1000年前の“learn” の屈折
古来、英語はこのように人称・数・時制の3つの分類を守り続けてきました。ある人、物、事柄を話題にするときに、この3分類に沿って情報を整理してきたのです。人称・数については、主語の名詞それ自体によってすでに示されているのに、さらに動詞の語尾を変化させまでして確実に表現したいというのですから、大変なこだわりようです。
人称には3通り、数には2通り、時制には2通りの区別がありますので、それぞれ掛け合わせると、1人称・単数・現在から始まり、3人称・複数・過去までの計12通りの組み合わせがあることになります。英語の世界観によれば、この12通りの一つひとつが独自の重要性をもっているので、対応する動詞の語尾にも独自の語尾がつくはずです。
実際、1000年ほど前の古英語の時代には、それに近いことが行われていました。当時の英語で「学ぶ」を意味した動詞 leornian(現在の learn の古英語での見出し語形)の屈折表を見てみましょう。1単現では -ie、2単現では-ast、3単現(表左下の下線を引いた語尾に注目)では -ath、1複現(1人称・複数・現在)では -iath、1単過(1人称・単数・過去)では -ode、2単過(2人称・単数・過去)では -odest、1複過(1人称・複数・過去)では-oden などとそれぞれ異なる語尾をつける必要がありました。共通の語尾となるマス目も確かにいくつかありますが、理論上それぞれのマス目には独自の語尾が配置されていたのです。
唯一生き残った3単現の s
ところが、以後の歴史を通じて、多くのマス目の語尾が失われていくことになりました。語尾というのは単語の本体部分に後続するお尻の部分のことです。英語は明確に強く発音される強勢のある音節と、明確に弱く発音される無強勢の音節が交互に現れるというリズムをもつ言語なので、単語の本体部分に強勢が置かれると、次に来る語尾は無強勢となりがちです。英語において、語尾は発音上のエネルギーが弱まり、発音の区別があいまいになりやすい宿命を背負っているのです。
この語尾消失のプロセスが、西暦1000年以降、数世紀の時間をかけてゆっくりと進んでいきました。その結果、それまでさまざまに区別されていた語尾が、一部の例外を除いてすっかり消え失せてしまいました。あれほどまでに英語が明確に区別してきた人称・数・時制へのこだわりが、いまや動詞の語尾を通じてうまく表現できなくなってきたのです。
現代まで生き延びてきた例外の1つは時制です。過去形の語尾には ed がつき、現在形にはつかないという区別を保つことができています。そして、もう1つの重要な例外が「3単現」です。「3単現」語尾はもともと athという形でしたが、やがてイングランド北部方言で使われていた (e)s が優勢になり、現在に至ります。古来の英語のこだわりが軒並み勢いを失っていったなかで、3単現の s は数少ない生き残りといえるのです。
では、なぜ3単現の s は生き残ることができたのでしょうか。いくつかの理由が考えられますが、1つには、s という子音が他に比べて強く、摩耗しにくい音だったからという音声学上の理由を挙げることができます。実際、名詞の複数形の s や所有格の ’s も残っていますし、s の音声的な頑強さが生き残りに貢献したものと思われます。
英語のこだわりを垣間見せてくれる“窓”として
現代の英語では3単現の s だけが浮いているように見え、いったい何の意味があるのかと疑いたくもなりますね。主題が3単現であることを示す役割があるという点で文法的な「意味」があるともいえますが、1000年前の屈折表と比べてみると、せいぜい薄められた「意味」をもつにすぎないといえます。実際、現代のイングランド東部、イーストアングリアの方言では、むしろ3単現に s をつけないのがルールで、それでも十分にコミュニケーションは成り立っているのです。
それでも、3単現の s は、古くから英語が抱いてきた独特な世界観を垣間見せてくれる小さな窓であるといえます。このように見てくると、今まで謎めいていた3単現の s が、英語の長い歴史の証人であることがわかり、英語という言語が立体感をもって立ち上がってくるのではないでしょうか。英語に対する不安感や不信感は、英語を平面的にしか見てこなかったことから起こることが多く、歴史をたどってみるとある程度は解消されるものなのです。
この続きは『英語史で解く英文法の謎 なぜ「3単現のs」をつけるのか』でお楽しみください。本書は以下の構成で、英語にまつわる24の疑問をわかりやすく解説していきます。「なぜ」を理解することで、単語・文法の解像度が上がり、納得しながら英語を学べるようになります。
序章 英語はどのようにして現在の姿になったのか
第1章 文の骨組みはその言語の個性
第2章 語形の変化は規則的に不規則
第3章 なぜ文字と発音が一致しないのか
第4章 社会とともに変わり続ける英語
堀田隆一(ほった・りゅういち)
慶應義塾大学文学部教授。東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程満期修了、英国グラスゴー大学英語学研究科博士課程修了(Ph.D.取得)。神奈川大学経営学部助教、中央大学文学部助教、准教授、教授を経て、2015年より慶應義塾大学文学部教授。専門は英語史、歴史言語学。著書に『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』(研究社、2016年)、『英語語源ハンドブック(共著)』(研究社、2025年)、『言語学でスッキリ解決!英語の「なぜ?」(共著)』 (ナツメ社、2025年)など。「hellog~英語史ブログ」、Voicyチャンネル「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」、Youtubeチャンネル「いのほた言語学チャンネル」など運営中。
※刊行時の情報です
◆トップ写真:graphica/イメージマート
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