しもこの頃は日活が「日活ロマンポルノ」をスタートさせた年だった。さらに、翌年には札幌オリンピックが控えていたこともあってか、政治家たちは海外からの目も意識し始めていた。驚くべきことに、ポルノ解禁国からも客人が訪れることを見越して、プレイボーイが黒塗りだらけなのはいかがなものかと国会で議論されたりもしたのだ。
112・堀昌雄
堀委員 中村国家公安委員長が入っていただきましたので、ちょっと問題の角度を変えた論議を先にさしていただいて、あとで残余の時間、また関税プロパーの問題をやらしていただくようにいたしたいと思います。
実は関税定率法第二十一条に関する問題でありますが、昨日も同僚の佐藤議員がこの問題の論議をいたしておるようであります。私も大蔵委員会にまいりましてすでに十二年くらいになりますけれども、かつて何回かこの問題を取り上げたことがありますが、きょうはその関税定率法が違憲であるかどうかというような基本論ではなくて、きわめて具体的な問題をひとつ取り上げたいと思うのであります。
現在関税定率法二十一条一項の三号に「公安又は風俗を害すべき書籍、図画、彫刻物その他の物品」という規定が輸入禁制品という項目で出されておるわけであります。さらに「税関長は、関税法第六章に定めるところに従い輸入されようとする貨物のうちに第一項第三号に掲げる貨物に該当すると認めるのに相当の理由がある貨物があるときは、当該貨物を輸入しようとする者に対し、その旨を通知しなければならない。」こういう規定があり、この通知に異議のある者は輸入映画等審議会に申し出ることができる、こういう仕組みになっておる。
そこで、実は最近札幌で冬期オリンピックが開かれて多数の外国選手が参加をした。たまたま札幌でアメリカで発行されておる「プレイボーイ」という雑誌をこれらの外国選手も購入をしたようでありますが、その購入をした結果たいへん奇妙きてれつな問題がその中にあるということが外国選手から指摘をされて、それを新聞報道で私どもも承知をしたわけであります。その中身をまずそちらへ見ていただきながら議論したほうがいいと思いますので、まず本物をちょっと持ってきましたから、両大臣よくごらんになりながら……。これが消してあるほうですね。これが消してないものですね。これはナンバーワンです。よく見ておいてください。その次はナンバーツー、これが消してあるほうでこっちが消してないほうです。ナンバースリー、これが消してあるほうでこれが消してないほう。一体こんなものよく見えないぐらいのものだけれども……。その次は全体のやつですね。これがそのままのほうでこれが消してあるほうですね。ここが消してある。これをよく見てください。何もないみたいだけれども消してあるわけですね。これは外国人がおかしなことをするなと思うはずだと思うのです。これは一体こういうことをしなければならぬに値するかどうかは私も疑問に思っておるわけですが、その次はこれですね。まあ主たるものはこんなものですが、これは例示をしたわけです。これはことしの一月号の「プレイボーイ」で、いかに税関で消したかということをここで例証したわけですが、絵画の場合には、これはいずれも「週刊新潮」でありますけれども、これは杉山寧さんという有名な画家がかかれた「生」という表題のものです。これは石本正さんですか、これも日本画の方ですけれども、絵画ならこれは全然制限なしです。
いろいろごらんをいただいたことで、私が何を取り上げようとしているかというと、要するに性器のそばにある性毛といいますか、これの取り扱いの問題をひとつきょうは、関税定率法二十一条の風俗を害するということに該当するかどうかということを、実は取り上げたいと思います。
