三河霊異記 冥 ― 屍體喰らいの骸桜 ―

三河蕾花(筆刀斎)

撥が手繰る奇縁

 空には秋月。狐の目玉のごとく、すすき色に茫洋と光を放つそれが艶めかしい。

 弦が爪弾かれる音が、月と雲間を泳ぎ滑る。

 力強く、聴く者の背中を押し出し、ときに蹴ったくってでも前へ進ませるような、凛と燃えるような。


 二川宿の街道沿いである。

 女が一人、筵を敷いて、縁のかけた椀をおいて三味線を鳴らしている。

 曲調は聞き慣れぬものである。ここらで歌われるものではない。京で好まれる上品さもない。強いて言えば、江戸の火と喧嘩をする火消し衆が好みそうな。


 ――火事と喧嘩は江戸の花。

 火事を相手に喧嘩をするのは、江戸っ子の粋の一つ。けっして、火事を見世物に、喧嘩っ早さを美談にした言葉ではない。

 命を、土地を奪いさる火という怪物を相手に大喧嘩をする火消し衆の、その生き様を表した言葉。


 撥さばきは佳境である。

 銭の踊る音色すら、すでに曲調の一つか。

 椀には銭が入っている。

 羽振りのいい商人でもいたのか、一枚で百文と謳う、その実八十文程度でやり取りされる天保通寶が鈍く月明かりを照り返している。


 ばちが弦を弾く。ゆっくりと落ち着いていき、そして。

 二度、三度。その律動は息を吹き課せす火勢ほせの如く加速し、あたりのひと通りは、行きがけの慰みにではなく、そこに根を張るかのように歩みを止めていく。


 弾き手はいかような人物か。

 三味線弾きの女は黒の小袖に赤い羽織という装いで、長い黒髪を簪で後ろにまとめている。

 死人を思わせる、赤不浄と黒不浄の装い。いやに派手な取り成し。


 じゃらりと、托鉢に銭が入る。

 女は愛想ある笑みを、出入りの商人に向けた。

 しかしその撥捌きは止まらない。

 この混迷の世にあって、なお力強く鼓舞するような音色は、やがて人々を渦巻く熱の中へといざなう。


 酒処の前、その通りである。

 江戸では居酒屋いざけやなどとも言うが、田舎ではただ酒処とか、古めかしくも酒肆しゅしなどともいう。

 小袖姿の町人、動きやすい野良着の農夫。

 あるいは流れ者の浪人。

 一癖ある連中れんじゅうである。明日の暮らしさえままならぬ世。

 

 関ヶ原合戦の翌年、慶長六年(一六〇一年)のこと。

 徳川家康は東海道の集落に伝馬朱印状を下し、それらを宿に指定することを決めた。

 同時に街道の整備を進め、この時を持って、東海道五十三次が徐々に整備されていくこととなった。


 徳川の治世となって久しく、この二川も、天保元年には二川と大岩が併合され、一つの町続きの土地となった。


 ときは天保八年(一八三六年)。四年ほど前からの冷害で作物の育ちが悪く、飢えた人々が、バタバタと倒れる地獄のような時代。

 橋桁の下で行き倒れた僧を、飢えを凌ぐため、乞食が寄って集って喰らう時代。すなわち、人肉食さえ当たり前になりつつある末法。

 のちに、天保の大飢饉と呼ばれるこの数年。

 先立って起きた甲斐国の天保騒動は甚だしく――。


 ――しかし、ときは現代、二川本陣宿資料館で手に入る資料をよくよく見てみると。

 この天保の大飢饉が起きた頃合い、家の軒数の減りはわずか十二。人口に限って言えば、百名近くが増えている。

 全国で二十万から三十万人が飢餓でなくなった大惨事の割に、この地は人死が少ないと見える。

 むろん、それでもわずか数年で百名という決して少なくない命が潰えている事実から、目背けることはできない――。


 気づけば曲調は、静かで郷愁漂うものになっていた。

 ひと通りは散ってしまう。

 しかし女は、儲けになったと思った。むろん、いくら儲けても、肝心の食い物を売ってくれる家がないのでは宝の持ち腐れであるが。


「おい弾き手、シケた唄なんざもういいら。ほいだで、撥を捌くのもいいが、俺のブツをしごいてみろ。おう」

 下劣な文句が飛ぶ。ここらの町人だろうか?

 弾き手の女は曖昧に微笑むばかりで、その場を動こうとしない。

 それが癇に障ったのか、「おい女――」と詰め寄る男を。

 一人の若造がたちふさがり、とめた。

「なんだ餓鬼。ぶっ殺されてえか」


 なるほど餓鬼である。歳は十五かそこら。

 襤褸の着たきり雀。総髪を後ろでまとめている。腰には木剣が差され、しかし上背は五尺五寸と、もう一端の男である。

 筋骨たくましく、肌は浅黒く日に焼けていた。漁民の子であろうか。


「あの女が欲しいだか?」町人が嘲った。

 木剣の男は頷いた。「ああ。ほしい。俺のもんにしてえ」

 周囲が笑うのもやむなし。だが、直後である。

 若造が町人の襟を掴み、己の側に引き込みつつ足払いをかけて、その場に叩き伏せる。ぐえっ、と悲鳴が漏れる。


 あたりで歓声が上がった。つぎつぎ、男のツレと思しき者が数人湧いてくる。

 若造が言った。

「おい、弾き手」

 木剣は、抜かない。

「まだ、撥を止めんなよ」


 返答は、弦の唸り。

 再び始まる、喧嘩節の曲調。

 土煙を上げて、若造が大の男五人を相手に大喧嘩。

 あたりはいい見世物とばかりに大声で囃し立て、賭けが始まり、いっときお祭り騒ぎになる。


 自然と女の口元もほころび、若造は青痣を作りながら「かかってこい!」と怒鳴り上げ、――。


 それが、妖怪変化の娘、緋桜祇玄禰ひおうぎくろねと。

 ――塩崎銀三郎しおざきぎんさぶろうとの出会いであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る