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何度でも、自分たちの物語の意味を編みなおす

はじめまして。
2025年1月にヘラルボニーに入社しました鹿熊 健と申します。動物の鹿カクマと読みます。下の名前は、健と書いてタケシです。

入社してからは毎日が文化祭の前夜のような感覚です。忙しい日々のなかで、私はなぜヘラルボニーに入社したのか、ヘラルボニーでどんなことを実現したいか。

自分自身でもそれを見失わないためにも自分の原点を振り返りたいと思います。

どこから来たのか?

1989年5月、母方の実家がある茨城県・水戸市で、3歳上に姉のいる長男として生まれました。勤勉な父と料理とおしゃべり好きの母、そして物知りで絵を描くことが好きな3歳上の姉。

公務員だった父の転勤で青森県佐井村→青森市→群馬県みなかみ町→前橋市→東京都東久留米市、と物心つくまでに2年に一度くらいは引っ越していました。

私自身は幼い頃、身体が弱くて気も小さく、いつも母親の後ろに隠れているような子どもでした。学校も休みがちで、幼稚園の年少クラスでは給食が嫌で不登校になり、そのまま退園してしまったこともありました。

小学校には入っても休みがちな日々は続き、休んだ日には家で飼っていたウサギ(ぴょんた)と遊んだり、レンタルビデオ屋で母が借りてきてくれたドラえもんの長編映画を擦り切れるほど、繰り返し観たりしていました(一番観たのは『のび太の日本誕生』)。

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姉と当時飼っていたうさぎ(ぴょんた)

障害との出会い

小学校3年生のある日、姉の同級生何人かに囲まれて「お前の姉ちゃん、なんか変だな」と言われて、その瞬間に顔がカッと熱くなり胸の奥の方がぐっと苦しくなった感覚を今でもうっすらと記憶しています。

おそらくそのときにはすでに自分の姉が周囲の人と少し違っていることに気が付きはじめていました。でも、そのことが何を意味するのかを理解しきれず、受け止めきれないままでした。

私の姉にはアスペルガー症候群という障害があります。発達障害に分類される自閉症スペクトラム障害の一種で知能に問題はないが、人の感情を読み取ったり物事の行間を読み取ることが苦手で人とのコミュニケーションに困難を抱えることが多いです。また特定の分野への強いこだわりを示すことがあります。近年は「アスペ」という言葉を耳にしたことがある人も多いかと思います。

でも、姉が正式に障がい者手帳を受け取ったのは成人してからでした。2000年代初頭の当時はまだ発達障害という言葉は一般的ではなく、また私たち家族にとって姉の障害を受容するには長い時間を要することになります。

その一方で、姉の周囲の環境は容赦なく刻々と変化し、学齢が上がるにつれて姉にとっての現実は過酷なものになっていきます。小学生の頃は「物知りだけど少し変わってる子」という形でゆるやかに受け入れられてきたものが、中学校に進学する頃には「空気が読めない」、「勉強についていけない」ことが鮮明になり、異質なものとして排除される。そして、学校での居場所を失っていきます。

今までと同じようにたまごっちやポケモンの話をしたいだけなのに、なぜか周りからは反応が返ってこない。話しかけても無視をされる。誰にとっても多感な時期で、彼女の自尊心を大きく損ない、人生に絶望するには十分すぎる環境です。

次第に姉はそうしたストレスを家で爆発させることが増えていきました。『エクソシスト』というホラー映画さながら、泣き叫び暴れる。「私はなぜ人間に生まれたのか」「私は幻獣になりたい」。そして父は、それを黙らせるために彼女を怒鳴り、時に叩く。母はそれを防ごうと間に入りなだめる。私は自室の片隅で定期的に訪れるその嵐が過ぎ去るのを待つ。そして、布団をかぶりながら、ある考えが何度も頭をよぎります。

