復讐はしなくていい~因果応報の法則~
【50代からの仏教生活】仏さまは必ず見ている。因果応報の法則~仏教の教え〜
こんにちは!仏教ブロガーのカネコです。
「やられたらやり返さないと気が済まない!」 「あいつに同じ苦しみを味わわせてやりたい……」
誰かにひどいことをされると、どうしてもそんな復讐心が湧いてくるものですよね。そのために時間も、エネルギーも、時にはお金まで使って相手を追い詰めようとする。でも、それって実はものすごく「もったいない命の使い方」なんです。
今日は、「復讐はしなくていい。なぜなら因果応報の法則で相手は自滅するから」という、ちょっと心が軽くなる(そして少し怖い)仏教のお話をしたいと思います。
本日の目次
最低の幸福感
因果応報の法則
仏様は必ず見ている
1. 最低の幸福感:そのエネルギー、どこに使ってる?
復讐心というのは、仏教でいう「愚痴(ぐち)」の心から生まれます。愚痴といっても、単なる愚痴をこぼすことではなく、恨み、妬み、そねみ、憎しみといったドロドロした心のことを指します。
特に、自分を苦しめた相手が幸せそうにしているのが許せない。「あいつが不幸になればスカッとするのに」と思う心、これが愚痴の本質です。
親鸞聖人は、この心を「蛇蝎 (じゃかつ)のごとし」、つまり「ヘビやサソリのようだ」と言われました。それほど見にくい心なのです。
【ランプの魔人のジョーク】
こんなジョークがあります。 ある男(A氏)の前にランプの魔人が現れ、「望みを一つだけ叶えてやろう」と言いました。ただし一つ条件があります。「お前の望みを叶えるのと同時に、お前の大嫌いな隣人(B氏)には、お前の2倍のものが手に入る」というのです。
A氏は考え込みました。 「1億円もらえば、あいつは2億円。新築の家を建てれば、あいつは2軒……。それは許せん!」 悩んだ末、A氏が言った言葉は何だったか。
「俺の片目を潰してくれ」
自分が傷ついてでも、相手をそれ以上に不幸にしたい。そんな「人の不幸でしか幸せを感じられない」状態は、幸福感の中でも最低の幸福感です。そんな不快な人のために脳内の貴重なスペース(エネルギー)を使うのは、自分を自分でおとしめる行為なのです。
2. 因果応報の法則:あなたが手を下さなくても……
仏教が一貫して教えるのは「因果応報(いんがおうほう)」、つまり自業自得です。 自分のやった行いが原因となって、自分に結果が返ってくる。誰かがあなたを傷つけたなら、その人は必ず、自分で自分の人生を傷つける結果を受けることになります。
宇宙の法則は、私たちが復讐しなくても完璧に機能しています。
「鉄から起こった錆(さび)が、そこから起こったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業(ごう)が罪を犯した人を悪いところにみちびく」
まさに「身から出た錆」。悪いことをした人は、その自分の「業(カルマ)」という強い力に引っ張られて、自ら不幸な運命に突き進んでいくのです。
「あいつ、あんなに悪いことしてるのに、のうのうと幸せそうだよ?」と思うかもしれません。しかし、そこにはタイムラグがあるだけです。投げたボールが壁に当たって跳ね返ってくるまでに時間がかかるように、因果の報いも必ず返ってきます。
3. 仏様は必ず見ている:ネットの匿名性も関係なし
仏教では、仏様は「見・聞・知(けんもんち)」のお方だと言われます。 「見てござる、聞いてござる、知ってござる」……。あなたがどこで何をしようが、誰にも聞こえないようにコソコソ話そうが、心の中で何を思おうが、すべてお見通しだということです。
私たちの行いには3つの通りがあります(これを三業(さんごう)と言います)。
身業(しんごう): 体でやる行い(見ることができる)。
口業(くごう): 口で喋る行い(聞くことができる)。
意業(いごう): 心で思う行い(誰にも知られないが、仏様は知っている)。
最近はネットやSNSで、匿名で誰かを攻撃する人が増えています。「裏アカだし、バレないから大丈夫」と思って「死ね」なんて書き込む。でも、仏教の視点から見れば、それは全く「大丈夫」ではありません。
以前、私のメルマガにこう書いたことがあります。
仏教では私たちの行いを業(ごう)(カルマ)といい、
人が知る知らないは関係なく、それは業力となって自己の中に蓄積すると説かれています。
口で発した言葉も残ります。
ネット上では、現実の生活では口にできないような汚らしいことや醜いことを書き込んだって大丈夫だ、
名無しさんだし、ポンと遠くへ放ってそれっきり、
その日のストレスを発散しただけだ、と思っているかもしれませんが、
書き込んだ言葉は、どんなささいなつぶやきでさえ、
発信されると同時にその人の内部に残ります。
自己の発した「氏ね」という言葉は、書き手の中に蓄積して、もう消えないのです。
そう書いてかまわない、書いてやろう、という感情とともに。
そして溜まり、積もった言葉の重みは、いつかその発信者自身を変えていきます。
どんな形で発信しても、発信した本人と切り離すことはできず、
必ず本人に影響を与えずにはおきません。
裏アカウントを使ったり、IPアドレスを変えたり、いかに巧妙に正体を隠そうとも、
他の誰でもない発信者自身はそれが自分だと知っています。
人は知らなくても、自分だけは知っています。
これを書いたのは自分だ、と。
誰も自分自身からは逃げることはできません。
その言葉が業力となってその人に影響を与え、人格と人生を変貌させていくのです。
まとめ:復讐よりも「自分の種まき」
因果応報の仕組みがわかれば、自分を傷つけた相手に復讐することなんて、本当にくだらないと思えてきませんか? せっかくの短く有限な命を、そんなことに使う必要はありません。
ひどい相手に出会ったら、復讐する代わりにこう考えてみてください。 「あ、あの人は今、自分の錆(さび)を一生懸命作っているんだな。自分は同じような種をまかないように気をつけよう」と。
相手を憎むのをやめることは、相手のためではなく、あなた自身の人生を不快な住人(憎い相手)から解放するために、とても大切なことなのです。
もし何か分からないことがあれば、いつでも聞いてくださいね。
今日もお読みいただき、ありがとうございました。
--- 仏教ブロガー カネコ ---


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