片岡ひろしのひとりごと:第6回 元大学教員としての自己紹介(1)教授までの道
はじめに
第1回の自己紹介が元政治家候補?に偏っていたような気がするので、私の本職、元大学教員(元研究者)としての自己紹介を2回に分けて行おうと思う。そのなかで、現在(ちょっと前)の大学や研究者に関して気になる点とそれに対する私見を述べてみたい。初回は「その(1)教授までの道」を紹介する。
アメリカ留学(1986年4月〜1988年3月)
40年前、大学院博士課程修了直後の1986年4月から2年間、私はアメリカ・カリフォルニア州にある農薬ベンチャー企業であるZoecon社へ博士研究員(いわゆるポスドク)として留学した。人生最大のカルチャーショックを受け、人生の転換点でもあった。授業料を払っていた学生時代の研究生活に比べると明らかに楽なのに、お金がもらえることが不思議だった。つまり、職業としての研究者をスタートすることになった。
今は海外留学を希望する若者が少なくなったと、国は盛んに海外留学を勧めるが、私の時代もそれほど多かったとは思わない。在学中の短期語学留学を除き、同時期に研究留学した人のほとんどは私と同じく2年程度で帰国したが、現在研究留学する人は5年以上の人が増えたように感じる。成果をあげるにはそのくらいの期間が必要になったのかもしれない。私の教え子のなかにも10年以上滞在して、アメリカで大学教員(教授)になった者もいる。彼らは、このところのトランプ行政(大学いじめ)に困っているようだ。
私の留学先はスタンフォード大学に隣接し、近隣にバイオ関連の研究所が数多くある地域であった。そのなかのひとつ、SRI(Stanford Research Institute)に大学時代の同級生S君が企業から研究派遣留学していた。彼は来米の際、サンフランシスコ空港まで迎えに来てくれ、その後も難しい手続きを日本語で前もって説明してくれた(英語にもアメリカ文化にも慣れていない私にとって本当に有り難かった)。また、食料品などの買物や、レストランやバーへも付き合ってくれ、ちょっとした作法を教えてくれた。彼の助けがなかったら私は研究に集中することができず、悶々としてアメリカでの生活に窮していたように思う。この留学経験が、帰国後の留学生への(配慮だけでない)対応に繋がっていると考えている。2年間の研究成果(論文業績)は予想以上で、そのことが大学教員(研究者)としてやっていく自信になった。新しい技術や考え方を身につけるというより、自分の実力を試したように思う。私のボスはゆっくりと正確な英語で話してくれて分かりやすかったが、そのために一般社会での英語が上達しなかったのかもしれない。ニュース番組を毎日見続けていたら、3ヶ月ほど経ったある日、突然少し聞き取れるようになったことに気付いた。ニュースは比較的分かりやすく正しい英語だったのだろう。逆に、土日にはケーブルTVで日本語放送(おしんや独眼竜政宗など)を毎週10時間ほど楽しんだ。加えて日本食料品店で最新のTVビデオ(北の国からの「初恋」など)をレンタルして視聴した。そのためか月曜日は英語で会話するのが苦痛であった。私は英語をうまくなりたいと思っていなかったが、うまくなりたいなら日本語から完全に離れて生活することが重要だと思う。
英語がうまくないこともあり研究雑務からも解放され、ともかく実験に集中できた。今振り返っても研究者にとって至福の時だった。最初は何をするにも助けが必要で、慣れない英語で説明しないと助けてくれない。その度に「independentになれ」と説教され、理屈に合わない話を嫌というほど聞かされた。科学的におかしいにもかかわらず、自己主張を繰り返す彼らには辟易とした。それに反論しないと認めたことになることも経験した。ともかく自分(達)が正しいと主張することを子どもの頃から教育されていると感じた。私自身も自己主張が強い人間だと思っていたが、私のそれとは違う、彼らの考え方には最後まで慣れなかった。他人(私)が成果をあげると「You are lucky」と、こちらの日々身を粉にした努力は認めようとしてくれなかった。一方で、私を食事やパーティー、ドライブに誘ってくれる親切な女性もいたが、弱者には優しくするというアメリカ人気質のような気がした。女性や身障者など弱者に優しくすることを小さい頃から教えられて自然に身につけている。この点は日本人も見習うべきだと思った。