「なぜ自分の姉はこうなのか?」「なぜ自分がこんな思いをしないといけないのか?」と。

こうした日常が断続的に、出口の見えないまま10年以上続きました。

スポーツと文学

私にとってのひとつの救いはスポーツと本との出会いでした。小学校3年生から地域の少年野球チームに入ることで、学校の少しやんちゃな友人も出来て、体力も付きました。

中学校ではバスケ部に入部して、厳しくも愛のある先生のもとで、お盆と正月休み以外は本当に毎日朝から晩まで練習漬け。厳しい練習で心も体もデカくなり、朝練→授業→練習→寝る、という生活ルーティーンのおかげで、思い悩む時間も体力も残されていなかったことは一つの幸いでした。

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高校のバスケ部同期と

そして、部活の時間以外はファンタジー文学の世界にどっぷりはまっていました。『エルマーのぼうけん』と出会って以来、物語の世界にどっぷりとはまることが大好きになり、中学時代は『ダレン・シャン』『ネシャン・サーガ』『バーティミアス』そして『ハリーポッター』シリーズ等の欧米のファンタジー小説を授業の休み時間や休日はずっと読んでいました。読書を通じて、ここだけは自分だけの絶対に安心・安全な場所を心の中に築くことができたことはもう一つの幸運でした。

高校時代に『ハリーポッター』シリーズの新作が日本語に翻訳されるのが待ちきれず、発売したらすぐ読めるように英語を勉強しようと思い立ち、ラダーシリーズというやさしい英語で書き改められた英文リーダーを読み始めます。バスケの練習の合間に、英語を音読・暗唱するという習慣を3年間継続しました。その結果、授業が英語で行われ、1年間の交換留学が必須の大学に進学することになりました。

『ハリーポッター』が家と学校の往復しかしてこなかった自分に、日本の外の世界へ踏み出すきっかけをくれたのでした。

大学2年生の時にカリフォルニア州の大学に1年間の交換留学で滞在しました。主に読書を通じて英語を学んだ私にとって5人のアメリカ人学生と一つ屋根の下での寮生活は決して容易なことばかりではなかったですが、内向きな性格を破り、自ら働きかけコミュニケーションをとっていく力を養う絶好の機会となりました。

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留学先のルームメイトとピア39にて

もしかしたら自分だったかもしれない

大学卒業後は電機メーカーの東芝に入社しました。父が公務員だったこともあり、働くならば公共性が高く、海外留学の経験を生かせそうな仕事に就きたいと考えていました。

入社後は再生エネルギー事業の調達部門に配属になり、太陽光発電所の建設プロジェクト向けの海外サプライヤーの管理や貿易実務、国際物流等を担当することになりました。

学生時代はバスケとファンタジー文学の世界に耽っていた私にとって、重厚長大な製造業における建設プロジェクトはすべてが未知の世界でした。

当時は、政府の補助金を背景に売上が倍々で増えていく時期であり、書類とメールの山々、社内外の果てしない会議の数々に飲み込まれそうになるなかで、素晴らしい上司と先輩・同僚のリードのもとで複雑で長期間にわたる大規模プロジェクトを履行していく力を少しずつ養っていくことができました。

その後、インドやドイツへの駐在・長期出張を経て、少しずつ経験と自信を積み上げていくことができました。

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インドで毎日送迎してくれていたドライバーさんと

同時に姉のことについても徐々に向き合うことができるようになってきました。当時のnoteには次のように書いています。

それと同時に自覚するようになったのは「もしかしたら障害を抱えて生まれてくるのは、姉ではなく自分だったかもしれない」ということだ。
同じ親を持つ姉弟、生まれる順番が逆だったら、あるいはDNAの配列が少し異なっていたら……と考える。このことに気がつくと、色々なことが今までと違って見えてきた。私にとっての姉はアスペルガーというもう一方の可能性を引き受けてくれたもう一人の自分なのである。誰が決めたわけでもなく、それがたまたま姉であって、私でなかっただけなのだ。

「もしかしたらそれは自分だったかもしれない」-アスペルガー障害の姉を持ってみてhttps://note.com/dearbear527/n/n331e389080cc
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家族4人、住んでいた団地の前で

