『日本書紀』系図一巻に継体父系系譜は掲載されていたか
『日本書紀』『古事記』は天皇家の血統の正統性を証明するための歴史書である。その中にあって「誉田五世孫(応神天皇の5世子孫)」を名乗る継体天皇の応神から継体の間の系譜は記紀に記されていない。現在の皇統譜は平安時代の『釈日本紀』に引用される『上宮記』一云にある継体系譜を採用しているが、それにしても本居宣長が「事闕たり(おかしい)」と批判するように記紀に応神から継体に続く系譜が載っていないのは不審である。
この点に関して黛宏道の先行研究が存在する。黛は継体と同じように遠縁から即位した中華皇帝と正史の上でのその記述形式を検討する。それによれば六世子孫から即位した後漢の光武帝が正史でその間の景帝から光武帝に至る系譜を全て記載しているのに対し、蜀漢の昭烈帝(劉備)は景帝の19世子孫であるが、その中間の系譜は『蜀書』に載っておらず、継体と違って『三国志集解』など他の史料にも系図は載っておらず、全くの不明である。黛は後者の例から血統の正統性を大切にする正史にあっても必ずしも系譜を全て載せる訳ではないと結論する[1]。
また黛は中国の史書は『日本書紀』のように別巻で系図を持たなかったため、光武帝は系譜を本文の中に挿入する必要があった。『日本書紀』には本紀三十巻の他に系図一巻が存在し(現在は散逸している)、継体の父系系譜はそこに掲載してあったため本紀で重ねて系譜を記す必要がなかったという。このような黛の主張は現在かなり有力な学説になっている。本論はその『日本書紀』系図1巻(以下「系図」)に継体の系譜が載っていたかどうかを検討する。結論から言えば、載っている可能性は低い。
先述したように現在の皇統譜は『上宮記』に載る継体系譜を採用しているが、実はこの系譜が正しいと認められたのは近代に入ってからのことであり、それ以前には天皇家も継体系譜を一つに絞れていなかった。というのも『上宮記』の継体父系系譜は
凡牟都和希(応神天皇)─稚野毛二派皇子─意富富杼王─乎非王─彦主人王─継体天皇
というものだが、中世の『水鏡』『愚管抄』『神皇正統記』には
応神天皇─隼総別皇子─男大迹王─私斐王─彦主人王─継体天皇
という全く別の系譜が掲載されている。漢字表現の変化はともかくとして『上宮記』では継体は稚野毛二派皇子の子孫だが、『水鏡』では隼総別皇子という別人の子孫になっている点は重大である。『神皇正統記』を執筆した北畠親房は小鳥であるサザキ(仁徳天皇)の血統は断絶し、大鳥である「隼」総別皇子の血統が続いているのは天命であるとまで言い切っている。15世紀の天皇家の皇統譜『本朝皇胤紹運録』には両方の系譜が併記してあり、当時は天皇家ですら正しい継体系譜が不明であったことがうかがえる。
ここで問題にするのはどちらの系譜が正しいかでなく(『水鏡』は歴史書でなく歴史物語である)、『日本書紀』系図に継体系譜が掲載されていたかどうかである。仮に系図に継体系譜が記載されていた場合、(三書の中で最も古い)『水鏡』作者はそれと異なる系譜を載せたことになる。想定しうる理由としては⑴作者は系図を閲覧しなかった、⑵12世紀末には系図は既に散逸していた、⑶やはり書記系図には継体系譜は載っていなかった。
もとより古代のことを断言することは難しいものの、やはり⑶がもっとも妥当性が高いと思われる。『水鏡』の作者は詳しくは不明であるが(中山忠親?)、歴史に精通する中央貴族であることは疑いがない。その作者が歴史の大著を著す時にあえて系図を閲覧しない理由がない。また何らかの理由で『水鏡』作者が系図を閲覧しなかったとしても、『愚管抄』と『神皇正統記』でも『水鏡』系譜を踏襲しているということは両作者(慈円と北畠親房)も同様に系図の閲覧を怠ったことになる。それはとても考えづらい[2]。
