帝銀事件の裏で……
終戦から3年が経過した1948年(昭和23年)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店にて従業員12名が毒殺され現金と小切手が奪われた銀行強盗事件、通称「帝銀事件」が発生した。
銀行の閉店後、ひとりの中年男性が厚生省の名刺を刺し出し「この付近で集団赤痢が発生した。この予防薬を飲んで欲しい」と椎名町支店の従業員16人に青酸化合物を飲ませ、気絶している間に強盗行為に及んだという本事件は、目撃者がおらず発生から70年以上が経過した今も未だ多くの謎を残している。
また、本事件の犯人として逮捕された画家の平沢貞通は死刑が確定したものの、冤罪の可能性が度々議論されてきた。肺炎で死亡する1987年まで39年間にわたり獄中生活を送ることとなり、その真相は闇の中に包まれている。
ゆえに帝銀事件は「昭和最大のミステリー事件」のひとつと数えられているのだが、実は帝銀事件のほぼ同時期、連日のように世間の注目を集めた、もう一つの「猟奇事件」が存在していたことはあまり知られていない。
肉の塊が飛び出した
帝銀事件発生から3日が経過した1948年1月29日。読売新聞、朝日新聞、毎日新聞といった大手新聞および東京ローカル紙は、以下のような内容の記事を掲載した。
1月28日14時頃。東京都渋谷区にあるとある火葬場にて、ひとつの遺体が荼毘(だび)に付されようとしていた。遺体は、胃ガンのために亡くなった野口三郎さん(仮名:享年33歳)。遺体は家族との最後のお別れが済んだあと、火葬場へと引き取られ、火葬炉に石炭が入れられた。
現在、火葬場で遺体を焼くときは燃料として灯油やガスが使われることがほとんどで、燃焼時間1時間から2時間程度で遺族に引き渡される。しかし、終戦直後の当時は燃料が足りなかったという事情もあり、石炭や薪を使い、半日かけて焼くことも少なくなかった。
この日、野口さんの火葬を担当したのは火夫(火葬夫)の竹田小太郎氏(仮名:33歳)。竹田氏は石炭の詰まった火葬炉に火をつけ、数時間後、火葬炉に取りつけてある覗き穴を覗き込んだ。戦後の火葬炉は燃焼力も弱かったようで、遺体が生焼けにならないよう、何度か覗き穴から直接見てチェックすることになっていた。
竹田氏が覗き穴から遺体を見てみると、野口さんの遺体の腹に縫ってあった手術用の糸が「プチ…プチ…」音をあげて千切れていくではないか。
「これは一体どうしたことだ?」
やがて「ポーン!」という破裂音と共に野口さんの腹の中から肉の塊がふたつ飛び出してきた。その肉の塊は人間の赤ん坊のように見えた。
「あれ!? あの遺体は男だったはずだぞ!?」
「おい! 火を止めろ! 中止だあ!!」
竹田氏は慌てて火を止め、渋谷区内の警察署へ連絡。すぐさま警察による遺体確認がはじまった。
野口さんの腹には大きな傷口があり胃や腸、肝臓といった内臓が全て綺麗に取り出されポッカリと空洞になっていた。そしてその片隅には30cmほどの大きさの赤ん坊の死体と、それよりも小さい真っ黒に焼けた辛うじて人間とわかる肉の塊が落ちていた。
どうやら2人の赤ん坊の死体は野口さんの体の中に縫い込まれていたようだ。
何故、火葬中に赤ん坊が飛び出したのかについては、今となっては予測の範疇でしかないが、熱で野口さんの体に溜まっていたガスが爆発し、中に入っていた赤ん坊の死体が腹を突き破って出てきたのではないかと思われる。もちろん野口さんは男性であり、妊娠などしていたはずもない。
「いったい何故、見知らぬ赤ん坊が腹の中に……」
警察と火夫は顔を見合わせ、野口さんの遺骨を待つ、遺族の元へ「死体から赤ん坊が出てきた」ことをありのまま伝えた。静かな火葬場は一転、奇怪なムードに包まれた。