第四節 古戦場がつなぐもの
天正三年(一五七五年)、三河国と遠江国の国境いで起きた戦がある。
のちに長篠合戦と言われる
およそ五万三千人の将兵が参加したといわれ、武田方の「騎馬武者」と、それを迎え撃つ「馬防柵」と「鉄砲三段撃ち」の織田・徳川連合軍を描いた「長篠合戦図屏風」が有名だろう。
実際には、武田方も鉄砲を持ち、激しい撃ち合いがあったとされている。
では、なぜ織田・徳川連合軍が勝利したのか?
むろん、戦には一つの理由だけで勝敗が決するケースは非常に稀であるが、ここでは「織田・徳川の鉄砲の性能」に焦点を当ててみることにする。
まず、織田は南蛮貿易で、質のいい硝薬と鉛玉を用意できていた。そこには、肥沃な濃尾平野を含む収入源や、交易路、海運拠点を支配する圧倒的な経済力が背後にあったことが要因だ。
じっさい、出土された鉄砲玉の鉛の組成を調べると、それは国内のものではなく、中国や東南アジア、タイなどの鉱山のものと組成が一致している。
余談であるが――。
いうまでもなく、鉄砲の扱いが弓より簡単とはいえ、当時の火縄銃は撃つまでの手間ひまがとても長い。当然、それを覚える訓練はいるだろう。
まず、以下の手順を踏まねばならないことを共有したい。
①
②筒(銃身)の下部に備えられているカルカ(槊杖)で筒の中の玉を奥まで押し込む。
③火皿に火薬を盛る。火皿から筒の中へと穴が空いており、これが導火線の役割を果たす。
④火皿の蓋を閉じる。これが今で言うセーフティだ。そうして火縄を火挟みにつける。
⑤頬付で狙いを定める。
ここで火蓋を開けて、引き金を引くと玉が発射されるわけである。戦いの火蓋が切って落とされた、という言葉があるが、これは火蓋を開けるという動作を指している。
⑥「放て」の号令を待ち、引き金を引く。
ここまでの工程を、素人が一昼夜で身につけられるだろうか? どこかで馬鹿をやらかし、とんでもない事故を起こしそうである。
当然、訓練がいるし、三段撃ちをできるだけの頭数を揃えるだけで一苦労だ。
くわえて、信長公記などの信憑性の高い一次資料には、この三段撃ちの記述はない。
ゆえに、実践の中で偶発的に生じた現象が、この三段撃ちではないかと考える風向きも現代にはあった。
という話を、たった今エントランスで買った本で読んでいた葉蔵は、顎を撫でて長篠設楽原歴史資料館の屋上から、古戦場を眺める。
本の表紙には「古戦場は語る 長篠・設楽原の戦い」とあった。
「新城市設楽原歴史資料館 編」とある。
「俺が見た夢は、関ヶ原だった……はずだ」
宇喜多方の剣片喰家紋。あれは、関ヶ原西軍の武将のもので相違ない。
しかし長篠の戦は織田信長、徳川家康、武田勝頼が主な武将として挙げられる。
それぞれ、当時四十一歳、三十二歳、二十九歳。現代人的な感覚で言えば、ずいぶん、若い。
――
幸若舞、敦盛の一説だ。これは桶狭間前夜に、織田信長自身が言ったらしい。そういって立ったまま湯漬けを掻き込んだという、せっかちな一面も語られている……という。
葉蔵は古戦場から視線を山へ登らせる。
鳥居強右衛門が狼煙を上げた山だ。
天正三年五十四日夜。
武田軍に包囲された長篠城では、絶望的な空気感が漂っていたそうだ。援軍はあるのか、見捨てられてはいまいか。せめて援兵があれば気概だけでも持ちこたえられる。そういう空気が。
そんななか、一侍の鳥居強右衛門が城から出て渡合から川を泳ぎ、雁峰山から狼煙を上げて脱出を知らせると、そのまま
そうして再び山から狼煙を上げるのだが、当然、武田方もこの異変を見逃しはしない。
鳥居強右衛門はあえなく囚われ、医王山に陣を構える武田勝頼の前に引き出された。
そのときに、このように持ちかけられたという。
「お前の武勇は大したもの、わしに仕えるがいい。城内のものへ援軍はないと知らせろ。その落城は、お前の手柄。それをもち、仕えるがよかろう」
そうして十六日、鳥居強右衛門は武田が選挙していた長篠城弾正郭にて、このように叫んだ。
「援軍は来ている、もうしばし辛抱せよ!」
