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王立魔法学院の片隅、カビ臭い書庫に閉じこもる私の横顔を、誰が「王位継承権第十五位の出来損ない」と呼ぶだろうか。
前世では、白い巨塔を目指して不眠不休で解剖学を叩き込んでいた医学生。
過労死という呆気ない幕切れの果てに私が手に入れたのは、繊細な美貌を持つ少女の体と、あまりに微弱な「癒しの魔法」だった。
だが、私にとってこの力は「出来損ない」などではない。
現代医学の知識というレンズを通せば、ただの光の粒子は、細胞を活性化させる究極のメスへと変貌するのだ。
王都の北端、石造りの冷え冷えとした孤児院。そこが私の主戦場だ。
「聖女様、また来てくれたの?」
泥だらけの子供たちが駆け寄ってくる。
私は泥に汚れるのも厭わず膝をつき、彼らの患部を観察する。
ここでは、王宮では決して許されない「試行錯誤」が許されている。
現状でできる範囲として、
衛生概念の導入: 井戸水に煮沸を命じ、手洗いを徹底させる。これだけで下痢に苦しむ子は激減した。
栄養管理: 王宮から持ち出した余剰食糧を、ただ与えるのではなく、回復期に合わせた献立に変える。
魔法の局所化: 全身に漫然と魔法をかけるのではなく、炎症を起こしている箇所を特定し、ピンポイントで治癒を流し込む。
の、3つを取り入れてみた。
すると、子供たちは健康を取り戻し、私は貴重な症例データを得る。
「ごめんね、みんな。でも、これで次からはもっと痛くせずに治せるから」
偽善と言われればそれまでだが、私と彼らの間には、救済と進歩という名の確かなWIN-WINの関係が築かれていた。
王宮に戻れば、私は「癒しの聖女」として騎士たちに崇められている。
訓練で傷ついた屈強な男たちが、私の前では借りてきた猫のように大人しくなるのだ。
「姫様、その……少し、肩を痛めまして」
赤面しながら鎧を脱ぐ若き近衛騎士。
私の華奢な指先が、彼の硬く引き締まった筋肉に触れる。
「少し、熱を持っていますね。……いきますよ」
微弱な魔法を指先に込め、じっくりと患部を解凍するように撫でていく。
その時、ふと指先から伝わる体温と、相手の荒くなる吐息。
前世では「男」だった私の中に、今の「女」としての本能が小さく疼く。
自分よりも遥かに大きく、逞しい異性の体に触れ、頼られる。
その支配感と充足感。
(ああ、これが女の子として生きるっていう、甘い感覚なんだ……)
医学生としての冷静な観察眼の裏側で、私は自らの身体が女としての悦びに目覚めていくのを、密かに楽しんでいた。
夜、自室の扉に鍵をかけると、私の「本当の時間」が始まる。
重苦しいドレスを脱ぎ捨て、私が身に纏うのは、前世の記憶を元に仕立て屋に作らせた特注の部屋着だ。
白い薄手の生地に、動きやすさを重視した膝丈のスカート。
まさにナース服を彷彿とさせるその格好は、私にとっての「戦闘服」である。
机の上には、貴重な羊皮紙と羽ペン。
「抗生物質の代わりになる薬草の配合……それと、魔法による細胞増殖の限界値……」
さらさらと、この世界の言語で医療メモを書き連ねていく。
集中が途切れると、私はそのナース服を脱ぎ、絹のような肌触りのネグリジェへと着替える。
鏡に映る自分は、どこからどう見ても可憐な王女だ。
だが、その瞳には王位への野心ではなく、この世界の病理を全て暴いてみせるという、狂気にも似た探究心が宿っている。
「第十五位の姫だからって、舐めないで。私はこの国を、魔法とメスで作り変えてみせるんだから」
キャンドルの火を消し、私は心地よい疲労感と共にベッドに潜り込む。
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私の「医療革命」は、静かに、しかし確実に王都の常識を侵食していた。
孤児院での死亡率は劇的に下がり、私の元を訪れた騎士たちは、かつてない速さで戦線に復帰する。
その実績は「十五番目の落ちこぼれ」というレッテルを剥がし、黄金の輝きを放ち始めていた。
だが、光が強まれば、影もまた濃くなるのが王宮という伏魔殿だ。
ある朝、私の執務室に無作法な足音が響いた。
現れたのは、第五王子・エドワード。傲慢な笑みを浮かべた、上位継承者の一人だ。
