致命的な欠落

ボタンのかけ違いは、もはや修復不能なほどに歪んでいた。それでも彼女は、最後に一度だけ手を伸ばそうとした。

 

 

「ノリトさん、私も大事なお話があるのでまたご体調が戻ったら食事にでも行きませんか?」

 

 

「先日は失礼しました。ぜひ行きましょう。」

 

 

ノリトは内心動揺しつつも、リスクの芽を予見し、適切なパッチを迅速に当てることは容易であった。

 

 

(ひょっとしたら大病を経験した可能性もある。彼女を不安にさせないため、どんな告白をされても冷静に・・・スマートに対処しないと)

 

 

ノリトが予想した通り、彼女には、かつて命を脅かした大病という重い過去があった。完治はしているものの、結婚という契約の前では大きな障壁になり得る。彼女は一抹の不安を消し去るよう、一呼吸おいて口を開いた。

 

 

「将来の話をする前に、伝えておかなければならないことがあるの」

 

 

病の告白。

 

 

……ハルカにとって病の告白はある種の賭けだった。婚活をしていたら、都合の悪いことを相手に話すことは当然だ。

だが、婚活相手の中でも誰にでも話すような内容ではない。ハルカは賭けていたのだ。このいつもスマートで表情の読めない男…だけど雨の日にはそっと傘を差してくれる「不器用な優しさ」を持ったこの男は、目の前に庇護の対象が現れたら…それが「私」だったのなら、きっと私に飛び切りの愛情を向けてくれる。あるいは取り乱して、私だけのために「カッコ悪い」ところを見せてくれるかもしれない。

 

決意を固めて切り出したハルカを、ノリトは「予測」という名の檻に閉じ込めた。……ノリトという「システム」は、侵入するにはあまりに強固な要塞だった。彼女の視線の揺らぎ、言葉の溜め、これまでの対話の行間から、彼女が抱える「秘密」の輪郭を瞬時に察知した。

 

奇しくも彼女が告白した病名は、かつて彼が献身的に支え、見守り続けた元妻のものと、一字一句違わぬものだった。

その病は、現代の医学においては決して「終わり」を意味するものではなかった。適切な処置を受ければ、日常を取り戻すことは十分に可能だ。

 

だが、古い価値観に生きる者にとって、それは依然として「家」の継続を脅かす、忌むべきバグとして処理される。そして、これから「結婚」という名の新しい家庭を構築しようとする女性にとって、その診断は、未来の設計図に引かれた消せない黒い線だった。

 

 

「不妊のリスクが、ゼロではない」

 

 

その一行の注釈があるだけで、どんなに輝かしいキャリアも、磨き抜かれた才覚も、結婚市場という冷徹な選別場においては「瑕疵(かし)」として扱われるのではないか。

ハルカが時折見せたあの視線の揺らぎは、ノリトが語る計算された未来設計の中に、自分の不完全な身体を書き込む勇気が持てなかった、最後の躊躇いだったのかもしれない。

 

ハルカの決死の告白を受けても、ノリトの脳内では、瞬時に「最適解」が弾き出された。ハルカにふさわしい男であるために、事前に、寝る前に何度もデバック作業のようにシミュレーションを重ねた回答だった。

 

 

 「君の過去は関係ない。受け入れてみせる。これからの僕を見てくれればいい。」

 

 

淀みのない、鏡面のように美しい回答。事実として、これ以上の「正解」はないはずだった。彼は、彼女の病を『解決すべき課題』として受理したが、彼女の『祈り』としては受け取らなかった。眉ひとつ動かさず、戸惑いも動揺も見せないその鏡のような受容に、彼女の心には言いようのない違和感が沈殿していく。

 

 

「君には、カッコ悪い姿を見せられないからね。」

 

 

その一言で、ハルカの最後の賭けは失敗に終わった。 目の前の男は、自分と「対等な一人の人間」として対話しているのではない。目の前にいる「私」を純粋に愛しているのではなく、「欠損のない虚像(自分)を維持するための舞台装置」あるいは勝ち組としてのシンボルか何か、として見ているのだと。

 

 

「いつも、そう言うんだね」

 

 

「……え?」

 

 

彼女の吐息のような呟きは、ノリトにとって予想外のバグのように感じられた。冷静に、間違いのないよう、二度と大切な人を失わないために導き出した「最適解」は、ハルカにとってノリトという、あまりにも絶望的で冷たい「完璧な虚構」としての絶望を確固たるものとしたのだ。

 

二人の間に沈黙が流れる。ノリトはスマートに導き出したはずの最適解が、エラーとして検出されたことに動揺しつつも、表面上はスマートな対応を崩さなかった。

ハルカはただ、せめて目の前の食事の温かさだけは冷まさないよう、淡々と口に運んだ。

 

