第三節 とき、よりてまつ

 りん、りん、と鈴が鳴る音。

 矢作古川のほとり、松の木の下に、一人の虚無僧がいる。

 虚無僧は普化宗の旅の僧侶で、特徴的なのは、頭をすっぽり覆う円筒形の虚無僧笠である。

「お布施を」

 小鉢を手に、虚無僧は言った。

 葉蔵は首を振って、立ち上がる。


 あたりにコンクリの街はなにもない。ただただ素朴な、ふるい日本がある。


「お布施……すみません、俺、多分。この時代の人間じゃないです」

「ほう? それはまた面妖なり。さりとてここは交錯の結び目。では、食い物を」

「ういろうでいいですか」

 葉蔵は、昨日、松鶴園で購入した抹茶ういろうを、蓋を開けて渡す。

 虚無僧はそれに手を合わせて、一つつまみ、笠を少しだけ上げて口元に運ぶ。


「うまい……」

 静かに、もういちど手を合わせた。

「一個と言わず、全部いいですよ。お腹空いてるんですよね?」

「や、さすがに旅の者から食い物を巻き上げるほど、廃れてはおりませぬ」

「じゃあ、二人で食べませんか」


 そのように提案した。虚無僧は、ふふ、と暖かく笑う。

「これは、一本取られました。ありがたき」


 二人は松のそばにすわった。

 食べ終わったゴミは、葉蔵が責任を持って回収する。

 それから二人は、しばらく無言だった。


「いまって、どれくらいの時期なんですか?」

「……はて。ここは時間がまじわりますので、わたしにもよくわからぬのです。ただ、風景は、そうですな。おそらく慶応、ないし明治でしょうか」


 自分は、百五、六十年の時間を飛び越え、彷徨っているらしい。

「あの。元の時代に帰れますよね」

「無論。むしろ、望んでもこの地にはとどまれますまい」

「よかった」


 虚無僧は、川面を見つめたまま言った。

「貴方様からは、因縁――いえ、宿業めいたものを感じる」

 宿業。

 たしかに、そうかもしれない。

 この奇妙なものは、先祖の、あるいは先祖たちの因業であろう。


「私は――そうですな、時寄ときよりとでも名乗りましょう。貴方様は?」

「葉蔵です。桑守半兵衛葉蔵……十八代目です」

「葉蔵殿の生まれは、平成で相違ないですな?」

「はい」

「では葉蔵殿。私の呼びかけに応じてもらえたこと、まずは感謝を」


 あの「揺れる影」は、時寄だったのだ。

 彼はどうにかして己を葉蔵に知らせるべく、あのバレーボールアイコンの人に写真に撮らせ、SNSサイト――Misskey.ioへアップロードさせたに違いない。


「なぜ、俺を?」

「貴方様が葉蔵殿という確証はございませぬ。私はあくまで時間の狭間に横たわる虜囚に過ぎませぬゆえ。けれども、葉蔵殿ほどお優しければ、つまらぬ嘘はつきますまい」


 葉蔵は、きづくと背筋をぐっと伸ばしていた。農業ぐらしが二年。

 いやでも、筋骨は芯を通したような立ち振舞になる。


さきの世からの話にございます」


 時寄は尺八を取り出して、それを吹いた。

 あたりの景色がくるりと回り、時間が遡る。

 まるで、日本の歴史を、三河史を、――泳いでいるような。


 ――戦国乱世より以前のこと。


 天延三年(九七五年)の夏。日輪が闇に食われた。

 平安時代ともいわれる頃――この地を治めるは吉良氏であったが、吉良荘の成立時期は不正確である。

 しかし、土地はあった。支配者や支配体系はなくとも土地はあり、人はいた。


 男の名は「虎伏こぶし」。