「十五位の妹よ。近頃、卑賤な者たちの体に触れ、怪しげな術を施しているそうだな?」
彼は私の机に置かれた、薬草の調合メモを忌々しげに指差した。
「教会からは『不浄な医術』との疑いが出ている。王室の品位を汚す振る舞い、これ以上は看過できん。今日限りで、孤児院への出入りを禁じ、その『研究』とやらの資料をすべて没収する」
(……やっぱり来たか。実績を積めば、利権とメンツを重んじる連中が黙っていないのは計算済みだ)
私は冷めた目で彼を見つめた。
前世の「男」としての冷静さが、この理不尽な圧力を分析する。だが、今の私はか弱い王女の体。
力でねじ伏せる術はない。
「——そこまで。失礼いたします、エドワード殿下」
重厚な鎧の擦れる音と共に、一人の男が部屋に踏み込んできた。
王立聖騎士団副団長、シオン・ヴァレンタイン。
若くして「王都の盾」と称される、実力派の騎士だ。
「シオンか。貴様、部外者は黙っていろ」
「部外者ではありません。彼女……聖女様の治療によって、我が騎士団の生存率は三割向上しました。彼女の研究を止めることは、国防を担う騎士たちの命を捨てるに等しい。これ以上の介入は、団長、ひいては国王陛下への挑戦と受け取りますが?」
シオンの冷徹なまでの眼光に、エドワードは言葉を詰まらせ、捨て台詞を残して去っていった。
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嵐が去り、部屋には私とシオンの二人だけが残された。
「助かったわ、シオン。……でも、無理をしたんじゃない?」
「いえ、事実を述べたまでです。それより……」
彼は少し視線を逸らし、自らの左腕を抑えた。
「先日の演習で、少し筋を違えたようです。また、貴女の『魔法』をお願いしても?」
私は彼をソファに促し、その厚い胸当てを外させる。
シオンは、他の騎士たちとは違う。
彼は私の知識が「異質」であることを理解しながら、それを「救い」として受け入れている数少ない理解者だ。
「……ここですね」
私の細い指が、彼の熱を帯びた筋肉に深く沈み込む。
その瞬間、シオンの体がびくりと跳ねた。
彼の整った顔が、苦痛とは違う熱に染まっていく。
(ああ、まただ……)
指先から伝わる、彼の強靭な心臓の鼓動。
私に触れられていることへの緊張と、抑えきれない情愛が、魔法を通じて私の中に流れ込んでくる。
前世の私なら、これを「交感神経の昂ぶり」と片付けただろう。
けれど今の私は、この逞しい騎士が私の一挙手一投足に翻弄されていることに、言葉にできない「女としての優越感」を覚えてしまう。
「シオン、顔が赤いですよ? まだ、痛みますか?」
わざと顔を近づけ、吐息がかかる距離で囁く。
「……っ、いえ。聖女様に触れられていると、その、痛みを忘れてしまうのです」
彼は必死に「忠実な騎士」を演じようとしているが、その瞳は熱く、私をひとりの女として求めていることを隠しきれていない。
彼が私のために王族へ牙を剥くのは、義務感だけではないことを、私はもう知っている。
その夜、私はいつものようにナース服風の部屋着に着替え、羊皮紙に向かっていた。
エドワードたちの横やり、そしてシオンの献身的なフォロー。
「政治の闇を払うには、もっと圧倒的な『実績』が必要ね……」
私は羽ペンを走らせる。
シオンのような協力者がいれば、私の医術はさらに加速する。彼をこの手で「完璧」にメンテナンスし、私の最強の盾に仕立て上げる。それが、この理不尽な世界で生き残るための私の処方箋だ。
「女の武器も、医術の知識も、使えるものは全部使わせてもらうわよ」
ネグリジェに着替え、鏡に映る自分の唇を指でなぞる。
そこには、慈悲深い聖女の微笑みではなく、すべてを手中に入れようとする、美しき野心家の顔があった。
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夜の帳が降りた王宮の一室。私はナース服を彷彿とさせる純白の作業着に身を包み、羽ペンを走らせていた。
机の上には、孤児院の子供たちが摘んできてくれた薬草の山と、それを煮出した抽出液が並んでいる。
「……できた。名付けるなら『劣等聖女の気休め薬(プロトタイプ)』ね」