食事の帰り際、ノリトはずっと考えていた。きっと彼女はまだ、自分の欠陥に不安を抱いているのではないか、先日も調子を崩すという「カッコ悪い」姿を見せたばかりだ。きっと何か「貸し」のようなものを感じているのかもしれない。

 

「貸しを返す」ということであれば、一つ思い浮かんだことがある。先日の体調不良時に介抱してもらった時に与えてしまった「時間的負債」を、効率的に清算すればあるいは・・・頭に鳴り響く警鐘(エマージェンシー)を止ませることができるかもしれない。

ノリトはこのタイミングでも、リードオンリーの仮面を外さなかった。

 

 

「今日こそはちゃんと君の路線まで送るよ。たまには散歩がてら、違う駅もいいだろう?帰り道まで含めて『デート』だろ?」

 

 

ハルカはもう、この難攻不落の要塞を崩すことにつかれていたが、まだ、間に合うのかもしれない・・・論理の枠を越えた最後の最後の賭けに出た。

 

 

「いいえ。私は、あなたと同じ路線がいいわ。私だって『いつもと違う路線』にたまには乗ってみたいもの」

 

 

ノリトはまた困惑した。なぜ聡明な彼女が、わざわざ遠回り…先日の負債を「もう一度」請け負ってまで「非効率」な選択をするのか。

ノリトにとっての愛とは、相手の時間を奪わないことだった。しかしハルカにとっての愛は、自分の時間を削ってでも、少しでも長く「温度」を共有することだったのだ。

 

帰りの車中、ノリトは混乱していた。最後まで「完璧な虚構」を作り続けなければ、きっと彼女は離れていく。沈黙を恐れ、難解で血の通わない世間話を、隙間なく敷き詰めていく。ハルカが隣で求めていたのは、教科書のような知識ではなく、「あなたと同じ路線で帰りたいほど、寂しい」という言葉にならない想いへの共鳴だったのに。

 

駅のホーム。ノリトは澱みのない社交辞令を並べ、背を向けた。 直感だけは鋭いノリトは、去りゆく彼女の背中から、熱量が失われていくことを実感していた。

 

 

(追いかけなければ。このままでは終わるような胸騒ぎがする。)

 

 

脳内のシミュレーターは、エマージェンシーを鳴らしている。「好きだ」「失いたくない」と叫び、その細い肩を抱き寄せろ、と。しかし、過去の痛みから学習したはずの「感情を殺すパッチ」が、皮肉にも彼の足をホームに縫い付けた。

 

かつてミカとの生活で、彼女の崩壊に耐えきれず、自ら「疲れた」と音を上げたあの日の記憶が、一瞬だけ脳裏をかすめる。あの時、自分が手放したのは愛だったのか、それともただの重荷だったのか。ミカが最後に求めていた「ぬくもりを感じられなかった」の意味など、今のノリトにはもう、どうでもいいことだった。

 

ただ、相手がハルカに変わったとて、原理原則として変わらないものがある。 「どうせ嫌われるなら、みっともなく縋ってみよう」 そんな計算外の「悪あがき」さえ、今の自分には許すことができなかった。

 

 

 

数日後、端末の小さな振動に、ノリトはそっと目を落とした。それは、システムが淡々と告げる「交際終了」のログだった。 彼が守り抜こうとした「品行方正な虚像」は、皮肉にも彼自身の手によって、望み通りの磨き上げられた孤独へと辿り着いたのだ。

 

相談所から届いたハルカの最終回答には、こうも記されていた。

 

 

『病気のことは、あんなにすぐに受け入れてくださって、本当に嬉しかったです。そこは、心から感謝しています』

 

 

スタッフは「こんなに高評価なのに、なぜ交際終了なんでしょうねぇ」と不思議そうに首を傾げた。ノリト自身も、その一文を免罪符のように握りしめ、「自分は間違っていなかったはずだ」と自らを正当化しようとした。

 

だが、深夜の静寂の中で、その言葉が鋭利なメスとなってノリトの胸を切り裂く。

感謝しているから、お別れしましょう。

その論理破綻した結末こそが、ハルカが最後に下した明確な意思表示だった。 「即答」したあの時、自分は彼女の震える手を取るのではなく、ただつらい現実に目を伏せたかっただけだったのではないか。

 

彼女の「感謝」は、歩み寄りの言葉ではない。 自分という完璧な要塞に、最後まで入り込めなかった一人の女性が、去り際に見せた「絶望的なまでの優しさ」だったのだ。

その事実に気づいた瞬間、ノリトの目から、これまでの人生でたった数度だけしか流しことのなかった、熱く、不器用な涙が溢れ出した。 相談所の評価シートには決して載ることのない、婚活というシステムの中の、あまりにも遅すぎた「初恋」の終わりだった。

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