最近の選挙の現場は荒れている。「カス」「きしょいんじゃ」「地獄に落ちろ」。2月8日投開票の衆院選や大阪府知事・市長の出直しダブル選の街頭演説では、候補者をののしったり、挑発したりする人たちの姿が目立った。
日本維新の会の候補者に対しては、大阪都構想やダブル選を批判し、保守色の強い自民党や参政党の候補者には外国人に差別的だと激しく抗議。陣営のスタッフや警察官らともみ合いになる場面もあり、聴衆の中には「演説の邪魔だ」と怒鳴る人や、過激な言動に眉をひそめる人々がいた。
日本維新の会の吉村洋文代表(大阪府知事)は5月、記者団に「表現の自由と、場を壊す行為は違う。演説を聞く権利の妨害だ」と表明した。選挙運動を妨害する行為の規制について超党派で議論し、来春の統一地方選までの法整備を目指すという。
候補者への抗議活動は正当な運動なのか、それとも選挙妨害なのか。何が彼らをそうさせるのか。社会運動に詳しい立命館大准教授の富永京子さんに聞いた。(共同通信=井沼睦)
▽丁寧な言い方をしても…
―候補者をののしるような抗議行動をどう見ますか。
今回の衆院選などで見られたような激しい表現については、その必要性に疑問を感じる部分もありますが、まず一般論として社会運動における言葉の在り方についてお話しします。
丁寧な言葉や行儀の良い批判だけを許容すると、いわゆる汚い言葉や洗練されていない表現での批判が許されなくなってしまう、という点は踏まえておく必要があると思います。
2019年の参院選で応援演説中の安倍晋三首相(当時)にやじを飛ばし、北海道警に排除された男女が道に損害賠償を求めた訴訟は注目を集めました。排除された男性自身は、その後も記者会見で丁寧に私見を述べるなど論理的な主張を行っています。一方で、非論理的とも取れる「やじ」を公の場で述べることは、それ自体が異議を示す表現であり、自由な言論空間を守る行為だという趣旨の主張をしています。
そもそも社会運動は、政策提言や陳情といった事前の準備や専門知識が必要な行為も多いです。しかし、デモや路上での批判なら、生活者としての違和感や抗議の声を即時的に伝えることができます。
このような説明をすると「でも、言い方は選べるでしょ」と思うかもしれません。しかし、次に議論になるのが「丁寧な言い方をしてきても聞いてこなかったでしょう」ということです。
スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさんが、2019年に国連でとても強い言い方で各国の指導者に温暖化対策の即時実行を訴えましたね。ずっと丁寧に言ってきたけど聞いてこなかったから、乱暴に言わざるを得ないということもあります。
1970年代には、障害のある人たちが車いすで無理やり路線バスに乗り込むという運動「川崎バス闘争」を起こし、公共交通機関のバリアフリー化につながりました。
このように、実力行使をせざるを得ない局面や、せざるを得ない人たちが存在します。
ただ、今回の運動が、こうした文脈における「激しい言葉」や「乱暴な言い方」と位置付けられるのかは、改めて議論が必要だとは思います。
▽「普通の人たち」にどう見られるか
―保守派の候補者の演説現場での抗議活動が目立ちます。リベラル層の主張が社会に届かなくなってきたという背景があるのでしょうか。
リベラル層という言い方がそもそも何を指しているかにもよると思います。ジェンダー平等などの問題意識について、NHK放送文化研究所などの継続的な調査を見ても、多様な権利が認められること、個人が自律的に生きることへの支持は高まっています。
人々の意識はリベラルになってきていると認めざるを得ませんし、ある程度制度にも結実しています。それは運動の成果と取ることもできると思います。
2010年代には、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」による在日朝鮮人たちをおとしめるヘイトスピーチが社会的な問題となり、それに反対する市民のカウンターデモも激しく行われました。結果としてヘイトスピーチ解消法ができました。
一方、選挙の場では、大多数の「普通の人たち」にどう見られるかということが、重要になってくるのだと思います。政治に関心が高いわけではないが、投票には足を運ぶような人たちにとっては、抗議をする人たちが吉村洋文大阪府知事を邪魔しているようにしか見えなかったかもしれません。
▽SNSの影響