それは、前世の抗生物質の知識をこの世界の薬草学で再現しようとした試作体だ。
魔法的な純度は低い。
だが、特定の菌の増殖を抑える力は、高価な教会製の聖水をも凌駕する。
子供たちは、これを「魔法のシロップ」と呼び、喜んで協力してくれた。
彼らの小さな手が摘んだ花が、やがて王宮を根底から揺るがす武器になる。
私——フローラ王女の「実績」は、もはや無視できないレベルに達していた。
翌日、演習場から戻ったシオンの顔を見て、私は息を呑んだ。
その端正な頬に、生々しい切り傷が走っていたのだ。
「シオン、その傷……どうしたの?」
「……何でもありません。訓練中の不手際です」
彼は視線を逸らしたが、私は知っている。
第五王子エドワードが、昨日のお返しとばかりに演習中、魔法の暴発を装ってシオンを狙い撃ちにしたことを。
聖騎士であるシオンは、王族への反撃を禁じられている。
彼は私を守った代償として、その屈辱を甘んじて受け入れたのだ。
「嘘をつかないで。エドワードの仕業でしょう?」
私は彼を強引に私室へと連れ込んだ。
「座って。……私の『新しい薬』の、最初の被験者になってもらうわ」
私は瓶から透明な軟膏を指に取り、彼の頬に触れた。
「っ……フローラ様……」
「動かないで。少し、染みるわよ」
至近距離。
彼の琥珀色の瞳が揺れているのがわかる。
私はあえて「聖女」として振る舞いながら、女としての自覚を最大限に利用した。
わざと、私の指が彼の耳の付け根や顎のラインに触れるように。
シオンの呼吸が目に見えて乱れていく。
彼は私を崇拝している。
そして、狂おしいほどに恋い焦がれている。
(……本当は、今すぐにでも抱きしめたいんでしょ?)
私は「男」だった前世の冷徹な観察眼で彼の欲求を読み解きながら、それを「お預け」にしている今の状況を楽しんでいた。
忠誠と情愛の板挟みになり、私の指先一つで翻弄される屈強な騎士。
その姿は、どんな特効薬よりも私を昂らせる。
その時だった。
——ドォォォォンッ!!
廊下で何かが激しく倒れるような、大きな物音が響いた。
「なっ!?」
不意の振動に驚いた私の体が、反射的に前へと泳ぐ。
「危ない……!」
シオンが私の体を支えようと腕を伸ばした。
しかし、その勢いのまま、私の顔は彼の顔へと押し付けられ——。
柔らかな感触が、私の唇を塞いだ。
一瞬、思考が真っ白に染まる。
触れているのは、彼が必死に隠してきた情熱そのもののような、熱く、少しだけ震える唇。
シオンの目が見開かれ、私の指先は彼の頬の傷をなぞったまま止まっていた。
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数秒の後、私はゆっくりと身を引き、呆然としている彼を見上げて微笑んだ。
心臓がうるさいほどに鳴っている。けれど、私はあくまで冷静な「フローラ」を演じきった。
「……ふふ、今の『事故』は、薬の副作用かしら?」
「フ、フローラ様、私は、その……不敬を……!」
「いいのよ、シオン。あなたが私を守ろうとしてくれた結果だもの」
私は動揺して膝をつく彼の頭を、優しく、慈しむように撫でる。
(これで、彼はもう逃げられない)
このキスは、彼の中に消えない刻印を残したはずだ。
忠誠心という名の鎖を、逃れられない愛着という鎖に書き換える作業。
「さあ、傷はもう塞がったわ。……でも、夜の勉強会の時間は、もっと詳しく『検査』が必要かもしれないわね」
赤面して固まるシオンを残し、私はいつものように優雅に部屋を後にした。
その夜。
私はいつものネグリジェに着替え、鏡に映る自分の顔を眺めた。
唇に指を当てると、まだシオンの熱が残っているような気がする。
孤児院で作った「万能薬」という実績。
そして、最強の騎士を支配下に置くという「力」。
しかし、フローラとしてシオンにひかれていることにはまだ気づけていない。
「エドワード、そしてこの国の古い連中……。次のチェスの駒は、私から動かさせてもらうわ」
暗闇の中で、フローラの瞳は怪しく、そして美しく輝いていた。
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#セーラー服は水夫の真似をした王子様のファッションが広告塔代わりになって、情報伝達のあまり発達していない中世でも国民的に流行、現代においては世界的に知られるまでに到ったんでしたっけ
