いのり、いのち
教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。
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キリストとカルト

2022.07.21
いのり、いのち
  • のなかでちのようにみ、にもったした、れえぬびととのいとれ。いま、にたいとう、そんなびととねてきたる、とのいなおしの。いのりは、いのちとつながっている。

    ニュースで、あるカルトにまつわるがなされている。にも、カルトんでいるがいる。からくと、いたくなるようなましいものばかりである。そのカルトは「キリスト」とされることがある。、キリストというを、そのしていてほしくはない。とはいえ、ニュースになっているそのらず、キリストはしばしばにするし、そのがわたしのところにをしにくる。もちろんわたしは「ですね」でませるのではなく、のように、んでいるのことをするようにしている。

    それにしても、キリストなるもの)には、カルトになるするのだろうか。やっている「」で、ヘブライへのんでいた。そのなかに、のようながある。

    したたちは、めへとることはできません。でまたもやにつけ、さらしにしているからです。” ヘブライへの66

    ヘブライへのは1わりしたであるという。その、キリストけるにいた。11ローマであったドミティアヌス(81~96)は、ローマの々やするユダヤやキリストし、くのした。からて、こんにちのようなでユダヤとキリストではなかった(そんななどどうでもよかったかもしれない)。だからローマのし、ユダヤっているとわれるたちをかれなくしたのである。ただし1から2にかけてのは、ときにくのしたものの、まだなものではない。いていたのである。だが3になると、デキウスのようにいてをちらつかせることでったりと、をするれはじめる(フスト・ゴンサレス『キリスト)。313にコンスタンティヌスによって、キリストがローマとなるまで、キリストにおびえ、すればをなでおろし、がうねりをめるとえる────そんなっていた。

    えるためには、かせない。だからすなわちじてされない。いちどキリストをのメンバーとなったからには、そのキリストをることは、キリストをらのにつけることにしい。だからしてるな、キリストすなわちを...ヘブライへの調には、ならではのしさがえる。そしてこのようなしさは、メンバーにもつながったことだろう。「まさかあなたはらないよね?あなたもキリストにつながったのだから、ね?」。そうやってながらしていたもあったとわれる。だからこそ、とくににある、すなわちにおいてヘブライへのできるようなしてしまえば、はどうなるか。「あのえられなかったんだ。わたしも」とづるし、れになってしまう。にはかれていないだけで、されし、そのもなだれをうつようにしていきしたもあったかもしれない(には、ることができるようされていった)。

    そので、といってもいいりのは、られていたわけでもなかっただろう。そもそもそこにびがしなければ、となく、ことにたちのえにうんざりし、からしていったにいない。々はもしていたかもしれないが、んで、ときにはをもさぬで、をもえたっていたのである。らにはありありと、こうにある「よくやった!」というキリストのがイメージできたであろう。ちなみにとははないが、イエスしたに、のようなもある。イエスのからはすでにしたしたであるから、がやはりけていたかれている。そういうにあって、には「はいつも、こののようであってほしい」というりがあったのかもしれない。

    じたたちはつになって、すべてのにし、っては、じて、がそれをった。” 使244-45

    じた々のれはいもつにし、としてのものだとはなく、すべてをしていた。使たちは、いなるをもってイエスのしした。そして、みがかにがれた。には、しいがいなかった。っている、それをってはり、使たちのき、じて、おのおのにされたからである。”432~35

    これらのがまったくの、ようするにであったとはえない。メンバーはいあうようにらのを、そのをもってしただろう。たしかに、そこにはまれていたかもしれない。しかしかがじっさいにじることで、そののリアリティをじたされ、をとるというようなこともったはずである。だが使は、がこのラインにおいてうさをえていたこともげる。

    “ところが、アナニアというは、のサフィラとしてり、のうえで、っておき、そのりをって使たちのいた。”51-2

    イエスをぐならげることがというされるなか、するもいたことを、このはうかがわせる。アナニアはからたちのためにとっておき、りを「これがです」とした。ところが「あなたはいたのではなく、いたのだ。」(4)とペトロからされたアナニアは、れてんでしまう。ペトロのしてまでしたけたサフィラもまた、げる。ちなみに、このには「はこのった/した」というようなもない。はそれぞれ、ペトロのいてれた。そしてアナニアのには「そのことをにした々はれた」とあり、サフィラのには「とこれをいたれた」とある。このがアナニアやサフィラをしたというより、のメンバーをれさせるためにこされただといわんばかりである。クリスチャンならこれをりとむだろう。しかし、あさまやオウムこったことを、ここにするもいるかもしれない。すなわち、における「め」である。ペトロがさずとも、アナニアもサフィラもありありとじていたのなら、カリスマからこのようにわれて、のストレスでくなるということはあったかもしれない。しい。そののみわざという調えられるにせよ、からたとき、そこにはさがつきまとう。

