リードオンリーの聖域
ハルカとの交際終了以降、ノリトは「待つ」という選択肢を、一つの戦略のように実行していた。いつか、彼女が今の幸せに綻びを感じ、戻ってくるのではないか。
その時は、冷徹な論理ではなく、もっとシンプルで、情熱的なまでにストレートな「愛」をぶつけよう。
そう決意し、自分を磨き続けていた。しかし、その「情熱」すらも、新しい仮面に過ぎなかった。子供のように泣きじゃくったあの日さえ、心のどこかで「人間らしさ」というパッチを当てた自分に酔っていたのだ。ノリトはまだ、本当の意味で自分を脱ぎ捨てることができずにいた。
一方、ハルカは穏やかな光の中にいた。新しい伴侶との日々は、ドラマチックな高揚感こそないが、冷えた指先を温めるような確かな平穏に満ちていた。
「そろそろ結婚に向けて、具体的な話を進めないか」
新しい恋人の問いに、ハルカは答える。
「……嵐のような日々を、少しだけ思い出していたの。もう少しだけ、心の波が静まるのを待って」
相談所という合理的なシステムの中で出会った、非合理の極致のようなあの男。彼が残した「毒」のような残像を浄化するには、もう少しの時間が必要だった。
「いいよ。あと数ヶ月待っても、その後の五十年は一緒だから。毎日、君が待っている家に帰れるのが待ち遠しいだけだよ」
理屈ではない安心。ハルカはその温もりに身を委ね、ゆっくりと、けれど確実に、あの迷路の出口へと歩き始めていた。
季節は巡り、凍てつく冬が来る。 ノリトは一人、相談所のマイページを開き続けていた。そこにはかつて愛した人の名前が、非公開のまま残り続けている。
(誕生日、祝ってあげたかったな)
もうすぐ、冬生まれだったハルカの誕生日。もし結ばれていれば、今頃はケーキを囲んでいたはずだ。そんな無意味な仮定を、彼はリロードし続けた。
だが、システムは非情だ。 ハルカの誕生日当日。履歴には「退会済みのユーザー」とだけ記されていた。 彼女が手に入れたのは、ノリトが提供しようとした「高潔な庇護」ではなく、当たり前の「日常」だった。ノリトはこの必然的なシステムダウンの前に、リロードを止めるしかなかった。
ノリトはその後も、多くの女性と出会った。彼のスペックなら当然の結果だ。しかし、誰と触れても、彼の中に生まれた「重すぎる愛」は空回りし続ける。
「重すぎる」
「私は平穏が欲しいだけ」
かつて冷徹な機械となった男は、今や制御不能な情愛に飲み込まれ、機能不全に陥っていた。
そして、彼女と出会ったあの春から一年。 もうそろそろ41歳の誕生日が来るノリトのスマートフォンには各サービスから届くバースデー特典のPRや通知が、無機質に積み重なっていた。
そこに、深い意味などなかった。何気なくSNSを開いたノリトに、アルゴリズムは無機質な最後の一撃を与える。
『知り合いかもしれません』
そこに、彼女がいた。……ハルカだ。 震える指でスクロールした先にあったのは、ノリトが一度も見たことのない表情だった。知らない誰かの隣で、肩の力を抜き、子供のように無邪気に笑う彼女。
「ああ、この人……こんな風に笑うんだ」
二ヶ月の交際、数えきれない言葉のやり取り。その中で、ノリトは一度もその笑顔を引き出すことができなかった。 虚像を見せていたのは、自分だけではなかった。ノリトが勝手に作り上げた「才女」というフィルターが、彼女の真実を遮っていたのだ。ハルカもまた、彼の虚像に怯え、本当の自分を隠していたのかもしれない。
奇しくも、今日は前妻・ミカの誕生日でもあった。
一度は同じ姓を名乗り、八年という歳月を共に過ごしたミカ。そして、虚構を重ね続けた二ヶ月を過ごしたハルカ。 どちらも自らの過ちで手放した愛だった。優しいアルゴリズムは、一度外れたミカを「知り合い」として提示することはない。だが、ハルカというエラーだけは、今もノリトのシステムをかき乱し続けている。
ノリトはMacBookの蓋を静かに閉じた。
「あなたには、もっといい人がいる」
あの日、ハルカが遺した一言で、彼のアクセス権限はすべて剥奪された。エンジニアとして、これほどまでに完璧なシャットダウンはいつ以来だろうか。ムタ先輩の涙と共に散ったかつての勤め先、抱きしめれば崩れるほど儚かった前妻・ミカ・・・。
ハルカとはたった二ヶ月の付き合いだったが、これほどまでにシステムを揺り動かし、通信を遮断された「たった二ヶ月のバグ」。
二度と連絡は取れない。
パッチを当てることも、仕様変更を提案することもできない。それほどまでに、ノリトの人生にとって大きな出来事であった。
明日になれば、またいつもの通り仕事が始まる。後輩から「ノリトさん」と呼ばれ、職場の混乱を鮮やかに収束させる日常が始まるだろう。上司に「アグリー」と言わせ、巨大システムを完璧にオペレーションする、「完璧な」エンジニアとしての僕が。
だが、今のノリトには分かっていた。 「カッコ悪い所を見せたくない」という不誠実な虚構を積み上げるよりも、たった一言、こう伝えればよかったのだと。
「毎日、君が待っている家に帰りたいな」
それは、かつて彼が知らないところで、別の男が彼女に贈った言葉だった。
その男には、ノリトのような洗練された知識も、隙のないエスコート術もなかった。ただ、彼は自分の弱さを隠さず、一人の女性を必要としていることを、子供のように真っ直ぐに伝えた。
・・・ハルカが本当に求めていたのは、高尚な教養のやり取りなどではなく、そんな平熱の、けれど温かい心の通い合いだったのだ。
今のノリトには、その言葉を口にする勇気がある。見栄もプライドも捨て、一人の人間として彼女を求め、愛着という名の不器用な手を伸ばす準備ができている。しかし、その想いを届けるべき人は、もうどこにもいない。
あまりに遅すぎた、たった一言の正解。
人生という名の舞台は、いつでも主役を脇役へと弾き出す。
観衆へと役割を変えたノリトは、「リードオンリー」となった聖域の記憶を抱きしめたまま、今日も虚構を見つめ続ける。