ほころび行く虚像

ハルカが抱いた小さな違和感。それは、静かに水面下で波紋を広げていた。しかし、ノリトはそれを「許容範囲」だと読み違える。合理性を重んじる彼は、相談所へ「極めて前向きである」とスマートな報告を送り、盤石な未来を確信していた。

 

しかし、システムを介して返ってきたのは、予想だにしない評価だった。

 

 

「ノリトさんはどこか無機質で、私のどこを見て好いてくださっているのかがわからない」

 

 

あの日の美術展、フェイスキャプチャーの前で見せた完璧すぎる無表情。そして、カフェでの事務的な「トントン」という精算。完璧なエスコート、計算された知的な会話。その全てを否定されたような衝撃に、ノリトは困惑する。

 

彼はこの「バグ」を修正しようと、さらに新しい仮面を上塗りした。無機質という評価を覆すための、不自然なほどのユーモア。彼は次のデートに、自身の完璧なイメージとは真逆の、可愛らしいデザインのタオルを忍ばせた。

 

「ミャクミャク」・・・大阪ではその頃、55年ぶりの万博に湧いており、当初は「気味が悪い」と言われつつも、徐々に人気を上げてきたキャラクターだ。ノリトにとって、彼女の「無機質な」という評価を上書きするには、このギャップという計算に基づいた「隙」を「低評価から高評価への転換」という象徴的なキャラクターで演出するほかないという考えだ。 

 

それを見た彼女は、さらなる困惑に陥る。彼女が求めていたのは、上書きされたキャラクターではなく、仮面の下にある「生身の感情」だったからだ。

 

 

「え?意外でしたね。そういったかわいいキャラクターのものを使うタイプだとは思っていなかったので」

 

 

ノリトはテレビ番組で言うところの「おいしい展開」を見事演出しきったのだと、少し悦に浸っていた。彼女の困惑を「うまい返し」と都合よく解釈していたのだ。

その日の食事では他愛のない話をしつつも、ハルカは1つ、覚悟を決めたように、核心に触れる問いを投げかけた。

 

 

「もし結婚したら、家族との関わりはどうしましょうか?」

 

 

将来の夫候補に対してする質問としては当然のものだ。

ノリトにはもう一つ、ハルカに伝えていない事があった。母親という、愛着と執着が未分化な存在。かつてミカがヒロセ家に嫁いだ時、自らの領域に入り込んだ異物を除去するために静かに牙を剥いた母。 「心配をかけたくない」という、もはや呪いとなった自己完結的な優しさが、ノリトの口を重くさせる。ハルカが何度も真剣な話を繰り返す中で、二度目の彼の歯切れの悪い回答は、彼女の目には「誠実さの欠如」として映った。

 

折悪しく、ノリトの身体は限界を迎えていた。「神経性胃腸炎」。かつての結婚生活の中で、一度ノリトのシステムを大幅にダウンさせた病気だ。一般的に見ればたいしたことのない病気、いわば「ストレスでおなかが痛い」という程度のものだ。ただ今のノリトは違った。ノリトは今、会社という大きなシステムで欠損した部分のパッチを当てるかのように異動した立場だ。

 

 

「悠々自適に暮らしたい」

 

 

と言いつつも、かつて先輩がそうしたように、面倒見よく振舞うノリトにとっては、日常の業務の他に非合理的で不条理な「飲み会」も増えていた。

 

 

「連日飲みすぎて気持ち悪い」

 

 

普通なら当たり前に言える言葉だ。だが、相談所のフィードバックに不自然なパッチを当て、『完璧』という虚構をさらに上塗りしたノリトにとって、それはあまりにも軽々しく、口にするには重すぎる言葉だった。

 

食後、顔面蒼白になったノリトを、ハルカは献身的に支えようとする。そっと寄り添うその手の温もり。しかし、ノリトの口から漏れたのは、愛の言葉ではなく、悲痛な独白だった。

 

 