「きょうだい児」としての私

姉が持つ障害に目を向けるきっかけとなったのは、妻との出会いでした。彼女の卒業論文のテーマが「障害者のきょうだい児に関する質的研究」でした。2018年6月、知り合って間もない頃にお互いの姉に障害があることを知り、その卒論を送ってもらってむさぼるように読みました。そしてきょうだい児という言葉があることをはじめて知りました。

きょうだい児とは病気や障害のある兄弟姉妹がいる子どものことを指しますが、私はその時までそういった言葉を知りませんでした。

妻の論文できょうだい児の方のインタビューを読んで、その時はじめてこの感情は自分だけのものではなかったのだと衝撃を受けました。それまでは「私の、私だけの不幸」みたいに自分で勝手に肩に背負っていたものが、ハラリとほどけていく感覚がありました。

自分と同じような境遇の方々が他にも多くいることは、少しの想像力とネット検索があればわかるはず。でも、それまでの私は自分の足元ばかり見ていて、そのことに気づいていなかったのです。

自分だけの課題だったものが、妻とともに向き合う課題でもあり、そして社会の課題であるということを徐々に理解するようになります。その後妻はコンサルティングファームを経て教育・福祉の分野で幅広く事業展開をしているLITALICOに転職し、自分もいつかは障害福祉領域の仕事に挑戦してみたいという思いを抱くようになりました。

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妻と妻の姉と。

ヘラルボニーという衝撃

2019年にMUKUというブランドを知り、殴られたような衝撃を覚えました。一目見てプロダクトとしてカッコいい。そして少し掘り下げると実は障害のあるアーティストの作品を使っている、という順番にまた痺れました。その直後に1周年の行事が渋谷で開かれると知りさっそく夫婦で参加しました。

その後、崇弥さん(弊社Co-CEO)の講演会にも参加しFacebookで連絡先を交換しました。すでに在庫切れになっていた蝶ネクタイの最後の1個を個別で送って頂き、自分たちの結婚式でも着用しました。当時、妻が書いたnoteにもあるように「ドレスもタキシードもまだ決まってないけど、新郎の蝶ネクタイだけは決めて」いました。

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当時のmessengerでのやり取り

そのころから「いつかはヘラルボニーの取り組みに加わりたい」と考えつつも、私の仕事は障害福祉にもアートにも関係がなく、「電機メーカーの調達部の自分になにができるか?」と二の足を踏む期間が長く続きます。

機関車の調達からアートの調達へ

前職での最後の仕事は、海外へ電気機関車を輸出するプロジェクトの調達リーダーとして欧米とアジアを含む11カ国、25社以上のサプライヤとの売買契約書の締結交渉やサプライチェーン管理を担う、それまでの経験を総動員するプロジェクトでした。

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インドのサプライヤーと前職の同僚と

仕事の傍らで、自分のバックグラウンドを活かして障害福祉の文脈で役に立つことができないかより深く探索するために、2022年4月に、早稲田大学の夜間大学院(経営管理研究科)に入学し、主に製造業の特例子会社を対象として「インクルーシブなオペレーションとはなにか?」を研究しました。

ソニー太陽、キユーピーあい、日本理化学工業のような障害者雇用における優れた現場を訪問し、どうすれば職務へのアクセシビリティを高めつつも、生産性を高められるか、という問いを探求しました。

大学院在籍中には会社を5か月休職してフランス・リヨンの大学院に交換留学をし、現地ではひと回り以上年下の学生と一緒にソーシャル・イノベーションやシステム思考を用いたサステナビリティに関する授業等を受講しました。また、留学先の卒業生が創業したCafé Joyeuxでは、ヘラルボニーにも通じる障害福祉の未来を垣間見ることができました。

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Café Joyeux Lyon店にて、母と姉と

そして、2024年5月にヘラルボニーは日本企業で初となるLVMH Innovation Awardの受賞をきっかけに海外に進出することを知りました。2019年にヘラルボニーを知ってからすでに5年の月日が経っていましたが、遠回りをしたからこそ得られた経験、そして、今だからこそ貢献できる領域があると感じ、思い切ってヘラルボニーに応募することになります。

