すべて自因自果なら加害者に対して泣き寝入りしろと言うのか
【50代からの仏教生活】自因自果なら被害者が悪いというのか、加害者は悪くないのか〜仏教の教え〜
こんにちは!仏教ブロガーカネコです。
50代も半ばを過ぎると、人生いろいろありますよね。思いもよらない災難に遭ったり、誰かにひどいことをされたり……。
そんな時、仏教の「自因自果(じいんじか)」という言葉を聞いて、こう憤る方がいらっしゃいます。 「すべてが自因自果なら、加害者に対して泣き寝入りしろってことか!?」
今日は、この非常に誤解されやすく、かつ大切なテーマについて、真っ向からお話ししたいと思います。
今回の目次
「自因自果」と「他因自果」の決定的な違い
「因・縁・果」の法則:なぜ“私”にその運命が起きたのか
悪縁は放置しない:それは「親切」という名の社会貢献
「怨み」という名の無駄遣い:親鸞聖人に学ぶ逆転の発想
1. 「自因自果」と「他因自果」
お釈迦様は一貫してこう教えられました。 「自分のまいたタネ(行い)によって、自分の運命(結果)が決まる」 これを「自因自果」あるいは「自業自得」と言います。
逆に、仏教では「他因自果(たいんじか)」を一切認めません。 「誰か他人のせいで、自分の運命が悪くなる」ということは絶対にない、と断言されるのです。
こう聞くと、「じゃあ、詐欺師やDV加害者は悪くないのか? 被害者は泣き寝入りするしかないのか?」と納得できない気持ちが湧いてくるのは当然です。でも、ここには大きな誤解があるんです。
2. 「因・縁・果」の法則
仏教では、結果(運命)が現れるには、タネ(因)だけでなく「縁(えん)」が必要だと教えます。
因(いん): 自分の行い、心のあり方。
縁(えん): 環境、条件、他人の存在。
果(か): 現れた運命。
例えば、「投資詐欺」に遭って貯金を失った人がいるとしましょう。 この場合、詐欺集団は間違いなく「悪い縁(悪縁)」です。世の中には星の数ほど詐欺師がいますが、なぜ“私”がその目に遭ったのか。
「なぜ私なの?」と問うた時、そこには「うまい話に乗ってしまった」「軽率だった」という自分自身の「因」があったはずです。 もし「100%あいつが悪い!」と相手だけを責めて自分の「因」を振り返らなければ、また別の詐欺師が現れた時に同じ失敗を繰り返してしまいます。
DV(家庭内暴力)も同じです。 一度別れても、また次もDV男を選んでしまう女性がいます。それは、厳しい言い方かもしれませんが、そういう相手に惹かれてしまう「業(ごう)」を自分が持っているからです。 「こんな男を選んだ自分も愚かだった」と深く反省できてこそ、相手を見る目が養われ、二度と同じ不幸を繰り返さない「向上」ができるのです。
3. 悪縁は放置しない:泣き寝入りは不要!
ここで勘違いしないでいただきたいのは、「加害者は悪くない」と言っているわけでは決してないということです。
詐欺師やDV加害者は、不幸を呼ぶ「悪縁」そのものです。 これらは当然、法律で厳しく罰せられるべきですし、警察や政治が対処すべき問題です。
むしろ、悪い縁を放置しておくことは、次の被害者を生むことになります。 「世のため人のため」に悪を正す努力をすることは、仏教でいう「布施(ふせ)」、つまり「親切」な行いなのです。
通報する、問題を公にする。それは自分への反省とは別の話として、毅然と行うべきことです。
4. 「怨み」は人生のエネルギーの無駄遣い
問題は、相手を「怨んで報復する」ことにあります。 「あいつのせいで人生台無しだ!」という「他因自果」の発想に立つと、怨みが止まらず、相手を自分と同じ目に遭わせないと気が済まなくなります。
しかし、「なぜやめぬ 怨み呪えば 穴二つ」という言葉通り、報復の連鎖はお互いの苦しみを倍増させるだけです。
お釈迦様はこうおっしゃいました。
「真理を識ることのできない人々は、
誰か他人に対して怨みを結ぶ。
人生はこのように短いのに。(中略)
怨みは怨みによっては決して静まらないであろう」
人生は短いのです。嫌な相手のために、自分の貴重なエネルギーや時間を使い続けるなんて、これほどバカバカしいことはありません。
親鸞聖人の「逆転の発想」
親鸞聖人は35歳の時、権力者の横暴によって無実の罪を着せられ、新潟(越後)へ流刑にされました。師匠は土佐へ、仲間二人は死刑という大事件です。
当然、聖人も当時の権力者に対して凄まじい怒りを感じておられました。 しかし、聖人はそこで「復讐してやる!」とはなりませんでした。むしろ、こうおっしゃったのです。
「もし私が流刑に遭わなければ、越後の人々に仏法を伝えることはできなかっただろう。これはありがたいご縁だった」
怨みで人生を浪費するのではなく、その状況を「エネルギー」に変えて、さらなる活躍をされたのです。
一方、日本の三大怨霊の一人とされる崇徳上皇や、菅原道真公は、流刑の地で怨みの言葉を残して亡くなったと伝えられています。それほど「怨み」を捨てるのは難しいことなのです。
結び
「自因自果」を受け止めるということは、決して「悪を許す」ことではありません。 「自分の人生のハンドルを、他人に握らせない」ということです。
相手を怨んでいる間、あなたの人生の主導権は「嫌な相手」にあります。 そんなもったいないことは今日で終わりにしましょう。
自分の至らなさを反省し、次に活かす。 そして悪縁に対しては、社会的な正義をもって冷静に対処する。 その上で、自分の大切な人生の時間は、もっと生産的でワクワクすることに使いませんか?
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。 あなたの心が、少しでも晴れやかになりますように。
--- 仏教ブロガー カネコ ---



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