 彼はのちに、馬場源一郎辰蔵、明治はじめの頃には尾崎源一と名を改めている。


 虎伏こぶしはある社家に生まれた。


 延暦一八年(七九九年)、崑崙人が伝えたとされる綿の一大生産地であった三河国。

 平安時代においても、東海道の要衝としてこの地は重要な役割を担っていた。


 いわば虎伏こぶしは「いいところの出」である。

 この男は当時ではありえぬ身丈を誇っており、生まれた頃から鬼だの何だのと言われていた。


 そしてその頃、同じ頃。

 獣ノ杜ししのもりという豊川某所の山で、橘禰きつねの母が生まれた。

 両者は交わることがない運命であっただろう。方や社家の子、方やあやかし。

 しかし、それをすべて書き換えたのが、先述の日輪喪失――すなわち、皆既日食である。


 狂乱狂奔である。

 凶作がおき、疫病がはやり、ついには田畑を捨てて逃散するものが相次いだ。

 虎伏こぶしもそうだ。

 いかに図体が大きくとも、飯が食えねば死に絶える。

 奉公に出されていた粗暴者、虎伏こぶしは実家の社家に逃げていた。


 虎伏こぶしは死にたくねえと心から思った。

 そう思って逃げて逃げて、入った先が獣ノ杜ししのもりである。己の社が何を祀っているのか、そのとき、初めて知った。

 彼は主祭神――狐の妖怪変化と出会い、助けられた。

 彼は妖異に触れていく中で、人の世のくだらなさを味わった。


 ――獣ノ杜ししのもりの地で、わしは骨を埋める。

 そう決めた。

 虎伏こぶしはこの地で生き、戦い、そして、いつしか妖怪に惹かれて。

 土地がそうさせたのだろう。彼もまた、不老長寿の肉体へ変化していった。


 すべてが変わったのは、三河一向一揆でのこと。

 そのとき虎伏こぶし三河三ヶ寺みかわさんかじの一つ、勝鬘寺しょうまんじへの偵察を行っていた。この一揆が、獣ノ杜ししのもりにどの程度の影響が出るのかを知るためだった。

 当時ここいらは混乱の極みにあった。

 吉田城(豊橋市)は今川の一大軍事拠点であったが、牛久保城(豊川市)は徳川(当時は松平)に従順な姿勢を見せていた。

 吉田城は永禄六年の時点では小原鎮実という今川城代が入っており、さらに同年、今川氏真が自ら軍を率い牛久保城へと出陣している。


 皮肉だったのは三河一向一揆によってこの混乱が小康状態に陥ったことである。

 しかし、城内では一向宗(浄土真宗)と松平側で激しく混乱。いちおうは松平への恭順を示していたが、ある若い侍が城を抜け出していた。

 理由は、彼が一向宗であったことだ。


 虎伏こぶしは帰路についていた。己は鬼であるから、寺内町には入れない。阿弥陀仏の気に当てられて、息苦しくなり、死にそうなほどつらくなる。

 健脚者である彼ならば、勝鬘寺から牛久保城、そして獣ノ杜ししのもりへは一日でいける。

 夜半、城を見ると、妙に物々しい。いつ、切った張ったが起きるかわからぬとなればむしろ当然か。

 虎伏こぶし獣ノ杜ししのもりへ入った。小さな山である。


 そこで彼は見た。

 見てしまった。


「あっ――貴様」

 ある侍――城を抜けた、追われた侍――が、橘禰きつね姫の母を、虎伏こぶしの主を脇差しで刺し殺していたのだ。そして骸から、金目のものがないかをまさぐっている。

 侍はこちらに気づくと、「くっ、貴様っ」と声を震わした。そうして、いかなる伝手でそれを手に入れたのか、ずいぶんと大振りな太刀を背おっており、それを、鞘ごと腹の前に回して抜刀する。