    にわたってさせるにはモチベーションがる。イエスのしいしていたパウロは、イエスとである。だからパウロはであるとに、でもある。そんなパウロがくのである。

    “しかし、のことをするにあたって、はあなたがたをめるわけにはいきません。あなたがたのまりが、ではなく、いているからです。に、あなたがたがまるとき、いのがあるといており、もあるはそれをじています。あなたがたので、かはっきりするためには、いもでしょう。しかし、それでは、まっても、べることになりません。のとき、ませ、もいれば、っているもいるというだからです。あなたがたには、べたりんだりするがないのですか。それとも、んじ、しない々をするのですか。あなたがたにったらよいでしょう。あなたがたをめるべきでしょうか。このについては、めるわけにはいきません。”コリントのへの1117~22

    使られている「じて、おのおのにされた」のかけらもじられない。、このことがいしたのであろうか、「あなたがたのに、おり、またんだなくないのは、そのためです」(30)と、パウロはっている。

    にはびがあり、々はときに、みずからんでげさえした。それどころか、ることさえれないもいた。だがパウロのこのようなり、、そのような々ではなかったであろうことがうかがえる。でもでありけ、らない。それにせているため、もある。まり、キリストをするいていたつもりが、すっかりしいになってしまうこともあっただろう。にさしかかり、もうっていないにようやく、えたしい々がにやってくる。らはれてしまいそうだが、かされてるのである。ところがてみれば、おちな々がんではしゃいでいる...コリントをったとき、しい々のくがんだ。これらのたちはどんないでたちのいをめながら、えにえていったのか。パウロのこのかれたは54ともいわれる。「じて、おのおのにされた」と使した80~90よりもさらにに、すでにみがじている。パウロがコリントの、やはりめる々すなわちけてこのきをいたのだとすれば、べてんですっかりしていたに、たちもまれていたことになる。

    わたしのおよびを、あまりにうがったであるとするクリスチャンの々もおられるかもしれない。だが、はそれぞれのきにはられなかったであろうし、それをむわたしやあなたもまた、わたしやあなたのきているのなかで、これらのっている。カルトがしばしばパワーハラスメントやセクシャルハラスメントのとなり、いなりとなったな、ときにはといってもいいめることに、わたしはえる。だがに、それをすることのをもないのである。なぜなら、すればするほど、らはらのことを、けるするにちがいないからである。ニュースでされているだけではない。キリストばれるカルトにいとまがない。キリストに、カルトしかねないがある。にそのがなされている。そのことをするところからめなければならないと、わたしはう。

    わたしのことをろう。わたしもになりかけることがあるからだ。る。インターホンがり、ドアをけたわたしは「さあ、どうぞおりください」とをいざない、ドアをかにめる。「まあ、おでもどうぞ」と、やおす。

    める。する。わたしはかにる。そしてよくよくえたうえで、つかつ、なにかえる。だが、ここからがである。

    「そうですね...そうですよね!、ありがとうございます。のおさりました!」

    わたしはかうそのをおだやかにりはする。だがやかではない。「のお」すなわちわたしのがこのに「さった」のはなぜか?は、じつはなんでもよかったのではないか。なぜなら、そのいていたから。く、それもするというのは、にすっかりせるようなことである。わたしはそのかれたへ、つけいったのではないか?

    という。そのするあるじであるわたし。らぬにやってきた、でいっぱいの。どちらがものをいやすいか、すでにしている。めているのだ。は、せたである。そこでわたしがなにかをえば、はなんでも「これが、わたしのめていただったんだ!」とってしまうかもしれないのだ。わたしはカルトでありうる。

    「なにかホッとくなり、のしかかっていたものがはずされて、われたようなちになったのです」(『カルト』26

    このようなを、わたしはよくからうかがう。しかししたのはオウムであり、にサリンをえられたから「これはマハームドラーのなんだからね」とえられたときのことである。は「るとしかいいようがない」とる。しかしわたしはる。わたしには、がホッとくなるえてしまうのである。ホッとくしてしまうわたしが。

のなかでちのようにみ、にもったした、れえぬびととのいとれ。いま、にたいとう、そんなびととねてきたる、とのいなおしの。いのりは、いのちとつながっている。
いのり、いのち
(ぬまた・かずや)

。1972まれ。退きこもる。その、1995にて。かろうじてった退きこもるなどのた1998西。2004。そしてへ。しかし2015でトラブルをこし、する。さなをしている。