今も同じだと思うが、留学から帰国するタイミングが難しい。私の場合は大学院時代に残した研究内容があり、指導教授(鈴木先生)もその研究を完成させてほしいと希望したため、2年間で帰国することを決心した。ところが、帰国後の生活費をサポートしてくれるシステムがほとんどない。私は学術振興会特別研究員に採用され、生活費を手当てされながら研究を進めることができた。鈴木先生は、もし特別研究員に採用されなかったら「委任経理金(奨学寄付金として受入)」での雇用を考えてくれていたようだった。特別研究員の申請書作成も採用手続きも鈴木研究室の助手だったN先生のお世話になった。当時は書類提出が必須で、航空便でも間に合わない〆切が設定されていたために、N先生が手書きで書類を作成してくれた。また、審査過程で面接のためだけに数日間一時帰国した。今はWebによる電子申請と、Zoomによる面接が可能になっているようだ。帰国前に申請できる研究のための研究費が今はいくつかあるようだが、生活費を賄える研究費は今でも学術振興会特別研究員しかないように思う。学術振興会には「海外特別研究員」という博士課程修了後に海外滞在費と研究費を支給する留学システムがある。私は、その裏返しになる「帰国特別研究員」という(研究費だけでなく)生活費が支給されるシステムがあっても良いと思っている。(トランプ大統領によるアメリカの)政策変更で突然解雇通告され、研究できなくなる状況を考えると、優秀な日本人若手研究者には帰国して研究を継続し、日本の科学界に貢献してもらいたい。本人が帰国を希望してもその道がなければ、留学という危険を冒す若手研究者は益々少なくなるのではないか。帰国研究者を引き受けて研究を継続させてくれる(研究費を頼ることもできる)受入研究者がいて、帰国者(含家族)の生活費を3年程度サポートしてくれるシステムがあると良いように思う。優秀であれば、その3年間に国内のポジションを探すことは比較的容易である。外国にいて日本のポジションを探すのはかなり難しい。「大凧に乗せられてアメリカの空に揚げられ、気がつくとその糸を切られているかも」と留学前に言われたことを思いだした。現在もあまり変わっていないような気がする。
学術振興会特別研究員〜助手時代(1988年4月〜1994年6月)
苦労して採用された特別研究員を2ヶ月後の6月末で退職した。理由は7月1日付で助手に採用されたためである。留学先の書類が間に合わず、6月15日付に間に合わなかった。給与には無頓着な私も人生初のボーナスを20代でもらいそこねたことだけは覚えている。
私は微量ペプチド(アミノ酸がペプチド結合で繋がったもの)を大量の材料から精製して、そのアミノ酸配列を明らかにすることを専門にしていた。大学院生時代にフリーザーに残した「前胸腺刺激ホルモン、PTTH」と呼ばれる昆虫ペプチドホルモンの精製試料を再確認し、研究計画を考えている間に、共同研究者の石崎先生から「生ものの除脳蛹」という実験材料が次々と届き困惑した。先生も研究再開を、首を長くして待たれていたのだろう。どうも2年間のアメリカ生活でマイペースの研究スタイルが身についてしまったようだ。実験は比較的順調に進み、面白い結果を次々と出すことができた。私のペプチドの構造決定と同時期に、共同研究者K君によりPTTHの遺伝子構造も解明され、恩師の鈴木先生と石崎先生の学士院賞受賞(「カイコ脳神経ペプチドに関する化学的・分子生物学的研究」1992年)に貢献することができた。帰国してきちんと仕事ができたと安堵した。
時は遺伝子クローニングの黎明期で、重要なペプチドやタンパク質(ペプチドと同様、アミノ酸が結合した物質)の遺伝子をクローニングするための情報を得るため、アミノ酸配列を明らかにしようという研究が盛んであった。所属研究室以外の専攻内や他大学から配列分析依頼や相談が数多く舞い込んだ。私とN先生が窓口となって所属研究室が所有していたプロテインシーケンサーを用いて対応した。私たちの協力によって、当時の専攻内および依頼された方の研究を世界最先端レベルの研究に引き上げたと自負している。当時、何人もの大学院生から投稿論文が楽に受理され、学位を無事取得できたと感謝された。
その頃から次の目標として、ペプチドホルモンの情報を細胞内に伝える受容体に興味をもっていた。自分が構造を決めた昆虫ペプチドホルモンの受容体を明らかにできないかと様々な研究者に相談し始めた。
大学院重点化と助教授昇進(1994年6月〜1999年3月)
PTTHの構造決定という当初予定していた大きな山を乗り越えたある日、鈴木先生に教授室へ呼び出された。大学院重点化という組織変更に向けて人事選考が進んでいることは耳にしていた。鈴木先生から「断ってもらうと困るのだが、新設研究室の助教授候補に君の名前があがった」という趣旨のことを言われた。その新設研究室は、専攻内の別の研究室のY助教授が教授候補でハイブリッド研究室を作る構想とのことであった。しばらく悩んだが、辞職する勇気はなかったので承諾することにした。その条件として、当時使っていた研究室スペースと、鈴木先生が代表者の昆虫ホルモン関係の研究費(私が原案を作成した)はこれまで通り使わせてもらいたいと申し出た。逆に、鈴木研究室の関係する学生の指導をすること、関係する研究費の申請や報告書作りに協力することを約束した。