 虎伏こぶしは無手。だが、自慢の健脚と剛力で突進し、刀が降ろされるのに先んじて、具足の腰に組み付いた。

 そしてそのまま、ぐわっと体を持ち上げて、地面に叩きつける。

 侍はこのとき腰を砕き、もはや放っておいても死んでいたのだが、虎伏こぶしは怒り狂い、馬乗りになって、ひたすらに殴り続けていた。


 泣いた、泣いて、泣き続けた。

 申し訳ありませぬ、姫様。

 御母上をお守りできませんでした。

 どう詫びても許されることではない。


 強くならねば。

 一向宗だろうが、松平だろうが、知るものか。

 姫様の隣りに立つに足る男になり、ここへ戻る。

 そう決めて、虎伏こぶしは立ち上がった。

 侍の大太刀と脇差しを奪い、そして、彼は故郷を出奔する。


 このとき、半兵衛――桑守葉蔵の先祖の生家、そして今も残る桑守家の土地は、目と鼻の先であった。



 源一郎はその後、徳川討つべしという目的と、半兵衛という生涯の宿敵との遭遇を経て。

 明治という世を迎えるに至る。



 平安時代には虎伏こぶしと、戦国乱世には馬場源一郎辰蔵と名乗り、その後、明治には尾崎源一と名乗った男の最期は、あまりにも因果なものであった。


 妻のみなとと、次女のいねが連れ去られた源一は、愛知県警第四課の職を辞し、かつての大太刀と脇差し、具足をまとって八ツ面山へ駆けた。


牛場五郎左衛門うしばごろうざえもんを覚えておるか」

「牛場?」

「その脇差し、大太刀、どう見てもわが先祖、牛場五郎左衛門のものだっ!」


 犯人の男は、「牛場恭平うしばきょうへい」と名乗り、その手には、どこで手に入れたのかスナイドル銃が握られている。

 すでに妻といねは撃ち抜かれ、死んでいた。

 ――愛するものをなくすとは、こういう気持ちなのか。

 奇妙な、空虚が胸を掻いた。


 ――愛など知らぬほうが良かった。


「なぜ刀を抜かん!」

「もう……疲れた」

 源一は、ざくりと大太刀を地面に刺した。

 そうしてその場に結跏趺坐けっかふざし、言う。

「好きにしろ」


 ――怒り狂い、斬り狂い、血を浴び暴れのたうった男の最期は、あんまりにも静かで、あっけないものだった。


 なお。

 こののち、牛場恭平は源一の長女よねを討たんとするが、異変を察した第四課が尾崎家に訪ねてきており、そこで取り押さえられた。

 すでに仇討ちが禁止されていた明治十一年のことである。

 ――厳しい処罰が降ったのは、いうまでもない。




 さきの世の話は続いた。

 源一の嫡女・よねはその後、嫁ぎ。

 悲惨な時代をひもじくも、たくましく生きて、子を残した。


 そうして。

 平成八年(一九九六年)。

 美代みしろはこのとき十九歳であった。


 今では更地となっているそこは、二〇二一年頃まではコスモジャパンというパチンコ店が大きくそびえていたのだが、それより以前は、ヤオハンという大きな店が建っていた。


 美代はその店で働く、レジ打ちの一人に過ぎなかった。

 彼女はある晩の帰り道に、酔漢に絡まれて、立ち往生していた。


「やい女、俺らに酌くらいしたらどうだん。おぉ?」

「へっへ、おらっ、こいやおう」


 地元の暴走族だろうか? いかにもな風采の連中だ。

 ヤニ臭い。どころか、わずかにシンナー特有の刺激臭もする。

「やめてください、私、そういう遊びは」

「るせえや、こいオラァ!」

「きゃぁあ!」


 美代は髪を引っ掴まれた。路地へ引っ張られる。

 まずい、まずいと鼓動が早まる。

 そのときである。原付に乗った若い男が降りてきた。

 まだ中坊であろうか? 若い二人連れだ。

「おらてめえごら、女が嫌がっとるだら!」

「囲んで手籠めたァやるじゃねえかおう。ヨウ、おめえちっこいほうでいいら」

「るっせえなヒロ。てめえこそちびでいいら」


 中坊とは言うが、気概はもはや大人のそれ。

 喧嘩番長と言うやつだろうか? ふたりとも、腕が随分と太い。

 ヨウという方は眉が太く、肌は褐色に焼けている。農家の子だろうか? 背筋に鉄でも挿したように真っ直ぐな体幹である。

 一方のヒロという中坊は小柄だが、やはり筋張っていた。


「んだァ中坊! 女遊びははえェら、おかんの乳でもしゃぶっとけ――ぶっァ!」


 喧嘩っ早いのは、ヒロの方らしい。

 小柄とは思えぬ剛腕で、挑発するちびをぶっ飛ばす。ちびとは言うが、ヒロより、十センチはでかい。

 けれど勝敗は、拳一撃で決まりだ。

 顔貌に鉄拳を食らった男はもんどり打ってぶっ倒れ、鼻血を吹いて「いてぇよぉ」と泣いている。


 美代は情けないと思った。

 こんな男に、私は、やられかけていたのかと。


「てめえっ、ただです――」

 今度はヨウだ。

 彼は大柄な男の股間を、思いっきり蹴り上げる。

「ほぎゃァ!」

 悲鳴を上げて、大柄が股ぐらを抑えてうずくまり、倒れた。


「おめえ卑怯だら今の」ヒロも呆れていた。無論、美代も。

「うるっせえなあ。乙女を路地に引っ張り込んだ野郎に卑怯もくそもねえら」


 美代はむっとした。

「ちょっと、乙女って何! あんたたち中坊でしょう! 私のほうが歳が上! 生意気なやつらだわ」

「おっ、おお。悪い。すまん」

 ヨウがあわてて謝罪した。

 ヒロも、ツレ思いなのだろう、頭を下げる。