怒り狂った武田勝頼は、武勇ある鳥居強右衛門を見逃すべきという家臣の意見を無視し、寒狭川を挟んだ対岸で磔し、処刑したという。
「俺に同じことはできねえ」
葉蔵は、山を見ながら言った。それは、鳥居強右衛門のような勇気ももちろん、武田勝頼のような一定の冷酷さを持つことも、ためらわれた。
怖い。当然だ。自分は現代人なのだ。
「あの女の人……なんだったんだ」
暗がりではわからなかったが。ぞっとするほどの美女だった。
髪は、よく見ると赤褐色より明るい、揚げ物の衣のような色だった。いわゆる、きつね色である。
まだ目を覚まさない。
祖父母は、山で暮らしているとああいう「ワケアリ」と出くわすことがあるという。
大抵は自殺者だったりするのだが。
(あんなきれいな人でも、死にてえとか思うだな)
葉蔵は美男子とは言い難い。だから、美人の辛さはわからない。悲観するほどの面立ちではないとは思う。過去に、恋人と言える女性は、一人いた。今はもう、別れている。東京に出るときに、別れたのだ。
この二年の農業生活で筋肉がつき、日に焼けた彼は、たくましさだけは一人前だった。
田舎者極まれりなどと言われたらそれまでであるが、もし馬鹿にされたら、言い返す度胸は戻っていた。
気概が戻っているから、自死を不思議がるわけではない。不思議と葉蔵は、どんなにひどいことを言われようが、されようが、死にたいと思ったことは一度もない。
生きたい、と思ったことは、数え切れないほどある。
(…………)
長篠の土地には、おとら狐という狐がいるそうだ。
櫓で戦を見物していた狐で、流れ弾で左目を失った狐である。
その後の顛末も、なんとも可哀想なものであるが。
「はっ。まさかな」
きつね色の髪。戦を見ていたおとら狐。
――桑守家の家紋が入った、羽織を着た、あの美女。
「ありえんら」
葉蔵は、なぜか寒気を感じていた。
そうして、そそくさと帰路につくのだった。
帰りの電車で、葉蔵はまた夢を見ていた。
鬼が、〝幽鬼〟が、大太刀を手に握り、迫っている。
二度、三度と刃が交じわる。
〝自分〟は槍を持ち、それを防いでいた。太刀打ちと槍の石突の中程で敵の刃をいなして、防ぎ、ときに躱す。
反撃しようにも、相手の膂力は並外れていた。速度も、反射も、異様である。
こちらの持槍の柄が、ばくんっ、と真っ二つに割られた。
自分はその槍を投げ捨てて腰から無銘を抜き、迫る相手の大太刀を抑えるようにして、競り合う。
――他者を思いやる心なぞ、武士にはいらぬ!
――わしらは眼の前の敵を殺すための、武具と武技にすぎぬ!
――わからぬか、半兵衛。貴様ほどの男が、なぜ!
血のような、真っ赤な具足。兜には、鬼の如き角をいただく。面頬も鬼を象る、恐ろしい面相。目は、紫紺に燃え盛っている。
――わしは、心の狭い三河者。
――仕えられる主君は、一人がせいぜい。抱えられるものなぞ、一族郎党で手一杯よ。
――貴様にはついてはいけぬ。怨霊がァ!
弾き飛ばす。己は――半兵衛は、怒鳴った。
「逃げェい姫! わしが、こやつを斬り伏せてくれる!」
なんだこれは。戦国時代には、怨霊が実在したのか?
姫と言われた女をちらとみる半兵衛だが、すぐさま、鬼武者の怨霊が切りかかってくる。
――
半兵衛と切り結ぶ鬼武者が忌々しげに舌打ちする。
すでに、あたりには友軍が迫っている。そこには、鹿角の兜に金数珠を肩から提げた本多平八郎忠勝の威容も。
――勝負を預ける、桑守半兵衛葉蔵。
そういって、鬼武者は、ふわりと夕に溶けるように消えていく。
伸びる朱の日差しが、ずっとずっと、長く伸びている。
アナウンスで目を覚ました葉蔵は、車窓から見える夕日に目を眇めた。
一瞬、窓に、夢に見た鬼が映っていた気がして、びくっと肩を震わす。
(気のせいか)
胸を撫で下ろしつつ、葉蔵は電車を降りた。
故郷の匂いを嗅ぐ。帰りは、歩いて自宅まで行く。少し遠いが、まあ平気だ。
東上駅を出て、山へ向かう道を歩く。
なんだか今日はつかれた。
葉蔵は、さっさと飯と風呂を済ませたら寝ようと、そう決めた。
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