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料理が気に入らないと箸もつけない父への不満が…私を殴り続けた母「父との関係」

母の呪縛4 前編

  • 若林 奈緒音

親から叩かれる、怒鳴られる、無視される、差別的に扱われる……そんな扱いが、どれほど子どもの心に深く傷を残すだろうか。

厚生労働省が発表している児童虐待の現状でも、令和2年度中に全国220ヵ所の児童相談書に寄せられた相談件数は20万5044件で、過去最多となった。前年から1万件以上も増加しているという。一体どうしたらいいのか。虐待をされる子どもを守り、虐待してしまう親のケアをすることができるのか。

幼少期から母親からの暴力を受けていたのが40代の若林奈緒音さん(仮名)である。
すらっとたおやかな奈緒音さんだが、よく見るとその手には痛々しいケロイドの跡がある。奈緒音さんは3人きょうだいの真ん中で、兄と、病弱な妹との間で自分だけが母親の標的になっていたという。そして奈緒音さんは母自身が親を早くになくして弟妹たちの母親代わりをさせられ、嫁いでからも父の母から冷たい対応をされていたことを知っていた。そして、そんな母の生い立ちが、自分への暴力につながっていることも感じていた。

母の呪縛から解放され、「自分は生きていてもいいのだ」と思えたのは、30代になってありのままの自分を認めてくれる人と結婚をしてからだという。だからこそいま「自分のように苦しむ人を増やしたくない」とその体験を伝えることを決断した。
連載「母の呪縛」第4回は、父親との関係の変化から、母がガラッと変わったときのことをお伝えする。

若林奈緒音さん連載「母の呪縛」これまでの連載はこちら
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食器を愛し、凝った料理を

私が小さい頃の母は、家事、子育てに対して神経質なくらいきっちりとしていた。何百ものピースをつなぎ合わせるパッチワークが好きで、ソファやこたつカバーなど手作りしていた。若くして母が気に入った家を父がローンで買い、払い終わる前に母の希望で3回以上リフォームもした。その中でも、台所は母の城だった。譲り受けた食器やグラス、絵皿を大きな食器棚に飾っていた。

丁寧に家事をする母だった Photo by iStock

当時母はパートにも出ながら、よく凝った料理を作っていた。小豆を炊いてもち米からついておはぎも手作りした。オーブンで手作りピザやパン、ケーキも焼いた。カレーひとつとっても、父に合わせて、辛いものと子供用と分けて作った。丁寧にいりこでだしを取ってお味噌汁やスープを作る。餃子のタネも、恵方巻の中の具材も手作り。幼稚園から小学校の運動会のお弁当や、お正月のおせちはお重に詰め、それは華やかだった。

父は口下手なタイプだ。家族を養うために、稼ぎが良い長距離トラック運転手の仕事を選んだ。早朝から深夜まで働き、二日くらい帰って来ない時もあった。夜勤明けや家にいる日曜日は、疲れ果てて眠っていることが多かった。私たちが寝ている早朝に仕事に出かけ、寝静まった夜中に帰ってくるので、幼稚園までは知らないおじさんのように感じていた。

父に従順だった母

母は、「私達が食べられるのは、服や本が買えるのは、良い家に住めるのはお父さんのおかげ。お父さんに感謝しなさい」と繰り返し言った。父は、テレビのあるリビングで眠ってしまうことが多かった。、その時はテレビを見ることもリビングで会話をすることもできない。父が「うるさい」と起きてしまい機嫌を損ねれば、母がすぐに私たちの耳を引っ張って二階の部屋に閉じ込めたからだ。食事中はテレビがついていたがチャンネルの主導権は父のみ。クラシックなどの音楽番組、大河ドラマや時代劇、日曜ロードショー、野球を好んでいて、子供たちにとってはつまらなかった。食事中に学校であったことなどを話すと、テレビが聞こえないと父が怒鳴る。すると母に怒られるので、静かに食べた。父のいる食卓に、楽しい家族団らんはなかった。

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父がいる日は、たくさんの種類のおかずが並んだが、父は食の好き嫌いが多く、口に合わないと何も言わず黙って箸を置き、お酒だけ飲み続けた。それを見ると、母は文句も言わず下げる。父に対して、母は本当に従順だったのだ。しかし、私たちが好き嫌いをしたら食べるまで許されなかったし、叩いてでも、無理やり口に押し込んででも食べさせた。父に対する怒りや苛立ちが、そのまま子供たちに向けられているようだった。だから家族で晩御飯を食べることが子供の頃から苦痛でしかなかった。

いつも丁寧に料理をしていた母。父がいる日は特にたくさんの種類のおかずが並んだが、家族でワイワイ食べる団らんはなかった Photo by iStock

今なら、手間暇かけて作った食事を黙って残されることが悲しかったし腹も立ったのだろうと想像できる。その怒りは子どもたち、中でも私に向けられていたのだ。

阪神大震災で割れた「母の宝物」

中学一年生の1月。母が慕っていた祖父が亡くなった。それから間もない17日5時46分、阪神淡路大震災が起こった。暗闇の中、大きな音を立てて本棚や食器棚が倒れた。父がそれぞれの子供部屋に駆け付け、下のリビングに連れて行き、懐中電灯やライターで辺りを照らした。我が家は幸いにも1時間ほどで電気が点いた。リビングと隣り合わせのキッチンの方を向いて、母がへたり込んでいた。

母の目の前には、これまで大切に扱ってきた食器の数々が無残に割れていた。
お手伝いの際に私たちが割ろうものなら、顔が腫れるほど叩かれた食器だ。母にとっては宝物だった食器は床に散らばり、その上には前夜に支度していたスープや調味料などこぼれていた。母は歯を食いしばって泣いていた。ひとつひとつ拾い眺める母に、父が「いまはそんなもんええやろ。あとにしろ」と言う。その瞬間、母は初めて父に向ってヒステリックに怒鳴り声をあげた。「私の気持ちなんてわからないでしょうが!」父も驚き、「なんや!」と大きな声で反論しようとしたが、妹が泣いたので父が抱きあげた。それから、母が子供のようにわんわん泣いたのが印象深く残っている。

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それから母はほとんど口を聞かず、台所の片付けから始めた。割れた食器の破片を、一つずつ大事そうに段ボールに入れていった。そして、それを捨てるわけではなく、台所の勝手口から庭に出たすぐ傍に積んだ。いつか直すつもりだったかもしれない。

この時から、だんだんと母が変わっていった。

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父が母の親戚の会社に転職

たくさんの方が犠牲となってしまった大震災の中、我が家は幸いにも食器が割れた以外は、大きな被害はなかった。。学校も数日の休校ののち再開された。兄は高校受験を控えており、母の兄に対する気の遣いぶりは尋常ではなかった。また、震災の朝以来、父と母との間にこれまでと違った空気が生まれた。

さらに、震災時のゆがんだ高速道路を見た母の懇願により、父は長距離トラックを辞め、母の姉の夫が経営している建築関係の会社に勤めるようになった。その会社には母の姉たちの夫、弟も勤務している親族経営だった。父方とはだんだんと疎遠になっていく中で、母は自分の家族、姉達と親密になり、感謝を口にするようになった。それまで父に口にしていた感謝が移ったようだった。そしてこれまでの一家の大黒柱だと感謝していた父への態度も変わっていった。

まるで解き放たれたかのように、それから母の家族へのかかわり方も大きく変化していったのである。

◇阪神大震災は母にとっての大きな「転機」のようだった。後編「私のことは殴っても父に従順だった母が、「家事をやらない人」に急変した理由」では、父が転職したあと、人が変わったようになった様子をお伝えする。

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