「ごっ、ごめんなさい。ヨウ――桑守のやつ、こいつ土いじりしかできんようなやつで」

「黙れバカ。おらいくぞ。あんま遅えと親父にぶん殴られら」

「たァけ。もう十一時だ。どのみち俺等揃ってどつきまわされらァ」


 ヨウ、という男の子は、どうやら桑守という姓らしい。そして、やっぱり農家だ。

「あのさ、桑守君と、ヒロ君?」

「んー?」

 となりで「俺だけあだ名だ。俺のほうが好かれとるら」というヒロのケツを蹴り飛ばす桑守。

 なんか、微笑ましかった。


「あのさ、今度お礼させてよ。高いもんはむりだけどさ、どう?」

「ええ? 別にいいって。んなの。なァヒロ――」

「俺っ、山寺っていうだよ。山寺博明やまでらひろあき! お礼と言わず全然もう電話番号も! あ、でも親が出るで、七時までの間で」

「バカコラなに言っとるだ」


 この時代、連絡は固定電話が普通。

 下手に異性に電話をすると、親が出て気まずいなんてことが日常であった。

 なので若者は符丁――ツーコールのあとにもう一度かける、時間を決めるみたいな、そういうルールを使って親が電話口に出るのを回避していた。


「山寺君ね。あー。じゃあさ、さんかい行かん?」

「だから礼なんかれることじゃね――」

「行く行く! 日曜日でいい?」


 ぱんっ、と桑守は山寺をひっぱたいた。

「あほっ、お前っ、こういうときは謙遜しろっ」

「けどよぉ、こんな美人との御縁なんか、俺等見てえな田舎者にはねえら?」


 美代は面白かった。

 これが、桑守葉蔵の父、十七代目葉蔵と、

 新田研屋に女婿に入る、のちの新田博明しんでんひろあき

 そして十七代目葉蔵の妻となる――。


 美代の、その出会いだった。


   ✧


「これが前の世から伝わるお話にございます」


 葉蔵は、心臓がおかしな脈打ち方をしているのを自覚していた。


「待って、くれ。俺は、桑守半兵衛だけじゃなくて。……馬場源一郎の子孫でもあるのか?」

「はい。ひとも、あやかしも、ときに、かみもほとけも。嘘をつきまする。

 しかし土地だけは、嘘をつきませぬ」


 父と母は。――両親が、半兵衛と源一郎の子孫。

 己は、その交差点。

 いろんなものが、浮かんでは消える。

 自分は、鬼の血を引くということになるとか。

 なんで、殺し合った血筋の果てに己が立っているのかとか。

 なんで、なんで、なんで――。


「このことを、源一郎は?」

「あやつは過去に囚われておりまする。いや。もはや、源一郎殿と呼べるものかどうかも危うい」


 虚無僧は言った。


「よろしいか。あれは生者にあらず。死に人。亡者、怨霊ありまする」


 虚無僧が、――時寄がりんりん、と鈴を鳴らす。

「お時間です」

「ああ。……あの、時寄さん」

「はい」

「ありがとうございました。それから、お疲れ様」


 時間を寄り、合わせ、まつその虚無僧が。

 顎を引く程度に頷いたのがわかった。


「おかえりあれ。元の時間へ」


 りんりん、と鈴がうたう。

 それが、昔語りの締めくくりであった。


 視界がうすく、ぼやけている。

 曇天。一人の女が、己を見ている。

橘禰きつね

「起きましたか」

「ああ。……なあ」

「はい」


 葉蔵は、責めるつもりも、ただすつもりもなく。

 ほとんど独り言のようにいう。

「全部、知ってたんだよな」


 虎伏こぶし、馬場源一郎、尾崎源一、尾崎美代の。

 初代桑守半兵衛、十七代葉蔵のこと、今生の葉蔵を。

 そして。


「俺達のこと」

「……はい」

「くわもり――と。なぜ、俺に助力を請うのか不思議だった。なぜ、親父や祖父じゃないのかと。やっと、全部わかった」


 ――自分が。

 ――半兵衛と、源一郎、両方の血を継ぐから。


「君は、――祟り神だな」


 葉蔵はいった。

 橘禰きつねは、二度、三度、うなずいた。


「はい。半兵衛様と結ばれず、死に果てた憐れな狐にございます。源一郎様は、私が亡者とは知らぬのです。生きている、美しい娘と、そう思っておられまする」

 橘禰きつねは続けた。その姿は、ボロ切れの着物の、しわがれたミイラのような姿に腐り変じていく。

「この術も、限界にあります。お前様に伝えた狐門ノ術きつねもんのじゅつ、その応用。反魂狐門ノ術はんごんきつねもんのじゅつ。世界を覗くのではなく。世界に、美しい娘として、私をのぞかせておりました」


 怨霊は、カメラには映らない。写っても、曖昧な姿で処理される。

 源一郎も、時寄も。

 きっと。

 寝拠多ねこた橘禰きつねも。記録には、残らない。


 彼女が大塚で狐門ノ術きつねもんのじゅつで覗かれそうになったとき、避けたのも――。

 ときおり、寂しそうだったのも。


「おわらせ、て。ください。この、いん、が。しゅく――ごうを」


 ばらばらと、橘禰きつねが崩れ落ちた。

 その中には、ひとつの弾がある。潰れた金属の弾。

 おそらく、尾崎源一――源一郎を撃ち抜いたスナイドル銃の弾丸だろう。


 葉蔵はそれを、もう、塵となって消えた、惚れた女の残骸から拾い出した。


 雨が降っている。

 ただ、雨が降っている。

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