アートという領域の仕事は全くの未経験でしたが、面接のなかで当時の人事責任者だった大田さんからは「ヘラルボニーも作家・施設さんからアートを調達させていただいているといえる、だから、鹿熊さんの経験はこれからヘラルボニーが海外展開していくうえできっと役に立つに違いない」という言葉をいただきました。

私の姉は認定NPO法人あいアイ(川越市及び東京都北区)というところで10年以上絵を描いていたことから「ぜひ、挑戦したいです!」とお答えして、現在に至ります。

重厚長大な発電所や鉄道機器の調達から、アートというまったく新しい領域への挑戦が始まりました。

どこへ行くのか?

ヘラルボニーで、私は主に二つのことに取り組んでいきたいと考えています。

  1. 世界中の作家の発掘/関係構築/契約/収益化。障害のあるアーティストの才能を世界中で見出し、適切な関係を構築し、公正な契約のもとで彼らの作品から収益を生み出す仕組みを拡大していきたいと思います。

  2. 異彩をはぐくむ土壌を潤す循環づくり。アーティストが生まれるためにはその作家をはぐくむ環境(施設や画材、先生、仲間等)が持続していくことが必須です。作家報酬の向上を指向しつつ、同時にその報酬が関係者やちに循環する仕組みの構築を目指します(例:サッカーの連帯貢献金制度)。

会社として急速に組織が拡大する中で大切にしたいのは、社会性と経済性の両立という理念を現場のオペレーションレベルまで落とし込むことです。純粋に経済性だけを追求する企業と比べるとハンデを背負っている面もありますが、だからこそ大胆なデジタル化や業務の標準化を進めることで効率的な運営を実現する必要があります。

大規模で複雑かつ長期間にわたるインフラプロジェクトの履行を通じて培った粘り強さで、ヘラルボニーという会社の持続可能性を高め、ヘラルボニーが目指す世界の実現に向けて貢献していきたいです。

共感する力と訂正する力*

「きょうだい児」として育ち、姉をきっかけに障害について考え続けるなかで、私は「共感」と「訂正」の両方が大切だと考えるようになりました。

障害に限らず、誰もが何かしらのマイノリティ性を抱えています。それらを互いに比べてどちらがより苦しかったか、不幸だったかを競うレースに陥ることなく、共通の理解を作り出すにはどうすればよいか?

自分のバックグラウンド、読んできた物語、そして自らの人生の経験から得た視点をもとに、相手の置かれた状況や気持ちを想像し共感する力を養うことは大切です。しかし、時に「わかったつもりになってんじゃねー!これは私だけの感情なんだ!」と言われることもあるでしょう。そんな時は、何度でも自分の理解を訂正する勇気を持ちたいと思います。

共感は、他者理解の出発点でありますが、完成形はありません。共感とはいわばお互いの「たたき台」を提示する行為であり、そこからすべてがはじまります。ヘラルボニーでの活動を通じて、共感だけで終わらず、共感をもとに対話し、相互に理解を更新し続ける場を創っていきたい。

私たちは何度でも自分たちが生きる物語の意味を編みなおすことができます。でも、それは一人では成し遂げることはできない。誰かと出会い、話し合うことから、新たな意味や価値を紡ぎだすことができる。

私にとっては、妻との対話、国内外での多くの人との出会い、そして、ヘラルボニーという存在があったからこそ見出せた物語が今ここにあります。

安易に「わかった」と言わず、かといって分かり合うことを諦めず、半分は自分のスタンスを保ちながらも、半分は相手に開かれた姿勢でいる。ヘラルボニーというムーブメントを通じて、そんな関係性と、そこから紡がれる物語を少しでも多く世に生み出していきたいです。

これからどうぞよろしくお願いいたします。

*「訂正する力」という概念は、哲学者・東浩紀氏の著書『訂正する力』(朝日新聞出版、2023年10月)で展開されている考え方にインスピレーションを受けています。本文中での使用は筆者による解釈に基づくものです。


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