『水鏡』執筆時に既に系図が散逸してしたという可能性も低い。『古事記』と異なり『日本書紀』は平安時代を通して朝廷で定期的に講書会が開かれていたのであり、系図が散逸する契機が存在しない。『日本書紀』系図研究で知られる荊木美行は鎌倉時代後期に成立した『本朝書籍目録』の「氏族」の部には『帝王系図一巻 舎人親王撰』とあり、『日本書紀』の責任編纂者であった舎人親王の名が出ていることから、この帝王系図こそ「系図」一巻だと指摘している。荊木は「目録の編纂者が系譜の実物に当たったかどうかの疑問は残るものの、「律令」や『風土記』など古代の典籍の多くが応仁の乱を経て散逸した点を踏まえると系図がそこまで存在していた可能性はある」と述べている[3]。
系図散逸時期に関して、それを平安初期に推定する岩崎小弥太の研究がある。『日本書紀私記(弘仁私記)』(弘仁は810〜824年)の序文には「日本書紀三十巻と帝王系図一巻」が「今図書寮及び民間に見在す」と書かれている。岩橋は「系図一環が当時民間に流布していたのならば、こういう註は全く必要が無いのでこれはかえって民間に流布していないことの証拠である。では図書寮にあったかというと、図書寮の日本書紀三十巻のみが民間に出て系図のみが秘蔵されていたことは到底考えられない」として弘仁年間からあまり離れない時期には既に系図は散逸していたと述べているが、系図が「図書寮及び民間に見在す」とあるならば図書寮と民間に系図は存在したと見るのが素直な解釈である。
また『類聚国史』(892年完成)について述べた『菅家御伝記』には「帝王系図三巻」(これも既に散逸している)とあり、持統で終わる帝王系図の続きに二巻を足して三巻にしたと説明されている。岩崎は「文武以降の系図が新撰されたというのなら持統以前も新撰できないはずはないので、この類聚国史の系図が日本書紀の系図に基づいているというのは単なる思いつきの説にすぎない」としているが、既に権威ある書記系図が存在するなら必ずしも新たに古代の部分を新撰する必要はないだろう。
その他『上宮記』を引用する『釈日本紀』の四巻に国常立尊から持統までの系譜が載っている。江戸時代の国学者、平田篤胤はこれが『日本書紀』の系図一巻であると言っているが、岩橋はこの系図を漢風諡号でかかれていること、また『釈日本紀』には各所に系図が新作する例が多いことから古書を引用したものではないと指摘する[4]。これに関しては、該当系譜で継体が応神の四世孫になっており岩崎の主張は支持できる。『釈日本紀』の『上宮記』を引用している箇所には『上宮記』の記述を参考にした継体系譜が書かれているが、その記述に矛盾して継体が応神の四世孫に誤記されている。『釈日本紀』に載る天皇系譜は『釈日本紀』筆者に新作されたものであることは間違いない。
まとめると『釈日本紀』を除き、岩崎が平安初期には系図が既に散逸していたとする論拠にした『弘仁私記』と『菅家御伝記』はむしろ9世紀末に系図が存在していたことを意味するものである。
以上で論考してきたように『水鏡』執筆時には『日本書紀』系図は存在していた。にもかかわらず『上宮記』と『水鏡』で継体系譜に異同が見られることは、系図に継体系譜が掲載されていなかったことを意味する。西田長男が指摘するように[5]、系図を別巻に持たなかった『古事記』にも継体系譜が記載されていなかったことは、本論の主張の傍証となるものである。
参考文献
[1]『律令国家成立史の研究』黛弘道、P502
[2]『古事記』には応神─稚野毛二派─意富富杼までの系譜は載っているので、三書の筆者は『古事記』は(少なくとも注意深くは)閲覧していなかったことになる。中世には『古事記』はほとんど省みられる史書ではなかった。
[3]『記紀皇統譜の基礎的研究』荊木美行、P14,55
[4]『上代史籍の研究』岩橋小弥太、P150
[5]『日本古典の史的研究』西田長男、P126


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