家事をしなくなった母が祖母と叔母と演じた「修羅場」、巻き込まれる子どもたち
母の呪縛5 中学3年生 前編
若林 奈緒音
厚生労働省の発表によると、令和2年度の児童相談書での児童虐待相談は20万5044件で過去最多を記録した。また、別の資料によると、虐待死における主たる加害者は、「実母」が52.6%を占めている。実母による虐待の多さを物語っている。
自身が幼少期からずっと実母からの虐待に苦しんでいたというのが、40代の若林奈緒音さん(仮名)である。彼女の手を見せてもらうとケロイドの跡がのこり、顔も殴られた影響で歪んでしまっているという。奈緒音さんは3きょうだいの真ん中に生まれ、兄と病弱な妹に挟まれてひとり「ターゲット」にされていた。そういうことも一切口にできずにいたが、30代で結婚し、自分をそのまま認めてくれる相手と出会えたことで、自分を苦しめていた母の言動は虐待だったのだと認めることができたのだという。
自分と同じように苦しい目にあう人を生み出したくないと、自身の体験談を共有することを決意した連載「母の呪縛」、前回は阪神淡路大震災を機に、それまで完璧に家事をしていた母が変わってしまった経緯をお伝えした。今回は2歳年上の兄の中学3年生のときと自身の中学3年生のとき、つまりそれぞれ進路を考えなければならなかった時期に奈緒音さんが直面した大きな問題についてお届けする。
震災を機に変わった母
1995年1月17日阪神淡路大震災を機に、母は変わっていった。
これまで家事、子育てに対しては神経質なくらいきっちり徹底し、厳しく、父に従順だった母。それが、連日テレビから流れてくる震災の情報番組をポカンと眺め、心ここにあらず。家事全般中途半端になり、手がつかないようだった。あれだけ好きだったパッチワークも、パーツごとに切り分け整理された箱すら触らなくなって、縫いかけのものがそのまま置かれていた。
昔は、二層式洗濯機だったので、洗い終わると脱水層に移し変えなければいけないのに、そのまま洗濯槽に入れっぱなしだったたり、脱水層から干さずにシワシワになっていた。日に日に母のイライラは募っていった。私が学校から帰ると、「バスケットなんてバレーボールに比べたら、たいしたことない、疲れないでしょ。女の子なんだからあんたがしなさい」と怒鳴る。そういわれ、私が脱水機を回し、洗濯物を冬の寒い夜に干すことが何度もあった。
そんな中、受験を控えていた兄に対してだけは、尽くそうとしていた。とはいえ、あれだけ食事に気を付けていたにもかかわらず、兄が食べたいと言えば、ファストフードやハンバーガーを買ってきた。私たちの晩御飯も、冷めたハンバーガーやパンが置かれていることもあった。
父は、長く長距離のトラック運転手をしていたが、震災で横倒れになった阪神高速の映像を見た母の懇願により、母の姉夫婦が経営する親族会社に転職していいた。これまでとは違い、早朝から深夜の仕事ではなく、晩御飯の時間に家に帰って来た。買ったお惣菜をおかずにするのは普通のことだが、母の場合、それまではお惣菜を買うこともなければ、おはぎをあんこから作っていたくらいだ。それなのに買ったお惣菜数品だけを食卓に出すようになり、明らかに「変化」していた。
父方の祖母と叔母が居候することに
震災から少ししたときのこと。家が全壊した父の姉が祖母と共に我が家に泊まりにくることになった。この姉は父のきょうだいの中では次女にあたる。当時夫は先立っており、子供3人は独立していた。仮設テントから祖母の家にいたのだが、元々同居している長男の嫁と折り合いが悪く、数日間ごとに兄弟の家を転々としていたのだ。
母はその義姉から随分いびられていたし、兄の受験があることも理由に断れないかと父に談判した。しかし「困っているときはお互いさまや」と言う父の言葉に抗いきれず、受験が終わる前に迎え入れることになったのだ。母は重い腰を上げ、以前のようなきちんとした家に大掃除をし、伯母たちの部屋を作るために妹と私は部屋を共同に戻された。新しい寝具も用意した。