#この世界だとナースの真似をした(彼女以外は知らないのでしょうが)王女様のファッションが広告塔代わりになって国民的に流行、遠い未来でも世界的に語り継がれたりするのですかね
#そんな未来を思うと医学史だけではなく、ファッション史においても偉大な王女様です
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シオンが退出した後、静まり返った自室。
フローラは天蓋付きのベッドに身を投げ出し、熱を持ったままの唇を指先でなぞった。
「あんなの、ただの事故じゃない」
口に出すと、心臓の鼓動がまた一段と速度を上げる。
前世が「男」であった彼女にとって、恋愛とは攻略対象を掌の上で転がすゲームのようなものだった。
シオンの忠誠心を利用し、情愛を煽り、自分に依存させる。
それはこの過酷な王宮で生き残るための、合理的で冷徹な「戦略」だったはずだ。
だが、先ほどのキスの感触が、脳裏から離れない。
驚きで見開かれた琥珀色の瞳、微かに震えていた呼気、そして自分を支えた逞しい腕の熱量。
(変だな。あいつを翻弄して楽しんでいたはずなのに)
ふと、意識が「観察者」としての自分から、一人の「女」としての自分へと滑り落ちる。
もし、あのままシオンが理性を失って、自分を強く抱きしめていたら?
あの大きな手で、この華奢な肩を掴み、抗えない力で組み伏せられていたら——。
「っ……!」
脳内に浮かんだ光景に、フローラは思わず顔を覆った。
想像の中のシオンは、いつもの慎み深い騎士ではない。
熱い体温と、隠しきれない独占欲を孕んだ瞳で自分を見つめている。
彼に抱きしめられ、耳元で名前を呼ばれる場面を想像しただけで、背筋を甘い戦慄が駆け抜けた。
胸の奥がキュンと締め付けられるような、切なくて、それでいて満たされるような感覚。
それは、前世の「男」としての記憶には存在しない、未知の感情だった。
「私は彼を支配しているはずなのに。どうして、彼に組み敷かれるところを考えて……。……最低。これじゃ、どっちが翻弄されているかわからないじゃない」
鏡に映る自分を見る。
そこには、冷徹な策士の顔ではなく、恋に揺れる一人の少女の顔があった。
前世の男としての自認が、現在のフローラという女性の肉体が感じる「ときめき」に侵食されていく。
性自認の境界線が曖昧になり、溶け合っていく感覚。
最強の駒として手に入れたはずの騎士が、今や彼女にとって、唯一「自分を絡め取ってくれるかもしれない」安心感を与える異性へと変貌しつつあった。
「シオン。次にああなった時、私はちゃんと『王女』でいられるかしら」
独りごちは、夜の静寂に溶けて消えた。
策略と恋心の狭間で、彼女の夜はまだ始まったばかりだった。
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窓から差し込む月明かりが、私の肌を冷ややかに照らしている。
けれど、寝台に横たわる私の体は、まるで真夏のように火照っていた。
「……ありえない」
独りごちた声は、驚くほど震えていた。
指先で唇をなぞる。
まだ、そこにシオンの熱があるような気がしてならない。
前世の記憶――男としての理性が、「これは計算だ」「計画の一部だ」と懸命に言い聞かせようとする。
だが、私の「今」の肉体は、その理屈をあざ笑うかのように、熱を帯びて反乱を起こしていた。
今までは、この贅肉のない白く細い腕や、柔らかな肌を、鏡越しに「道具」として眺めていた。
しかし今夜は違う。
指先が、自分の体の線をなぞる。
普段なら、私の指は「自分を愛でるため」のものだった。
男だった頃の記憶をベースに、フローラという器をどう飾るか、どう動かすか……そんな風に自分を慰めてきた。
だが、今、脳裏をよぎるのは、私が自分の体を愛でる光景ではない。
(シオンに、抱かれる)
その思考がよぎった瞬間、下腹部に電流のような衝撃が走った。
恥ずかしさと背徳感で視界が歪む。
普段は鋼のような精神を持つ聖騎士が、私に翻弄され、情愛に溺れ、獣のような眼差しで私を見下ろす姿。