過般警視庁は、日活に対して手入れをされて、いまこの問題が進行中だと思うのですが、私はきょう取り上げておる問題を、報道の面でポルノといわれておる一連のものとして取り上げてほしくないわけです。いま私がここで取り上げておるのは、常識的な判断に基づいて、良識ある国民が見た場合に、そのことによって風俗を害するおそれがない範囲で、あるものは私はそれなりの相当の処置をとってもいいのではないか、こういう気がしておるわけであります。私、二日間実は沖繩にこの調査に参っておりまして、沖繩での実情をちょっと御報告いたしますと、沖繩では実はこのような処置はとられておりません。何もされないままでこれらの雑誌は販売がされておりますけれども、わいせつ物に関する取り締まりはたいへんきびしくやっておるようでありまして、昨日の朝刊でありますか、それには那覇市でアメリカ人がそういう写真やその他を販売するのを逮捕をして、家宅挿索をしておる写真まで出ておるわけでありますから、私は沖繩における取り扱いというものは非常にはっきりした一つの線で処理がされておると思うのでありますけれども、私は今日の段階においていまのような処置をして、そんなところにわざわざ墨を塗ることがはたして風俗を害することを防ぐことになるかどうかという点に、大きな実は疑問を持っておるわけであります。
私がいま申し上げたいことは、しかしたとえば性器を特に誇示し、このことによって特定の何らかの目的をもって読者たちに影響を与えようというようなものについてまで、それを認めなさいということを言っておるわけではありません。いまそこでごらんをいただいた写真は、いずれもきわめて自然な写真であって、そういう特定の意図をもってとられておる写真とは私は理解をしておりませんし、そのことは絵画における状態と同じだと実は理解をしておるわけです。ですから私がいま申し上げたような、一般の絵画や写真として、全体として一つの姿をあらわしておるものについては、特にそこに性毛があるからそれを消すというような、関税定率法二十一条による取り扱いは今後やめたらどうか、こう実は考えておるわけであります。ただし、さっき申し上げたように、その部分だけを特に誇張しあるいはその部分だけに注意を引くような取り扱いによって読者に特定の影響を与えようとするものについては、それは取り除くべきであろう、こう考えておるわけでありますが、まずこの問題は国内の問題にも関連がございますので、最初にひとつ国家公安委員長の御見解を承りたいと思います。
社会党の堀昌雄によってなされたこの答弁は、ポルノを認めろというものでは決してなかったが、性的欲求を露骨に掻き立てるような描写がされていないものに対してまで、わいせつと断じるのは不条理ではないかと、一定の寛容さを見せていた。こうした流れもあってか、この時期はポルノ解禁への期待が高まっていた。
当時11歳の大上亜津佐が、『12歳の神話』の梅原多絵に続くように登場したのも、この辺りだった。71年9月、「初潮 11歳」という題で、『女性自身』(光文社)に登場した彼女は、同年10月29日の『毎日新聞』で公共福祉広告のモデルとしてヌードを披露すると、瞬く間に反響を呼んだ。このとき彼女につけられたコピーはこうだ。「彼女はまだ十一才。どう育つでしょう。セックスセックスセックスの世の中で」。このコピーは、数多のポルノが世の中に溢れ始めた時分、少女のヌードはエロではなくその対極、無垢さの象徴や穢れなき存在として見られていたことをはっきりと示していた。
そんな亜津佐だが、『平凡パンチ』71年11月1日号に「亜津佐という名の花が咲く」という題で7ページのグラビアが掲載されたのを最後に、ヌードは披露しなくなってしまう。このグラビアの最終ページでは、ワレメは見えないようにしているものの、正面からの大股開きが写されていたが、この一枚が本来起こるはずだった少女ヌードブームに終止符を打った。いくらポルノが氾濫し始めたとはいえ、大人のヌードにもまだそんな写真がない時代、やり過ぎてしまったのだ。
少女ヌードはこの頃を境に完全に消え去り、76年、アメリカから『モペット』が日本に上陸するまでの間、暗黒期を迎える。以降の話は「ロリコンブーム前史」に続くということで、そちらを読んでもらうとして、いよいよ次回は「ロリコンブーム」のスタート地点『LITTLE PRETENDERS』の頃だ。
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