―抗議者の1人は、取材に「選挙のためではなく、反対している人がいることが伝わればいい。共感は求めていない」と話していました。運動は共感を広げていくものだと思っていたので、驚きました。
「反対者の存在を示す」ことには同意します。誰でも抗議できるというのが路上空間であり、その空間を守ることは重要です。
ただ、私は近年のやや攻撃性が先行した言論には懸念を抱いています。過激であればあるほど注目を得られる交流サイト(SNS)の影響が強く、むしろ敵をつくるような過激な語り口が味方づくりのために自己目的化してしまっているように見えるためです。
また、現代の社会運動は、かつてに比べて組織性が弱まり、緩やかなつながりの中で展開される傾向があります。そのため、連帯を確認するのに互いに同質性を確かめ合うことが必要になり、結果として内部の反応を強く意識する。運動が社会の方ではなく内向きになってしまっているのではないかと危惧しています。
こうした指摘をすると、私自身が「冷笑的だ」と批判されますが、決して真剣に取り組んでいる人たちを否定したいわけではありません。
ただ、社会運動において、SNSを通じた味方の支持や注目に影響されないことは、現実には難しいのではないでしょうか。
たとえば排外主義に対しては、「移住者と連帯する全国ネットワーク」や「難民支援協会」も人権擁護活動に尽力しています。
かつて在特会のヘイトスピーチに反対してきた人々も、さまざまな実践を積み重ねています。移民フェスのような取り組みも含め、社会運動全体を見れば、過激な表現に依拠するものは一部にとどまっているという点も伝えておきたいです。
▽過去と同じでいいのか
―抗議者の1人は、川崎バス闘争を引き合いに「社会との摩擦を起こしていくことが大事だ」と話していました。「ひどい言葉を使わないといけないくらいヘイトやデマがまかり通っている」「路上に出て抗議をできない人の分、自分たちが声を上げる」とも訴えていました。
過激さがどこから来ているかによると思います。障害者運動の過激さには理由がありますし、過激な言葉を使わなければ聞き入れられない状況に置かれている人がいまも少なくない点も理解できます。
ただ一方で、社会運動がこの数十年で多くの成果を上げ、一定の理解を得てきた部分も同時に踏まえる必要があるのではないでしょうか。
近年を見ても、賃金への不満やハラスメント、権威的立場にある人による性暴力に対し、インターネットなどで告発することが普通になってきました。
多くの人がリベラルな価値観に一定の親和性を持ち、声を上げることが以前より認知されている社会で、運動の在り方は過去と同じでいいのか、またそれを選挙運動という場で行うことが適切なのかは、立ち止まって考えたほうがいい点だと思います。
可視化された敵や賛同してくれる味方を見て声を上げるのか、それほど強い意見を持たない不可視の人々にどう届くかを重視するのかという方法論の違いなのかもしれませんが。
▽問われるのは見る側
―大切な主張だとしても、罵詈雑言を耳にするとぎょっとしますし、嫌悪感を抱きます。どう受け止めればいいのでしょうか。
社会運動そのものは社会に定着してきましたが、それでも日本では、社会運動に対して過剰に反応してしまう傾向はあるように思います。われわれは過激なものも多様な運動の中の一つだと思えるほどに、運動を見る目を養えていないのかもしれません。
かつ、政治思想と個々の運動を安易に結び付けるべきではないと思います。社会運動への批判で「だからリベラルは嫌いなのだ」と一括りにしてしまう言説も見られますが、特定の運動に違和感を覚えることと、その背景にある思想全体を否定することは本来別の問題であるはずです。
逆に、特定の思想に共感しているからといって、全ての運動を無条件に肯定すべきだということにもなりません。
さらに言えば、近年になって運動が特別に過激化したわけではありません。もし過激に見えるようになったとしたら、見る側の変化も影響しているのではないでしょうか。路上の規制が進み、人々が統制に慣れ、摩擦や不規則さに耐えられなくなっている。問われているのは運動をする側である以上に、見る側なのでしょう。
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とみなが・きょうこ 1986年札幌市生まれ。専門は社会学。著書に「みんなの『わがまま』入門」「なぜ社会は変わるのか はじめての社会運動論」など。
*(下)は、差別問題を中心に取材してきたノンフィクションライターの安田浩一さんへのインタビューです。明日14日に配信予定です。