「高等小学校化」する大学
もともと「大学」という存在は、学術研究を中心に専門の研究を志して進学してくる場所でした。社会を支える様々な職業の中では、かなりマイノリティ(のはず)でした。
いまから約90年前、昭和10(1935)年の日本での大学など高等教育進学率は2~3%程度しかなく、極めて特殊な「研究」などに早くから志のある人が進学するところが大学でした。
夏目漱石の「吾輩は猫である」に出てくる「苦沙弥(くしゃみ)先生」のような一風変わった人が行くところという認識が世間一般にはあったようにも思います。
約100年前、昭和元年の進学率はさらに低く、データが定かでないレベルです。戦争末期の昭和19年でもせいぜい5%程度、つまり100人いれば95人にとって、大学などの高等教育機関は自分に関係のない一部の人が行く場所にすぎなかった。
私の父は昭和19年に進学し、そのまま学徒出陣でシベリア抑留された経験がありますが「鈍物化して秀才となる」(編集部注:あえて鈍い人物を装い本質的な知性や創造性を発揮するという意味)など、風変りなことをいろいろ言っておりました。
それが高度成長期に入ると昭和35年で約10%、昭和45年だと25%弱、平成元年だと短大を含めた大学進学率が4割近くになり、西暦2000年には4年制大学だけで40%。2010年は4年制だけで50%、2020年の4年制、短大合計は約6割と、国民の過半数が「大学」と名のつくところに行くようになりました。
でも、そんなに多くの人が「学術」に興味を持つわけもなく、逆に人口の大半が学者さんでは社会も成立しません。当然、大学は空洞化していかざるを得ない。
いま大学に進んでくる人、例えば私の講義を受けている東大の新入生に挙手してもらうと、やりたいことが決まっている学生はほとんどいません。
いくつか異なる興味を持っている学生が6~7割。一方、特に何も(人生で)やりたいことがないという学生も、1~2割程度はしっかりいます。
「それじゃ、何しに大学に来たの?」とは学生に訊きませんが、その実のところはよく分かります。
要するに、周囲に言われ、また成績など取っておくと良いだろうという、運転免許とほぼ同様の「消去法」で進学してきている子供が少なくないわけです。
一方、「大学の専門なんて、世の中に出ても役に立たんぞ」などと教えてしまう親も珍しくなく、ますますもって「日本の大学」は空洞化に拍車がかかってしまいます。
でも、そうでないケースもあります。
むしろ「医療系」「福祉系」大学、そして「音楽大・芸術大」などの方が、目的意識をはっきり持った学生を多く見ます。
ちなみに昭和初期、日本の「高等小学校卒業率」は40%程度、1936(昭和11)年に66%という数字がありますので、約100年前の「小学校卒業程度」の割合が、21世紀の今日「大学出」になっている勘定です。
それだけ、全人口の知的水準が上がっていればいいのですが、残念ながらそのようにはなっておらず、各大学で「リメディアル教育(小中高校で習う内容を大学生にもサポートするような補習)」は一般的で、その専門組織「日本リメディアル教育学会」まで立ち上げられている。
つまり、21世紀の大学は20世紀前半の「高等小学校」に進学率の面では「漸近」しているわけで、「それが学力でもそうなっていないか?」というのが、大学教官としての素直な私の懸念です。
今の日本の教育の空洞化は、隠そうとしても隠し切れない事実と言うしかありません(実は、それが政策的に導入された経緯がありますが、これは深い内容なので別稿を準備してからにする予定です)。