母の日である。
勿論、私の母は存命はしていない。
かなり以前の話だが、実家の物置やら納戸を掃除していた時に、昔のアルバムやら雑誌やらがわらわら出てきて、ついつい整理の手が止まること止まること。
その中でも、一冊の超古びたノートが目を引いた。
表紙には無機質に「第二海軍燃料廠」とか印字されている。
これは昭和元年生まれの私の母が、昭和20年、三重県四日市の海軍砲兵工場で女学生動員で爆弾を作っていた頃に使っていた、軍からの支給されたノートなのだそうだ。
正に太平洋戦争も熾烈を極めた超ヤバい時期に、今では考えられないような環境下の工場で、ひたすら硝酸やら何やらを爆弾に装填作業をしていたのだと言う。
さすがに戦禍が厳しいところまで来て母は疎開したそうだが、そのほんの数日後、この工場はB29に爆撃を受けて、完膚なきまでに破壊された(四日市空襲)。
こんな話を聞くと、今、私がこの世にいるのも奇跡に近いと感じる。
そして、このノートを開いて見て驚いた。
母が綴った、当時の流行歌の歌詞の他に数十ページに渡り、ビッシリとイラストが描かれていたのだ。
今から約80年前、まだ母が20歳前後の頃である。
しかも結構ウマい。いやウマいどころの騒ぎではない。
下書きの跡も見られず、迷いのない描線。
模写にしても、その構図のとらえ方、的確なデッサン。
なんなら、ところどころに彩色まで。
繰り返して言うが、戦争末期の昭和20年頃である。
これを発見した当時、老いた母に聞いてみた。
「海軍の工場で、こんなもん描いてて大丈夫だったの?」
「見つかったら、敵性なんとかって言われて独房に入れられてたかもね(笑)」
「何でそんな危険を冒してまで、こっそりとこんな画を…」
「当時は女学校って言っても、戦争で殺伐としててね。何の楽しみもないからハイカラな絵を描くと皆、喜んでくれたのよ。それが楽しくって」
母は手塚治虫とほぼ同世代である。
漫画なんてせいぜい「のらくろ」ぐらいな時代である。
たぶん、モチーフは竹久夢二か海外の本の挿絵辺りであろう。
「本当は戦争が終わったら、女流漫画家になりたかったのよ(笑)」
笑いごとではない。
そんな話は初めて聞いたぞ。
実際は、戦後復興の中、生活するだけで精一杯で漫画どころではなく、ほどなく父と結婚し、家事に追われ、我々兄弟を育て上げることに注力し、彼女の夢はいつの間にか消え去っていた。
もし、独身で通し漫画を極める生活をしていたら、ひょっとしたら日本で最初の女流漫画家になっていたのかもしれない。
今、分かった。
俺のDNAは間違いなく、母から受け継いだのだ。
人を喜ばせたい、アートをやりたい、そんな気質を我々兄弟に与えたのは疑いもなく貴女だ。
「そんな大したもんじゃないわよ」と笑い飛ばす、福山雅治好きだった母。
そんな至って健常な母に「大腸ガン」が発見された。15年前のことだ。
手術は行ったが、結局、肝臓・肺にまで転移が認められ、もはや末期状態で手の施しようもなくなっていた。
これまで入院も重い病気もしたことがなかったのに。毎年健康診断をしていたのに。
だが、医師は逆に驚いていた。
「こんな頑健な身体のご老人は初めてみた。細胞が若者なみに元気。一概には言えないが、ガン細胞の進行もこの御歳にしては早かった」
救いは、ほぼ苦しむことなく、すっと息を引き取ったことだ。がん発見から僅か1カ月のことだった。
熊本生まれで、気性の荒いところと、穏やかな芸術を嗜むところが共存していた母。
今度の彼岸には、俺の描いたド下手なイラストを墓前で評価してもらおうと思っている。