強靭な腕で、このか弱い体をねじ伏せられる感覚。
そんな背徳的なシーンが、まるで鮮やかな絵巻物のように脳内で再生され、思考を支配する。
「っ……あ……」
あふれる吐息を、シーツを噛んで飲み込んだ。
かつて男だった私には想像もつかなかった、この体の敏感さ。
誰かに支配されたい、侵されたいという、かつての私なら抱くはずのなかった「女の渇き」。
理性が溶けていく。
「聖女」の仮面が、熱で脆く崩れ去る。
私は震える指で、自らの肌を愛撫した。
鏡の中のフローラは、頬を紅潮させ、恍惚とした表情を浮かべている。
なんて淫らな顔をしているのだろう。
こんな姿、誰にも見せられない。
特に、私の全てを捧げようとしている、あの忠実な騎士になんて。
「シオン……」
名前を呼ぶだけで、体がさらに熱くなる。
これは、薬の副作用ではない。
私が、彼を求めているという抗えない「実績」――。
私はシーツをぐしゃりと握りしめ、自分自身の指先がもたらす甘美な地獄へと、意識を沈めていった。
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カーテンの隙間から差し込む朝陽が、寝室の床に長い影を落としている。
目覚めは、驚くほど軽やかだった。
昨夜の狂おしいような熱気はどこへやら、今の私は、王女としての冷徹な仮面を被り直す準備ができている。
私は身支度を整えながら、鏡の前で微笑んだ。
計画は順調だ。
「万能薬」の噂は城内に広がり始め、私を疎む者たちも迂闊には手出しができなくなっている。
そして何より、シオンという「最強の駒」は、昨日の事故ですっかり私に毒されてしまったはずだ。
「……完璧ね」
私は独り言ちて、重厚な扉を開けた。
朝一番のルーティン。
私の専属護衛であるシオンは、すでに扉の前で私を待っていた。
「おはようございます、フローラ様。……お目覚めはいかがでしょうか」
カツ、と重厚な革靴の音が響く。
彼は背筋を伸ばし、完璧な騎士の立ち振る舞いで私を見守っていた。
いつもと変わらない、忠実なシオン。
しかし、彼と目が合った瞬間、昨夜の記憶がフラッシュバックする。
私の唇に触れた彼の熱、そして、シオンに抱かれる姿を想像して悶えた自らの醜い姿。
(どうして……)
心臓が、早鐘を打っている。
今まで彼をどれだけ近くで観察しようが、どんなに大胆な指使いで彼を翻弄しようが、私は常に「観察者」だった。
けれど、今、目の前に立つ彼の逞しい胸板や、私の指を待っているかのような琥珀色の瞳を見つめていると、どうしようもなく鼓動が乱れる。
彼に「抱かれる」という空想が、脳裏に焼き付いて離れない。
昨夜の余韻が、指先だけでなく、全身の毛穴から滲み出てくるようだ。
「フローラ様?」
私の反応がないことに気づいたのか、シオンが少しだけ顔を近づけてくる。
彼から漂う、わずかな鉄の匂いと、朝の冷涼な空気。
その匂いに触れただけで、足の付け根が熱くなるのを感じた。
「っ、なんでもないわ。少し、寝起きが悪かっただけよ」
私は努めて平然を装い、彼から視線を逸らした。
冷徹な前世の私が、「これは動揺ではない、心拍数の上昇だ」と必死に論理的な説明を探している。
けれど、そんな言い訳は通用しない。
私は今、確かに――かつて「駒」と呼んでいた男を、女として意識してしまっている。
「顔色が少し赤いようですが。熱でもあるのですか?」
彼が心配そうに、私の額に手を伸ばそうとする。
その大きな手が私の皮膚に触れる直前で、私は反射的に一歩引いた。
彼の指先が、空を切る。
「大丈夫よ。訓練に行きましょう、シオン。……あなたも、少し顔つきが甘くなっているんじゃない?」
私は強がって背を向けた。
廊下を歩く私の背中を、彼が追ってくる。
その視線が、私のうなじや背中をなぞっているような錯覚に陥る。
(私としたことが……)
王宮の権力闘争を勝ち抜くために、冷徹に計算高く生きるはずだったのに。
今の私を支配しているのは、計算でも戦略でもない。
ただ、一人の騎士に対する、抗いがたい熱情だった。
歩調を合わせる彼の靴音を聞きながら、私は誰にも見えないように深く息を吐き出した。
この緊張の正体を知られたら、私の「聖女」の仮面は一瞬で剥がれ落ちてしまうだろう。