しかし、我が家に来て早々から、祖母と叔母の小言は子どもながらにひどいと感じた。掃除が行き届いていない、ご飯の味付けが悪い、おかずが少ない。息子にこれしか食べさしていないのか、あんたの姉の会社に転職して給料を減らされているのではないかと繰り返した。また、私や妹には「女はこれくらいできないとダメ」と言っては、身の回りの世話をさせた。
母が限界に達したのは、それから数日経った時のことだった。まだ受験が終わっていない反抗期の兄に対して、祖母がわざわざ部屋にまで行き色々と話しかけるものだから、兄が嫌気をさして「塾に行くと」出て行ってしまった時がある。その様子を見て、祖母たちが「あの態度は何? あんたの教育がなっていない」と言ったところ、母は祖母たちに初めて言い返したのだ。震災の日の朝、父に対して怒鳴ったように。
「いい加減にして! 偉そうに、何様よ。ここは私の家です。居候しているのに、気に入らないなら出て行って。あんたたちが、今まで私に何をしてくれたのよ」
「もう縁切ってもうてかまへん」
父は、泣き叫んだ母を止めようとした。祖母は驚きすぎて何も言い返せない様子で、代わりに叔母がヒステリックに怒鳴り返した。その怒鳴り声を聞いて、また妹が泣いた。父は静かに叔母と祖母に向かって言った。
「もう出ていってくれ。うちにはうちの生活がある。もう縁切ってもうてかまへん」
そして、車に祖母たちの荷物を運び、どこか別の場所に送っていった。それ以降、私たちは父方の親族との付き合いはなくなった。
父が祖母から母を庇い、はっきりと自分の家族はここにいる私達だと言い、愛情を示してくれた。私はこのことが、母に伝わると思っていた。
ところが、父のその思いは母に一切届いていなかった。祖母たちが帰ってからの母は、また兄中心の生活。常にイライラして、母にしなさいと言われて畳んだ洗濯物やまとめた新聞紙の束も、何か気に入らないことがあるとひっくり返し、また一から畳み直す繰り返しだった。肌や髪、体型に気を付け綺麗だった母が、身なりを気にせず、日中も寝ている事が増えた。
今なら、震災の影響からくるPTSDだったのでは? 鬱なのか? と想像し、必要な対応ができたのかもしれない。その対応がないままに、私は母の八つ当たり対象であり、怒りのはけ口になっていた。
見宗教の勧誘にいそしむように…
元々母は外面が良く、PTAや地域の集まりなど頼まれたら断れない性格ではあった。その性格が、震災後、新聞や宗教の勧誘という形で発揮されるようになった。兄のために、母はあらゆる神頼みに走った。ある日突然我が家には神棚ができ、宗派が違う聖書が何冊も置かれるようになった。兄の受験が終わり、無事に志望校に入ることができたあと、母はたいてい家の事をせずに写経し、聖書を読み耽っていた。「私たち家族が大震災の中無事でいられたのは神様のおかげだ、お兄ちゃんが無事に志望校へ行けたのも、前世の行いやご先祖さまのおかげ」と言い、私達も聖書等を読むように言われた。
その行為は父と母との関係を悪くした。時を同じくして、家を追い出された祖母が母の姉に「あなたの妹に怒鳴られた、妹にどんなしつけをしているのか」とわざわざ知らせがきたと、姉や姪たちが母に連絡してきたのだ。母を叱るどころか、逆に姉や姪たちは母を気にかけたということだろう。こうして、前回の記事でもお伝えしたように、母は姪と頻繁に出掛けるようになったのだ。いつからか、元気を取り戻し外に出ることの方が楽しくなった母は、神棚や聖書、私たち家族の事も忘れていった。父が姪に苦言を呈したこともあったが、逆効果となった。
◇兄が中学3年生のときに若林さんが目の当たりにした家族関係の悪化。そのこと自体も若林さんの心に影を落としてしまう。後編「いじめをかばってくれた友人との突然の別れ…そのときの母の驚愕の言動」では、若林さん自身が中学3年生になったとき、救ってくれた同級生とその悲しい別れと母とのやりとりについてお伝えしていく。
SHARE
Facebook
X
URLコピー
AUTHOR
- この著者の記事一覧
若林 奈緒音