組織上の上司は酵母研究をしているY教授、研究面の上司は鈴木先生という何とも複雑な立場になった。Y先生は学究肌の思いやりがある先生で、私のわがままをほとんど聞き受け入れてくれた。独立して研究を進めることも、夕方一緒にビールを飲むことも許してくれた。この時学んだのは、学生時代に育った研究室ごとに考え方や大事にするものが違うということだ。研究室はひとつの村であり、どんな村で育ったかで研究者として基本となるものが決まるような気がする。私の研究方針や方向性は自分が育った生物有機化学研究室の考え方が大きく影響している。研究室の教員は、学生の教育という点で大きな責任があることを実感した。
新設された研究科(柏キャンパス)と教授昇進(1999年4月〜)
鈴木先生が定年退職し、Y教授との微妙な関係での研究室運営をそろそろ考えないといけないと思っていた頃に、東大が新しく柏キャンパスに大学院研究科(学部に相当)を新設する話がもちあがった。鈴木先生が東大副学長として、この新キャンパス、新研究科構想を担当されていたことから在職中から時々話を聞いていた。その構想を熱っぽく話されていたことは覚えているが、私は新設研究室のことで精一杯で、全く興味がなかった。
ところが、その構想が少し具体的になった時に、専攻の長老の先生が大学院重点化で新設した3研究室は新研究科へ移転することを前提に作ったと言い出した。またしても専攻の都合で異動を強いられることに心底頭にきた。さらに、何の因果か専攻から推薦する研究室の名称や研究内容の原案作りのメンバーになってしまった。紆余曲折があり、最終的に2つの研究室を新研究科へ推薦することになった。当事者の意思や考えを無視するような人事が進められることに違和感と不満を感じていたので、専攻教授会(教授と助教授の会議で教官会議と呼ばれていた)で、自分の経験を元に(最年少者でありながら)勇気を振り絞って「今回の人事は教授2名を専攻で選考・推薦することにして、その教授候補が助教授候補を推薦できるようにしてはどうか」と提案した。これは教授候補者に助教授候補の人事権をある程度与えることを意味する。意外にも専攻長はこの案を支持してくれ、自薦、他薦に関わらず教授候補者を専攻長に推薦することになった。若手助教授の意見を聞いてくれたことが意外であり、ちょっとうれしかった。
それまで自分が当事者になることなど考えていなかったが、Y教授とのこれからの研究室運営、自分の今後の研究生活について考えて、教授候補に手を挙げることをY教授に相談した。Y教授から「止めも勧めもしないので自分で自由に判断したら良い。どちらに転んでも応援する」という趣旨の言葉をもらった。心底有り難く、決心がつき専攻長に申し出た。鈴木先生や学生時代助教授だったI先生にも相談した(正確には報告した)。結果、3名の教授候補の名前があがったため、私は辞退しても構わないと専攻長に申し出た。専攻長から「今さら退いてもらうと困る。このまま候補者として専攻の教授で選考を行う」と言われ、承諾した。結果は、私ともう一人の助教授が教授候補に決まった。正式な人事選考が行われる2年前のことで、あくまで内部の予備選考のようなものである。専攻長から「助教授候補はこの学科出身者から選ぶこと。できればミニ生物有機(私の出身研究室)を作らないで欲しい」と条件を出された。助教授候補については手を挙げる段階で考えがあったが、教授候補者になった時点で誰にも相談せず本人にだけ内諾をとった。助教授候補として人事書類が正式に提出された時、専攻内も新しい研究科の関係者も、かなり驚いたようである。
「教授までの道」のおわりに
それぞれの項目を簡単に紹介しようと思っていたが、かなり長文になった。書きながら加えたいことを次々と思いついたからだ。特に2年間だけなのに留学に関する内容が長くなった。不安や迷いがあった青年期のためかもしれない。私は公募に応募して助教授や教授になった経験がない。時の流れに身を任せて昇進したようなものだ。ただ、与えられた身分に対して精一杯努力・活躍し、期待は裏切らなかったと思っている。若い方の何かの役に立てばと思い、昔を振り返った。今はこんな人事はないし、現状をきちんと調べないで昔話を記憶に頼って書いただけなのかもしれない。個人的に聞きたいことがあれば連絡してもらいたい。


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