「カッコ悪いところを、見せたくない……」

 

 

ノリトは恐れていた。品行方正で知的な、完全無欠の「ハイスペックな男」という虚像が崩壊することを。もし崩れれば、ハルカに愛される資格を失うと信じ込んでいた。 彼女は、ただ一言を待っていた。

 

 

「苦しい、そばにいてほしい」「不安なんだ」

 

 

その弱さこそが、二人の心を繋ぐ唯一の架け橋になると信じて。

だが、ノリトは最後までハイスペックな男を演じようとした。ハルカとの交際もそろそろ二ヶ月が経とうとしている。どんなに苦しくても、これだけは伝えておかなくてはいけない。

ただでさえ、相談所からは「無機質だ」という警告が出ている。「情熱」という、ある種の特効薬のようなパッチを早急に当てなくては、そういった思考が頭の中で繰り返され、ノリトはハルカに「こんな調子だけれど、自分も大事な話をしておきたい。」と前置きしたうえで伝えた。

 

 

「僕はあなたが好きだ。こんな姿を見せて締まらないが、先々のためにハッキリさせておきたい」

 

 

それは、愛の告白という、ありふれたものよりは、システムを正常化するための「宣言」に近かった。

 

 

「そう・・・なんですね。ありがとうございます。少し、考えてみます。」

 

 

ハルカにとってそれはまさに青天の霹靂(へきれき)だった。ハルカはただ、目の前で調子を崩した男に、そっと手を差し伸べたいだけだったのだ。

 

 

「でもノリトさん、今日はずいぶんと調子が悪そうだから、私も同じ路線で付き添いますね。」

 

 

ハルカは自身の最寄り駅とは遠い、家とは線路を挟んで反対側の路線に乗り込み、ただただ目の前の顔の青い男の横に寄り添った。

 

 

(今、私の横でウトウトとしているこの男は一体何者なのだろうか。)

 

 

頭をよぎる違和感を振り払うように、少しだけ間をあけて隣に座り込んだ。

ノリトはハルカのぬくもりを確かに感じつつも、心の中ではかつて重大な不具合が発生した日々の、目を背けたくなる過去のフラッシュバックをハルカに見せたくないと考えていた。

 

 

「ノリトさん、家はどちらでしたっけ?もしよければ付き添いますよ。」

 

 

ノリトはハルカの慈愛に満ちた申し出に内心喜びはしつつも、やはり彼女にだけは醜い姿を見せたくなかった。何より、彼の脳内では連盟の規約が警告音を鳴らしていた。

 

 

仮交際の段階で自宅に招き入れることは、重大なルール違反にあたる。

 

 

もしこれが発覚すれば、せっかく構築した彼女との関係が、修復不能なエラーとして強制終了させられてしまうかもしれない。不測の事態で彼女を失うわけにはいかなかった。完璧な虚構、ノリトは普段は部屋を隅々まで整頓する男だったが、最近は飲み会という非合理的な激務に忙殺され、人並み程度には部屋は散らかっていた。

 

加えて、ノリトはハルカに今住んでいる家がかつての妻・ミカと暮らした部屋とは伝えていなかった。彼女には虚構の裏に隠れた不都合な真実を見られたくはなかった。

 

 

「いえ、結構ですよ。部屋も散らかっていますし、あまりカッコ悪いところを見られたくもないので。」

 

 

ハルカの慈愛の手を振り払うように、ノリトは一方的な言葉を放ち、タクシーへと逃げ込んだ。

一人、夜道に取り残されたハルカ。 街灯が照らすアスファルトを見つめながら、ハルカは深い孤独の深淵に触れる。

 

 

「私が欲しかったのは、あなたの体面じゃない。……私に甘えてほしかった。この夜道を一人で歩かせることを、躊躇ってほしかっただけなのに」

 

 

初夏の夜風は、震える彼女の肩を撫でるだけで、男へと届くはずの言葉はどこにも行き場を失っていた。

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